フィクションならよくありそうな話

第8話

 あの後、僕は家に帰るや否や真っ先に眠った。沖田さんは今頃どうしてるんだろうとか、いつ本を読めばいいのかなとか、そんなことを考えながら布団を敷いて、すぐに眠った。

 疲れていたのかもしれない。いや、疲れていたんだろう。

 そのまま途中で目を覚ますことなく、僕は次の日を迎えた。


 日曜日は、いつにも増して憂鬱だった。

 昨日から雨は降り続き、暗い曇天を眺めながら朝目覚めるのは心地が悪かった。その1日の気分までもが暗くなってしまうような、そんな不安感を抱いてしまうからだ。

 加えて沖田さんがもういない、という当たり前の事実にもショックを受けていた。

 たかが三日間の付き合いだけれど、それでも沖田さんは当然のようにそこにいた。それが今日はもういない。その事実を再認すると同時に、私は二度寝してしまおうかという気持ちでいっぱいになった。

 あれだけの啖呵を切っておきながら、なんて無責任なんだろうとも思う。しかし心の躁鬱が激しいのは元々のことだ。やはり悲しいものは、どう頑張ったって悲しい。その事実を変えることはできない。


 結局二度寝には失敗して、30分ほど布団の中で眠るふりをしてから起き上がった。形だけでも眠ってみれば本当に眠れるんじゃないかと思っていたけど、あまりうまくいかないらしい。

 そのまま冷蔵庫から朝食を見繕おうとしたが、沖田さんへのおもてなしで食材をほとんど使い切ってしまっていたのを忘れていた。本当なら沖田さんと別れた後に買い物に行くべきだったのだろうけど、忘れていてはどうしようもない。

 仕方なくパンを焼き、何も塗らずにそのまま食べた。久々の食パンの味は、焦げのせいでとても苦く感じた。


 それからの記憶はひどく曖昧だ。

 沖田さんに薦められて購入した、あの二冊のライトノベルを読んだことは覚えている。けれど二冊とも長編小説ではないので、一時間足らずで両方とも読了してしまった。

 読み終わった感想としては面白かった。沖田さんもそういう作品を選んでくれたのだろうけど、選別眼の鋭さを実感させられる。僕のこともはっきりと見抜いていたし。やはり底が知れない。

 そして作品の中で、恋愛という言葉がいやに心の中にひっかかっていた。

 僕も誰か好きな人を見つけたら、もっと女性らしい精神を備えられるのだろうか。今まで惚れた腫れたを身近に見たことはあっても、自分自身が経験したことはないから、その感覚ははっきりとは理解できていない。

 こんな僕を好きになってくれる人がいるのなら――それ以上は考えないようにした。瞳のあたりがまた疼き出してしまいそうな気がしたから。


 雨は止む気配を見せることなく、むしろ一層強くなった気さえする。こんな天気の中買い物に行く気にはなれなかった。

 そのあとは適当な昼食をとって、夕食を食べて、眠った。

 何を食べたのかははっきりと覚えていない。

 昼食と夕食の間に何をしたかは思い出せない。多分ぼうっと過ごしていただけだろうけど。

 けれどそこまで何もなかったのなら、きっと瞳が痛むこともなかったのだろう。単に感情を忘れ去ったように過ごしていたのか、僕の心が強くなったのかはわからないけど、その事実について考えることが薬になってくれたのかもしれない。


 けれどはっきりとしたことを思い出したり、確かめたりするすべはもうない。すでに過ぎ去った1日だ。

 しとしとと降る雨音の中眠ったことを、溺れるように夢の中で思い出した。





 月曜日。

 雨は止んでいた。まだまだ雲が空に散っているけれど、ところどころで日差しが差し込むほどには回復している。

 今日、僕は進むべき道を進むために、その一歩を踏み出そうと考えていた。そんな大切な日だから、晴れてくれたことはとても嬉しかった。

 漫画的な表現なら、「天はこの私を祝福してくれている」なんて格好つけるところかもしれない。僕はそういうのはちょっと恥ずかしいのでやらないけど。


 朝食を摂る前に、学校に行くための準備をする。今日は万が一にも失敗して、自分の気分を落ち込ませたくない。いつもよりも念入りに持ち物の確認をした。

 朝食はきちんと頭が働くよう、残りわずかになったご飯を炊いて食べる。帰りに買い物に寄れば済む話だが、弁当に詰める分までは残っていなかった。コンビニかどこかで昼食は購入しておかないと。

