第8話滝の向こうから
それから先は本当におぼろげにしか覚えていない。
途切れ途切れの記憶が確かなら、俺は小舟に乗ってやって来た、攫い雛のような女に小舟に乗せられ、台風によって水の量が増えた滝の裏を潜ったと思う。
何故、おぼろげなのかと言うと、その時、俺は熱を出していたのだ。無理もない。遮るものが何もない中、何時間も暴風の中を移動していたのだから。
熱に浮かされ、頭が割れるように痛む中、街がある小島ではなく、更に池の奥にある滝に向かって進む小舟と景色に疑問を持っていたことだけは何故か鮮明に憶えている。
恐らく、黒い振袖のようなものを着ていた女は、神の使いか何かだったのではないか。
そう考える根拠は、あの激しい天気の中、小舟とその周りだけは、雨に濡れていなかったからだ。
まるで、雨の方が小舟を避けて降っているかのように。
そして、雨に邪魔される事無く、滝の下へ辿り着き、更に神がかりな現象が起きた。
怒りに身を任せた龍のように、激しく水面を打っていた滝が、女が手に持った灯篭を掲げた瞬間、蛇口を締めたかのように、途端に細くなったのだ。
小舟は至って安全に漕ぎ進められた。
滝の裏には、鍾乳石がぶら下がった洞窟があり、そこに小舟は進んだ。
所々に、水に濡れない高さを計算して、くっつけてある蝋燭が小さな炎を揺らめかせていた。
どのくらいの長さがあったかは今となっては思い出せないが、洞窟はそれなりに長かったと思う。
停滞した暗闇の中を、気まぐれに置いてある蝋燭の明かりだけを頼りに、時折櫂が水面を叩く音で、船が進んでいる事が解った。
しかし、どんなものにもいつかは終わりが来る。
洞窟の向こうに、青白いような、青白くないような、とにかくそこが洞窟の終着点と本能的に理解できるようなものが見えた。
静かに、小舟は進んだ。
鍾乳石が次第に小さくなり、岩が大きく穴をあけた。
洞窟を抜けた先には、やはり、池のような深さのある水溜りがあった。
船着き場のような、木の板と石を組み合わせたような場所があって、水溜りは、青々とした地面に囲まれていた。
蛍が飛んでいた。
月は出ていなかったが、不思議と池の周りは明るかったと思う。
指一本も動かせなかった俺を、女は岸に持ち上げ、俺を草の上に転がした。
遠くから、人の声がしたと思う。
目が覚めて、あの時聞こえた声は、七瑚の声だった事が判明した。
そして、俺は、目が覚めたら見知らぬ神社のお世話になっていた。
更に、その神社の番台に、全く覚えのないものがあった。
十二単 『新入り』砂糖惇生
綺麗な文字で、俺の名前が書いてある木札が、他の人と同じようにぶら下がっていたのだ。
ご丁寧に、鯛焼きを象ったハンコみたいなものも押してある。
「ねえ、あなたの好きなものは何?」
状況が呑み込めていない俺に、一番最初に訊かれたことだ。
俺は、言った。
「鯛焼き」
と。
両親や、同級生や、知り合いの人達とは違う、純粋な目で、大きな金魚を従えた七瑚は言った。否、七瑚だけではない、酒飲み京之助オジサンも、お金大好きキララも、同じように、「そっか、鯛焼きなんだね!」と優しく相槌を打った。
それが嬉しくて、俺は今ここにいるのだろう。
この神社では、他にも、寝ているうちに俺の部屋がちゃんと用意されていたり、調度品が揃えられていたり、「今日からここがあなたの家です」と言わんばかりの出来事が起こった。十二単の皆に訊くと、
「この神社に祀られている、夢観幸世御神は、気に入った人がいると、その人の居場所を用意する変わった神様なんだよ。」
という冗談みたいな返答が返ってきた。
話によると、最近十二単では人手不足に悩まされていたらしく、どうにかならないかと神殿で話し合っていたところ、何の前触れもなく、俺の名前が書いている木札が番台に出現し、「池」と書いた紙が落ちていたらしい。
七瑚が代表して、神社から更に山奥の御池に行ったら、地面に転がった俺を発見した。
ついでに、俺をこの世界まで連れてきた女は、這子様という子供の発育を願う神様のらしい。じゃあ枯子池に付き纏う噂は何なのかというと、枯子池には子供を食べる鬼子母神が原因らしい。正反対の神様同士、お互いの力を打ち消し合いながら暮らしているということなのだろうか。
後日、俺は、元の世界の戻れないかと、御池に行ったが、無駄だった。洞窟の入口が、池の底の沈んでいたのだ。あの時見た木の板と石を組み合わせた船着き場が、池の底にあった。
そして、枯子池と同じように、落差の大きい滝が、池の水を打っていた。
七瑚の話によると、あの池は、人間の世界とつながっている門の一つらしい。
滅多にあの洞窟は現れることはないそうだ。
色々奇想天外過ぎて、まだまだ慣れない事も多いが、不思議とここの居心地の良さで、ここの生活に早く順応しようとしている俺がいた。
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