第6話

「ふぅ、ごちそうさまでした」

 ……まさかあの激辛坦々麺を、涼しげな顔で完食してしまう人がいるだなんて。今で夢にも思わなかった。

 辛いを通り越して痛い、そんな記憶が脳裏から蘇ってくる。今にも口からよだれが溢れ出しそうなほどだ。正直あまり思い出したくはない。かなり辛い思い出だ。

 それに炒飯と餃子も頼んで、合わせれば三人前くらいになるんじゃないだろうか。この店は全体的に量もかなり多めに設定されている。果たしてあの胃袋の許容量はどうなっているんだろう?

「確かに辛い坦々麺でした。けど辛さの中にも濃厚な旨味があって、非常に美味しかったです。良いお店を教えてもらいましたね」

 どうして何事もなかったかのように振る舞えるのか、まるで理解できない。

 ただでさえ僕から見た沖田さんは謎だらけなのに、それが味覚や内臓にまで広がってしまうなんて、考えるだけで気が引けてしまう。

 やっぱり、よくわからない。


「人心地ついたことですし、そろそろ……用事でしたっけ。そちらの方に向かいますか?」

「そうですね、では参りましょう」

 椅子から立ち上がり、傍に畳んでいた袴に袖を通す。その瞬間、沖田さんの纏う空気は一変した。

「……どうしました?行きますよ」

「え、あぁ。はい」

 その姿に思わず目を奪われる。声をかけられるまで、その場に座り続けていたかもしれない。

 呼びかけに応じるように、すぐさま席を立った。


 ふと、沖田さんが腰元に携えている大小二本の刀に目を向ける。それらはずしりという重たさを帯びていて、今にも金属音が飛び出しそうな異様さを放っていた。この二日はそんなもの微塵も感じられなかったのに。

 その中身はまだ目に収めてはいないが、なんとなくの確信は持てた。あれらは模造刀などではない。間違いなく本物だ、と。

 風俗だなんだと言っていた自分が恥ずかしい。すぐさま過去に戻って、思いっきり殴りつけてやりたいくらいだ。なんて間抜けた思考だったんだろう……。


 そしてようやく、奇妙な違和感の正体を理解する。これは沖田さんから迸る、濃密な殺気によるものだ。先ほどまで何も感じなかったはずの袴や刀に、こうまで強烈な印象を感じさせるのは、そのせいなんだろう。

 表情の豊かさは、裏表を切り替えていたことの表れなんだと思う。

 普段は少女らしい、天真爛漫な表情だったのに対して、今はどうだろうか。死地に向かう戦場の兵士のような鋭さと、歴戦の猛者が安堵しているような緩やかな覚悟が同居していた。

 真面目な場面ではそれ相応の態度をしていたのだろうが、どう見ても今の方が覚悟が決まっている。僕が見ていた沖田さんは、まだまだ表面上のものでしかなかった。その現実は僕の心の弱さと比較できない。


「さて栞、準備はできましたか?」

「……はい。お会計も済ませましたし、どこまでも歩いていけます」

「よいことです。今回は私の用事なのですが、そうですね……」

 けれどそれでも、ようやく一つだけ確信が持てた。

「栞には、別の世界を見せてあげましょう」

 沖田さんは、暗殺者だ。




 昼過ぎで太陽も高く上っているというのに、街中には肌寒い春風が駆け巡っている。ゴールデンウィークを超えるまで、暖かな天気は訪れてくれないのだろうか。

「目的地はそう遠くはありません。歩きながら話しでもしましょう」

「わかりました」

 アスファルトを踏みしめる時のコツコツという足音が、時計の針が鳴る様を連想させる。それは刻々と別れの時間が迫っていることを暗示していた。

 3日間というのはあまりにも短すぎた。しかしそれ以上に、今日1日という日は僕にとって、大事なことの積み重なりで完成したようにも思える。

 本当ならもっと一緒にいたい。もっと一緒に語らいたい。けれどその願いを叶えてはならないとも同時に願ってしまう。

 僕に僕の進むべき道があるように、沖田さんには沖田さんの進むべき道がある。それらはきっと、もう決して交わったりはしない。こうして出会えたのは、神様が施してくれた奇跡だ。