 なんだかんだと言ってもやっておくことは多い。準備は万端にこなしたいけど、全部やりきるわけにもいかないし、取捨選択は悩ましいところだ。


一通りの準備を終えて、自分が緊張していることに気がついた。

 それもそうだ。事故から先、あまり人と関わった経験はないんだもの。沖田さんは本当に稀有な存在だったけど、あの時は偶然が重なった結果だった。今回は僕の方から進んで人と関わらなければならなから、状況はまるで違う。

「……行ってきます」

 その挨拶に返事はない。けれどそれでも良いのだと思いながら、僕は家を出ていった。



 通学路の途中に古い神社がある。いつ頃建てられたものなのかはわからず、今は管理する人がいないのか、ひどくボロボロの状態にある。

 以前大家さんに話を聞いたところ、昔はきちんと繁盛していたらしい。元来は豊穣と縁結びのご利益があるとのことで、昔は近所でも非常に賑わいのある場所だったそうだ。夏祭りになると、隣町からも人が殺到していたんだとか。

 しかし20年ほど前に夏祭りは廃止、今は詳しいことを知らないようで、それ以上の話を聞くことは叶わなかった。


 今日もやはりボロボロのままだ。土地の侵入を防ぐような鎖や看板はない。今でも神社として機能しているのかは限りなく怪しい。

 社に近づくが、何年も人間の手が入っていないことがうかがえる。賽銭箱も朽ち果てて、ほとんど銭の入っていない底が見えてしまう。けれどこんな状態でも5円玉ばかりなのは、縁結びの名残なのかもしれない。

 幸いにも本坪鈴ほんつぼすずは残っていた。しかし揺らすと今にも落ちてきそうなほど老朽化は激しい。あと一人分だけなら許されるだろうか。

 形式通り5円玉を賽銭箱に投げつけ、鈴を鳴らす。そして二礼二拍手一礼。

 いわゆる神頼みというやつだ。けれどプラシーボ効果なんてものもあるし、神様からの加護があろうとなかろうと、僕にとっては非常に有益だ。心の支えが増える機会は大事にしていきたい。


 人々の喧騒が行き交う街の中、神社には静謐が漂う。

 人が近づかないのも当然だな。ここまで老朽化していてはもう、神社として再建するのは不可能に近いだろう。人の心が離れてしまっているのが何よりも致命的だ。

 いずれ人々の記憶からも忘れ去られてしまうんだろう。ここに存在し続けているだけで、誰も目を向けはしない。

 たぶん、ここには神様はもういないのだろう。

「僕も沖田さんみたいに、忘れないでいたいな……」

 本当に覚えていられるかは知らないけど、頭の片隅に残ればいいな。そんなことを考えながら境内を出た。当然のように、何も起きない。



 さて、授業はいつもと変わらず真面目に受ける。再来週には初めての月次テストもあることだし、今気を抜くと芳しくない成績になってしまいかねない。成績が悪すぎると当然特待生としての奨学金制度なども失われてしまうので、僕にとってはかなり重要な項目だ。

 思えば入学試験の時に発作が起こらなかったのは奇跡と言ってもいい。先生は緊張などで精神的な逼迫を受けると云々――細かいところは難しすぎて理解できなかったが、要は緊張はあまり体に良くないとのことだった。……本当に良かった。


 朝食・昼食ともにカロリーが少ないので少し低血糖気味だが、午後に入っても特に眠気は起こらなかった。少し懸念していたのだが大丈夫そうだ。

 念のために放課後、購買でチョコレートか何かを買っておいた方がいいかもしれない。食事とまではいかなくとも、お菓子で軽く糖分を補給しておいた方が、よっぽど頭が回る気がする。

 プラシーボ効果というのは便利な言葉だな。そうしみじみと思うよ。


 僕の通う高校は確かに進学校だが、その傍で部活動にもかなり力を入れている。私立の名門校ほどではないにしても、地域内でベスト8やベスト16くらいは常連という部も決して珍しくない。

 そして異様なほど文化部が多い。

 新入生には学校公認の部活動及び同好会の一覧が配られるのだが、運動部の総数が22部に対し、文化部は39部。2倍近い開きがあった。

 運動部に比べれば活動日数も比較的少ないし、何よりも大会や試合といったものに縛られないのが大きな要因だろう。気軽に参加できるのであれば、趣味嗜好の合う人間と語らうのは良いことだ。

