第7話

 『なんとなく』。便利な言葉だと思う。

 僕は感覚的に物事を捉えようとする、癖みたいなものがあるんだと思う。だから理由や理屈よりも先に、『なんとなく』感じ取ってしまうのだと思う。

 これは便利なように見えるかもしれないが、実際のところは壊滅的なまでに使い勝手が悪い。理由や理屈を自分で説明できないというのは、相手に何かを伝えようとするときに困ってしまう。説明できないものを人は信じ難いからだ。


 ましてや僕は、小説家になりたいという夢を選んでしまった。小児病的な発想なのは仕方がない。たいていの子供は、大人になるにつれて現実へ進んでいくか、大人になっても幼さの残る夢を引きずり続けるかなんだから。

 精神的に病みまくっている僕には、今思えば非常に荷の重い話だ。小説には感情表現が求められる。人間は感情で行動する生き物だから、小説家は心理学者以上に感情それを理解していないといけない――気がする。

 登場人物の心理は必要不可欠なものだ。作者がキャラクターを動かすのではなく、キャラクターの心が物語を動かしていく。そんな理想を抱いてしまう。

 しかし結局は僕の夢の道であって、こういうのは現実から見ればまだまだ程遠い着地点なのだ。想像の範疇にないことの方がたくさんある。今はまだ、この程度の想像で終わらせておこう。


 閑話休題。

 なぜこんな話を挟んだのかというと、僕はなんとなく察してしまっていた。沖田さんと出会ってしまったことは、僕の人生にとって大事な分岐点になることを。これから荒波の時代が来る、そんな予感がしたのだ。

 こんな脆弱な精神のままそれを乗り切るのは難しいだろう。けれど予感してしまったからには、そこから逃げるわけにもいかない。僕はすでに、逃げ続けていた自分の選択に終止符を打ったのだから。これ以上は逃げられない。


 ならばせめて、沖田さんとの出会いを大事にしたい。沖田さんとの記憶を大事にしたい。そしてこの三日間の大切な思い出を共有して、生きたい。

 そう思えば思うほどに、別れることの寂しさは募っていく。けれどもうそれは避けられない事実だ。

 だから沖田さんに、僕のことを忘れられなくしてやろう。これから先僕のことを節々で思い出すような、そんな強烈な思い出を作ってやろう。

 そんなちゃちな決心で、僕は花屋へと足を運び入れるのだった。



 扉にくくりつけられているベルが鳴ると同時に、店内の甘い蜜のような香りに嗅覚を支配される。あまりにも強烈すぎて、これはこれで不快だ。やはり程々が一番良い。

 よく見ると、奥のショウケース越しに沖田さんの姿が見えた。真剣な目つきで花を選んでいるようだ。今は話しかけない方が良さそうだな。


 これはラストチャンスだ。沖田さんに僕のことを教えてもらうための、強力な武器を手に入れなければならない。幸いにしてその武器を、僕はすぐさま二つ想像することができた。一つは僕自身の中にあるもの。もう一つはとある花だ。

 目当ての花はすぐに見つかった。旬の時期を知らないから、なかったらどうしようかと思っていたところだ。店員さんに聞けば代わりになりそうなものを見つけられるかもしれないが、やはり僕の伝えたいことを形にするなら、この花でなくてはならないように感じる。


 眼帯の奥が熱い。けれどいつもとは違う。不思議と痛みや気持ち悪さではない、別の感覚が脳髄へと伝わってくる。

 こんな気持ちは初めてだ。沖田さんと出会ってから気づかされることの多さには、少し辟易としてしまう。もっと僕がきちんとしていたなら――そんな幻想からは離れられない。

 武器は手に入れた。最後の最後くらいは沖田さんを驚かせてやろう。そう思うと心が弾んだ。



 沖田さんが店外に出てきたのは、僕が購入し終わってから数分後のことだった。今まで沖田さんは常に僕よりも先んじていたから、ちょっとだけ変な気分だ。

「ごめんなさい、遅くなってしまいました」

「僕もさっき買ったばかりですから。大丈夫です」

 その間に、僕が放つべき言葉をうまくまとめることができた。準備万端というやつだ。もう恐れるものは何もない。全てをさらけ出してやろうという、小さな気概が心に宿っている。