 また教室の片隅で同級生の話を聞いていると、何人かは兼部することを念頭に置いているようだった。


 そして学校側によって部活棟なる建物が建てられている。数年前に工事して今はコンクリートで塗り固められているが、元々は数十年と続く古い木造の建物だったらしい。

 一階は主に運動部の部室で、ドアの配置を見る限り一室一室は比較的広い。様々な道具を保管しなければならないし、人数の管理も大変だろう。そういったことを配慮した上で設置されているのだと思う。

 しかし運動部と同じかそれ以上の人数がいるのか、一部の人気な文化部については一回に部室が設置されているものもある。さすがに内情までは調べていない。まぁそんな話をできるコミュニケーション能力があるなら、沖田さんと出会うまで悩んだりはしてないだろうな……。


 二階・三階はいよいよほとんどの部屋を文化部が占める。地図から把握できる範囲だと、文化部7割、運動部1割、空き教室2割といったところだろうか。

 こちらはドアの間隔が狭く、一室一室が一回と比べて狭いことがすぐに理解できた。文化部のほとんどがこちらに集まっているようだが、

 だが地図に部室が記載されていない部活動もある。例えば、科学研究部なら化学実験室を根城にしているらしいし、軽音部も専用の設備が必要だと話を聞いたことがある。


 話を戻そう。

 今回僕が目的としていた部活動は、二階の一番奥にその部室を構えていた。

 階段を一段一段、踏みしめるように登っていく。緊張はどんどん高まってくるが、不思議と瞳が疼くようないつもの感じが来る気配はない。今までのネガティブな思考ではなく、ポジティブな思考が影響しているのだろうか。

 放課後ということもあって、多くの生徒が一段飛ばしで僕を追い抜いていく。そしてそのたびに僕の顔を一度見る。どうせ眼帯のことが気になっているのだろう。そのくらいの検討には確信が持てた。


 入口の前に立つと、心臓の鼓動が高まっていくのをはっきりと感じ取れる。沖田さんの推測を聞いていた時ほどではないが、それでもやはり恐れてしまうものだ。

 安心しろ、今日は発作は起こらないはずだ。リラックス、リラックスが大事なんだ。安心しろ。

 暗示にどれほどの効果が期待できるかはわからない。僕は今までそうやって心を落ち着かせて来たけど、実際に落ち着けたのはレアケースだ。

 それでも僕は意識する。何もないよりはマシだから。


 ドアの横にはクギを無理やり折り曲げたフックのようなものがあり、そこには部活動名を示したタグがかけられている。その中にははっきりと、『文芸部』という活字が入れられていた。

 意を決して、ドアを軽く二回、コンコンとノックする。

『はーい』

 金属製のドアだが、さほど大したものではないんだろう。閉じた状態でも中からの男性らしき声ははっきりと聞こえた。部屋が小さいのもそうだが、防音設備には気を回していないようだ。必要になりそうな部の数を考えれば、まぁ必要ないだろうが。


「失礼します」

 面接のように短かな定型文を口にして、意を決してドアを開けた。

「いらっしゃい」

「えっと、宜しくお願いします」

 部室内には男女一人ずつ、ネクタイの色からして男子は三年生、女子は二年生というところだろうか。

「文芸部にようこそ。見学か入部希望者かな?」

「入部希望です。部活動一覧のチラシから見つけて……」

「一年の初めに渡されるやつね。そっか、それはよかったよ」

 物腰柔らかそうな人だ。見た目、というか眼帯からして面倒そうな相手だろうに、嫌な顔せず優しい対応をしてくれている。この人は信用できそうだ。

 女子の方も、さっきまで読んでいただろう本に栞を挟んで、椅子を用意し始めていた。

 部室内は簡素なもので、いくつかの文庫本が収められている本棚と、横に立てかけられた10脚もないであろうパイプ椅子に、コの字型に並べられた長机三つ、部屋の隅にもう一つ。あとはポットと緑茶らしい箱や急須が無造作に置かれている。

 特別設備が必要な部活ではないし、このくらいが妥当なんだろう。

「とりあえず座ってください。軽く部の説明でもしますから」

「すみません、ありがとうございます」

 僕が用意された椅子に座ると、それを見計らってから二人も椅子に座った。


「それじゃあまずは自己紹介から行こうか。俺は三年の宮原雄大みやはらゆうだいです。一応年長ってことで部長をやらせてもらってます。よろしくね」

「同じく文芸部で、副部長の綴木椛つづき もみじです、よろしく」

「一年生の佐々木栞です。お二人ともよろしくお願いします」

 学級内で初めにやった自己紹介の時よりははきはき話せたように感じる。あの時は僕もかなり気が落ち込んでいた頃だったから、かなり酷いものだった。あんまり思い出したくない記憶だ。

「佐々木さんはどうして文芸部うちに?」

「えっと、小説とかに興味があって、文芸部は毎年部誌を作ってるそうですから」

 部誌については説明欄に書いていたし、先生に聞けば簡単な概要にくらいなら教えてくれた。事前にいくつかの情報は得ている。


 しかし、部員が少なすぎやしないだろうか……?

 構想によれば、部として認められるのは部員が六人以上いて、なおかつその活動内容や活動指針が適切であると判断された場合のみだ。

 同好会は人数が足りないか、学校に正式に認可されてはいないものが該当する。部室が用意されなかったり、学校側から活動予算が下りなかったりするのだが、それでも部活動一覧に名前を掲載されることはある。

 文芸部は正式に『部』としてその名前を残している。しかしここには僕を除いて2名しかいない。本の数も少なすぎるし、椅子も日常使いされていないことも見えた。何か良からぬ予感がする。


「お茶どうぞ」

「ありがとうございます」

 いつ席を立っていたんだろう。綴木先輩はいつのまにかお茶を人数分用意していた。

「いただきます」

 そう短く宣言してからお茶を飲む。

 ……美味しいものだ。他人にお茶を煎れてもらうのはいつぶりだろう。

 お茶そのものの味の良し悪しは僕にはわからないが、心が温まる感じがしてほっとする。

 思えばお茶にはリラックス効果があるといわれている。僕の緊張を解きほぐすには最適な飲み物だろう。心にも体にも沁み渡っていく。

「本当においしいです。ありがとうございます」

 こういう時こそ、感謝の気持ちをきちんと言葉にしないと。沖田さんといたときは動揺ばかりであまり口にしていなかったから、これからは気を付けていきたい。


「そっか、読むよりも書く方に興味があるんだね」

「はい、といってもまだどんなものを書くかは決まってないです。こう、書きたいって言う気持ちが漠然とあるので……」

「大丈夫。うちの部誌は基本的に何を書いても良いことになってるんだ。普通の小説以外でも、ライトノベルだったり、エッセイだったり、特殊なものだと戦国武将の解説を載せた先輩もいたかな」

 文章ならなんでもオッケー、みたいな方針なのだろうか。初心者どころかまともに物語を紡いだことのない僕にとってはありがたい話だ。



 僕が文芸部に入部しようと思ったのにはいくつか理由がある。

 一つ、先述の通り僕はまだ筆をとったことがない。小説家になろうという道を進む前にまずはスキルを磨かなければならない。おそらく高校にいる間に身につくものではないだろう。まずはきちんとそういった技術を自分で学び習得する。その時間が必要だと考えた。

 二つ、文芸誌に自分の作品を掲載すれば、少なくとも先輩方からの評価をいただくことができる。また同じ学生で読んだ人がいればさらに感想をもらうこともあるだろう。独学は突っ走りすぎる危険性があるから、自分の作品の評価や感想を他人から受け取ることで、少しずつ修正していく。

 三つ、部活動に入れば確実に他の部員と交流する必要に迫られる。これから先人と触れ合う機会があるだろうが、今の所高校に友達がいない僕にとってこれは厳しい状況だ。同じ趣味――文芸部なら読書――を持った人ならまだ比較的話しやすいし、会う機会も必然的に多くなってくる。

 と、まぁこんなところだ。


 高校一年生から夢の道を進むのは、スタートが遅すぎる気がしなくもない。世間の人々はいつ頃自分の夢を自覚し、叶えようとするかどうかの岐路に突き当たったのだろうか?

 少なくとも事故以前は、漠然どころか曖昧模糊としていた夢だ。当然決まった形などなく、ふわふわと雲のようなものが頭の中に浮かんでいた。

 僕はこの不定形の何かを、粘土をこねるように形にしていかなければならない。



 閑話休題。先輩方との会話に戻ろう。

「先輩方はどのようなお話を書かれているんでしょうか?できれば過去の文芸誌を見せていただきたいのですが」

「あ〜、ごめんね。実は今年から部室の位置が変わって、バックナンバーは一回倉庫の方に移しちゃってるんだ。読みたいようならまた生徒会に聞いて、早めに鍵を借りてくるよ」