 そう、終わるにはまだ早い。


「では私の方から紹介しますね」

 沖田さんがビニール袋から取り出したのは、薄緑色の小さな花だった。紫陽花あじさいのように小さな花弁がいくつも集まっている。

「これは……?」

手毬花てまりばなっていう名前だそうです。ちょうど5月から咲く花らしくて、時期的にもぴったりだと思います。

 花弁一枚一枚は小さいけれど、それらが寄り添うように重なり合っている姿は、なんだかとても愛くるしい。


「僕も初めて見る花です。花の中では著名な方なんでしょうか?」

「どうなんでしょう、実は私はあまり花には詳しくなくて……」

「あれ、そうなんですか?」

「本当はもっと、栞の右瞳のような碧色――濃い青緑色の花を探してたんです。その色を見ていれば、次第に嫌悪感が薄まっていくんじゃないかって思って」

 確かに、僕がこの瞳を嫌っているのは異物感からくるものだ。日常的に似たような色に接していれば、生理的な拒否感も少しずつ薄れていくかもしれない。突然の申し出だったのにそこまで頭が回るのは、さすがとしか言いようがない。


「けれどやっぱりうまく見つからないものですね。店員さんに緑色の花はないか、って聞いて選んだんですよ。今まで花を愛でるようなことはなかったので。どうですか?」

「……とても素敵な緑色だと思います。ありがとうございます」

「花には疎かったので、喜んでもらえたのは嬉しいです」

 沖田さんは最後まで沖田さんらしく、僕のことを気遣ってくれた。花には疎いだなんて言っていたけれど、その中で最善を尽くせる人だからこそ、惹きつけられる魅力があるのかもしれない。



 次は僕の番だ。最後の僕の番だ。

 沖田さんの心遣いに泥を塗るようだけれど、僕は僕自身の目的のための花を贈る。

 けれど僕のためでもあり、真心を尽くしてくださった沖田さんのためにも、強い意志を見せなければならないと思った。心の弱いままの自分ではいられない。

 だから汚い方法と言われてしまうかもしれないけれど、僕はあくまでも自分勝手に振る舞いたかった。……沖田さんの目にどう映るかはわからない。


 買った鉢植えを沖田さんに手渡す。

「……美しい青色の花ですね。もしかして新撰組の、浅葱の袴をイメージしたんですか?」

 あぁ、確かにこの花の色はあれに近しい。幾分かこちらの方が紫がかったようにも感じるけれど、想起させるには十分な色合いだ。

「ごめんなさい、僕は色ではなくて花言葉で花を選んだんです。そういう意図を汲み取れなくて、ごめんなさい」

「いいんですよ。花を選ぶ理由なんて千差万別で構わないんです。その人に想いを伝えられれば、それで十分じゃないですか」

 優しい人だ。僕がこれから勝手なことをしようと画策しているというのに。


「その花は、勿忘草わすれなぐさっていうんです」

「ワスレナグサ、ですか。初めて聞く名です」

 店員さんに聞いたところによると、勿忘草は明治時代に園芸業者が輸入したのが始まりだそうだ。昨日調べた沖田さんの没年は慶応4(1868)年。沖田さんが知らないとしても無理はない。

「花にはそれぞれ、花言葉っていうのがあるのを知っていますか?」

「話には聞いたことがあります。具体的にどの花にどんな言葉があるかまではわかりませんが」

「勿忘草の花言葉は『私を忘れないで』なんです」

 これは願望にすぎない。叶う保証なんてどこにもないけれど、僕は今日その努力をする。沖田さんの記憶に僕のことを焼きつかせてみせる。

 そんな想いを伝えるための武器には、上等なことこの上ないでしょう?


 今だけ、一人称を変える。

「私はもう一つの道を見つけました。沖田さんみたいに優しくて、強い人になりたい。立派に胸を張れる、一人前の女性になってみたいんです」

 これは進むべき道ではなく、僕が進みたい道だ。

 他人を思いやるような心の余裕を持つことは難しいことだ常に空気を読み続け、場に配慮し、行動し続けなければならない。今の僕はそれができるほどの心の余裕を持ち合わせていない。

 けれどそれでも目指したいと思った。僕もこうなりたいと思ってしまった。

「私は沖田さんのことを尊敬しています。たった三日間、沖田さんの表面的なものしか僕は知らないのかもしれない。けれどそれでも、僕はあなたを尊敬したいと心から思いました!」