「ありがとうございます。僕も運びますから、そのときは呼んでください」

 プロの方々の小説は、上手すぎて初心者の僕には参考にしにくいだろう。言い方は悪いが、慣れていない文章の方が勉強にしやすいと思う。間違いや変なところを見つければ、反面教師として僕の糧になってくれるから。

 どうせ先輩方よりも僕は下手くそなのだ。少し貶めてもバチは当たらないはずだ。自分がまだまだ欠けないことが、自分自身が一番理解している。


「そういうことなら、文芸部のグループに招待するよ。SNSはやってる?」

 あ。

「ごめんなさい。僕まだスマホじゃなくて、ガラケーなんです」

 理解した。そりゃあそうだ、今頃の高校生なら普通はスマホで連絡を取り合ってるだろうな。メールと電話でやりとりするよりも手軽だもの。

 やっぱりそのうちスマホに乗り換えた方がいいのかな。けどこの電話との付き合いも長いし、なんだか手放しにくい。

「メールアドレスを教えるので、そちらでお願いできますか?」

「あぁ、大丈夫だよ。じゃあ紙か何かに書いてもらおうかな――」

「ちょっと待ってください」

 急いで鞄からメモ帳を取り出し、ボールペンで電話番号とメールアドレス、それに名前と学年を書き入れて、破る。

「こちらをどうぞ」

「ごめんね、わざわざ一枚使わせちゃって」

「気にしないでください。これくらいは常に持ち歩いていますから」

 今は先輩方に名前を覚えてもらうことが重要だ。そのためなら紙の一枚や二枚、本当に安いものだ。


「そうだ、佐々木さんには課題を出しておこうかな」

「宿題ですか?」

「うん、文芸部新入部員の伝統みたいなものがあるんだ。そんなに難しいものじゃないから、気構えなくていいよ」

 文芸部の課題というとなんとなくの想像はつく。指定された図書を読んできて感想文を書くとか、自分の好きな本について紹介するとか、そんなものだろうか。

「でも部長、あれも倉庫に置きっぱなしじゃないんですか?」

「あ、そっか。ごめん、やっぱり明後日にでも話すよ」

「明後日ですか?」

「俺の方で明日は用事があってね。さっきも言ったけど、そんなに難しくないから」

 こんな風に秘匿というか、話を先延ばしにされてしまうとなんだかむず痒い。僕の知らないところで何かの計画が始まっているみたいだから。


 そういえば、重要なことを聞き忘れていた。

「文芸部の活動曜日ってどうなってますか?部活がない日に部屋に行っても仕方がないですし、聞いておきたいんですが」

「特に決まってないんだよね。明日は俺はいないけど……綴木さんはどう?」

「特に用事がなければいると思います」

「そんな感じかな。管理室に行けば鍵は貸してくれるから、勝手に開けてくれても構わないよ」

 この辺りはかなり緩いんだな。毎日執筆活動をしているものかと思ったけど、今日も二人とも本を読んでいただけみたいだし。

 それもそうか。常に書くもののアイデアが浮かんでいるとは限らない。それに読書だって立派な勉強だ。そういうものの積み重ねで物語は生まれていく。一朝一夕の作品なんて誰も見向きやしないだろう。よほどの天才でもなければ。



 こういうことを考えていると、僕自身が少しずつ小説家に近づいているような錯覚に陥る。実際は全然そんなことはなくて、現実に筆をとったところで何もかけやしないのだけれど、それでもその錯覚はなんというか、どこか嬉しかった。