「……私はそこまでできた人間ではありませんよ」

 弱々しい返事は、これまでの沖田さんが見せなかった表情だ。何か負い目があるのか、よほど僕の言葉が応えているらしい。


 それでも止められない。僕はこのラストチャンスに、思いを伝えることを決心したんだ。

「それでも私はあなたを目指してみます。次にあなたとあった時は、見違えるような姿になって見せます。だから、だから――」

 そこで一瞬、酸素の供給が停止する。息ができない。

 これを伝えたときが本当の終わりだと、本能が理解して無理やり止めたのだろう。けれどもう遅い。僕はもうこの道を選んでしまった。どれだけ脳がストッパーをかけようとも、その歩みを止めるわけにはいかない。

 息を吸うことができない。肺に力を入れ、体に残ったわずかな空気を吐き出そうとする。

「――僕を、忘れないでください」


 脳が諦めてしまったのか、それを言い切ると同時にまた呼吸が再開される。ぜぇぜぇという荒々しい息とともに、酸素が体中へと行き渡る感覚が身に沁みた。

 ――あぁ、終わるんだな。

 特別な三日間だった。きっと何があろうとも、僕がこの三日間を忘れることはないだろう。そして沖田さんの姿を、胸の中に秘めて生きていく。

 僕が憧れるべき人はこの人だった。

 あのライトノベルのヒロインたちには非はなかった。彼女たちには花があったけれど、それは僕からは失われて久しかった。それだけのことだ。住む次元が違いすぎたのだ。


「……いいでしょう、佐々木栞。あなたのことは、この沖田総司の胸中にしかと刻み込みました」

 僕に喝を入れるように、その言葉が響く。

 僕はそれに返事ができない。まるで声が出せない。

 ……やっぱり、寂しいものは寂しいのだ。いくら決心したと自分で思っていても、その事実からは逃げられない。

「また会う日まで、楽しみにしています」


 眼帯を外す。あの碧眼をもう一度、沖田さんの前に堂々と晒したかった。

「沖田さん、僕には特別な運命や能力はないかもしれないって言いましたよね」

 なぜか声が出た。その文言はよどみなく、口から流れるように吐き出される。

「けれど、僕にはあるんです。特別なものが」

 これを使のは、病室で始めて目を覚ました時だった。何も知らないはずなのに、なぜかそのことを脳ははっきりと理解していた。……なぜ開花したのかは今でもわからない。

 それっきりだ。これを使には、相手と両目を合わせなければならない、という条件がついていた。右瞳を見せたくなかったこともあって、この存在は常に僕の中で憚られるべきものとして存在していた。

 けれど最後に、沖田さんを驚かせるために使うのならいいだろう。


「この瞳を見てください」

 沖田さんと目が合う。それが合図だ。

「目が、離せないでしょう?」

「……どうやらそのようですね。あなたの瞳から、目が逃れられない」

 両目を合わせて発動したら最後、相手は僕の瞳から目を逸らすことができない。当然のように自分から逸らすような行動をとることもできなくなる。これが僕の、秘められた能力だった。

 花はない。ライトノベルならせいぜい足止めに使われればマシ、程度のものだろう。けれどそれでも、特別に思えるものがあった。ヒロインたちに憧れたのは、これのせいもあるのかもしれない――


「僕は能力これを、『目を合わせる能力』と名付けました。他人と目と目を合わせる。ただそれだけですけど、特別な能力です」

 それだけ言い放って、目を伏せる。こちらから意識すれば勝手に能力は解除される。沖田さんのあたふたと動揺する姿が、閉じた瞼の裏に浮かんだ。

 けれどそう簡単にはいかないのが沖田さんだ。眼帯を再度装着し、その左目に光が差し込む頃には、沖田さんは堂々とそこに立っていた。

「もう、何も言わないでください。それだけです」


 これで、本当の終わりだ。


「……栞、また会いましょう」

 瞬きをした瞬間、沖田さんの姿は跡形もなく消え去った。

 全てを伝えきることができた……そう思う。

 こんな退廃した精神でよくやった。今日は自分を思いっきり褒めてやりたい。そんな気分に浸れるほど清々しいものが残った。


 ぽつり、ぽつりと雨が降る。天気予報は外れなかった。急いで傍の傘をさし、手毬花をビニールで覆って鞄の中に入れる。

 結局沖田さんを傘の中に入れることはなかった。今頃濡れながら街を歩いているのか、どこかの軒下に避難しているのか。どちらの沖田さんもすぐに想像がつく。ということは、きっとどちらでもないのだろう。


 謎は謎のまま。沖田さんは謎のまま終わった。

 僕はゆっくりと、家路へと戻っていた。新たな日常を踏みしめるかのように。

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