 そして別の話にはなるけど、心に理由は必要ないのだという理論を感じる。感情的なものは理屈では語れない部分があって、人間はそういうものに強く引っ張られる。

 僕もその例外ではない。むしろ感情的なものに振り回されっぱなしの人生だ、特に事故以降は。

 感情的なことは、時に人間らしさのように例えられる。感情を表に出さない人は機械のように見られ、感情に素直に振舞っている人ほど人間らしい、と。

 僕の場合はどうだろう。あまりにも感情に対して素直になりすぎてはいないだろうか。気分が落ち込めばすぐに瞳が痛み出してしまう始末だし。

 ……沖田さんとの別れの時、なぜいつものように発作が起こらなかったのだろうか。僕が精神的に成長している証ならいいことだけど、どうにも懐疑的になってしまう。


 こういう複雑な考えを上手に物語に落とし込めたなら、僕はあっという間に純文学賞作家になれることだろう。文学的に優れた内容であることは間違いない。

 問題は長すぎること、複雑すぎること、難しすぎること。あとは文学作品というより、僕の体験をもとに書く関係上エッセイに近くなってしまうこと。

 こんな諸問題がある中でさぁ書いてみよう!という気はさらさら起きない。

 ……描きたいものについて考えてみなければな。

 「小説家になりたい」というのは思いついたことで、確かに僕の中で夢として芽生えてはいるのだけれど、具体的にどうしたいという部分が靄のように形にならない。


 文芸作品にもいろいろある。まずは純文学作品と、大衆文学作品。このくらいは考えておかないと、変なところで止まってしまいそうでならない。

 純文学はなんというか、色々と読んできた僕でもあまりよくわからない世界だ。難解な内容のものばかりで、楽しいというよりは考えさせられるような作品が多い気がする。

 大衆文学は読んで字のごとく、大衆向けの作品だ。推理小説、SF小説、青春小説……etc。そういう読んでいる人にとっての面白さを追求している作品が該当するんだと思う。

 やっぱりよくわからないな。感じ方は人それぞれだし、こんな風に無理にカテゴライズするのも意味がないような気がしてならない。


 目指したい小説家像というのもイメージがしにくい。古い文学作品ばかり読んでいるせいか、どうしても芥川龍之介や夏目漱石といった文豪ばかり思い浮かんでしまう。

 もっと現代的な作品を取り扱うべきなのだろうけど……。こんど図書館で何か借りてこないと。こうして考えると、僕が触れてきた最近の作品はライトノベルくらいのような気がしてならない。

 あぁ、数多の作家の中でも、三島由紀夫だけは勘弁だ。彼の人生はあまりにも壮絶すぎる。僕はこれ以上そういった使命や信念は背負えない。それほど僕は強くなれない。



「どうしたの、佐々木さん?」

「……あぁ、ちょっと考え事を。すみません」

 いけないいけない。人と話している時に自分のことに没頭しすぎるのはよくないな。注意しないと。

「今日は特にやることもないし、明後日にまた来てくれるかな?」

「僕の方も明日は予定とかありませんから、行くつもりです」

「そっか。じゃあ明日は綴木さんに任せるね」

「わかりました」

 打ち解けたとまでいかなくとも、今日の会話はかなり一般人らしく振る舞えたのではなかろうか。変なことを口走ったりしないよう心がけていた甲斐があった。


「今日のところは解散しよっか。俺はちょっと先生に用事があるし」

 そう言われて腕時計を見る。すでに18時が近くなっていた。授業が終わったのが16時なのに、2時間も経ったか……?

 あぁいや、僕が体感していたよりも長く、扉の前で立ち止まっていたのかもしれない。ああいう緊張しているときは時間が経つのが早い。体感では10分程度だったのだけれど、どのくらい時間をかけていたんだろう?今更確かめる術はないが、気になるものは気になる。

 今日は買い物もある。夕飯は少し遅くなってしまうが、このあたりでお開きにしてもらった方が都合はいいか。

「わかりました、じゃあ出ますね」

 用意されたパイプ椅子を片付けようとすると、綴木先輩に呼び止められる。

「どうせ明日も来るんだし、出しっ放しでも大丈夫よ」

「あぁ、そうですか。ではお言葉に甘えて」

 疑念が深まる。先輩方がそのように椅子を放置しているなら、僕が部室に入った時に二脚しかなかったのはおかしい。部員がもっといるのなら、という話だが……。

「今日はありがとうございました。明日からよろしくお願いします」

 けれどそれは顔に出さない。間違っていたら部に対して失礼だからだ。

「こちらこそ。新入部員はいつでも歓迎だったから、俺たちも嬉しいよ」

「これからよろしくね、佐々木さん」


 春先ということで、外はもう日が沈みかけている。風も冷たいままだ。

「じゃあ鍵の返却手続きはは俺がやっておくから。二人は先に帰ってて」

「わかりました。では後はお願いします」

 そう言いながら宮原先輩が管理室へと入っていく。僕たちは先輩の言う通り、待つことなく先に部室棟を出た。

「佐々木さんの家はどっちかしら?」

「えっと、学校からまっすぐですね。しばらくしてから左に曲がります」

「そう。私は校門からすぐ右に曲がるから、ここでお別れね。それじゃまた」

「えぇ、また」

 手を振りながら綴木先輩の姿は夕闇に紛れていく。

 僕もまた、今日の買い物を考えながら家路へと向かっていく。

 さぁ、今日からが本番だ。先輩方の背中を見ながら、前に進んでいこう。まだまだひよっこなんだから、少しずつ確実に。

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