 あまりにも、生きる世界が違う。

 もう、自分の腕時計を見られない。



「そういえばさっきは、『進むべき道が見えた』と。そう言っていましたよね」

「はい」

「そのことについて、詳しく話を聞かせていただけませんか」

「……はい」

 ただ頷く。気持ちはまだ沈んでない。まだ終わってなどいない。

「僕はずっと自分のことを豪快していました。沖田さんの推測のおかげで、なんとかそれに気がつくことができたんです。二年も悩み続けていたはずなのに、たった3日で解決されてしまいました」

 自嘲するしかない。眼帯で隠している右の瞳のように、何も見えていなかったのだ。なんとも愚かしい限りで、泣く余裕すらない。


 ピカソの逸話にこんなものがある。

 ある日ピカソのファンが一枚の紙を差し出し、これに簡単な絵を描いて欲しいとねだったそうだ。ピカソはその申し出を快く引き受け、30秒程度の絵を描いてやった。

 しかしピカソはその絵に数百万円の値段をつけた。いきなりのことにファンは怒り始めたが、その時ピカソはこう語ったのだという。

「この絵は確かに30秒で描いたが、これまで30年間描いてきたからこそこの絵がある。つまりこの絵の本当の価値は、30年と30秒ぶんのものがあるんだ」


 話の真偽はわからないが、このエピソードを聞いた僕は、「人生はあらゆる時間の積み重なりでできているんだ」と感じた。

 しかし沖田さんの推測のおかげで、僕の人生の積み重なりはあっけなく崩れ去ってしまった。当然自ら目を背け続けたことが原因なのだが。

 その結果、僕の中には新たな価値観が芽生えようとしている。


「ずっと諦めていました。僕はもうまともには生きられないんだろうって。人や環境の問題じゃなく、僕自身がダメなんだと」

 でもそうじゃない、そうではないのだと。沖田さんはそう語ってくれていたのかもしれない。

「一番ダメだったのは、諦めていた自分自身だったんだと思い知らされました。僕はこれから、自分の立っている状況を変えていかなければならない――進むべき道を、進まなければならない」

 そう決意した。


 沖田さんの歩みが早くなる。隣を並んで歩いていたのが、沖田さんが前で僕は後ろ、そんな構図に変化する。

 前を歩いているその表情を伺うことはできない。もしかしたら、沖田さんは初めて僕に弱みを見せたのかもしれなかった。

 見えない表情を読むことは叶わない。


「僕にも幼い頃には、ちゃんと夢があったんです。シュリーマンがトロイヤの戦争に夢を馳せたように、紡ぎ出される色鮮やかな物語に、僕もまた心を奪われました。彼ほど偉大になれる自信はないですけどね」

 嘘偽りのない心をさらけ出す。その決心を終えるまで、長い時間をかけてしまった。

「僕はそれに触れるたびに、僕自身もこんな世界を生み出して見たいと考え続けていました。それはきっと、今でも忘れられない思い出だから……」

 けれどもう流れてしまった時間を気にすることはない。二年間黙り続けていたのなら、今度は二年間語り続ければいい。そんな単純な計算で十分なのだ。

 失った時間を取り戻すことはできないのに、過去を憂い続けたところでなんの意味があるのだろう。それに縛られ続けていた自分は、本当に愚かだったんだろうな。

「沖田さんが夢を語っていて、僕もまた夢の道を進みたい――いや、進まなければならないと確信したんです。もうわがままばかり言ってはいられない。だから――」

 あとはもう、駆け足で未来を歩いて行こう。


「僕は、小説家になりたいです」


 事故から回復して二年。秘めていた心を解き放つ。

「……そうですか」

 沖田さんは依然として振り返ることなく、道を歩き続ける。

 僕はゆっくりと、その後ろをついていく。



 やがてその足取りは、花屋の前で動きを止める。どれくらい黙り続けて、どれくらい歩き続けたのかは定かじゃない。

「ここでしばらく待っていてもらえませんか」

 やはり沖田さんはこちらに顔を向けない。声だけでは何を感じているのかはわからない。

「……どのくらい待てばいいんでしょうか」

「こればかりは私にも推測できません。けれど、必ず戻ってくることを約束します」

 でも――そう言いかける口を無理矢理に噤んだ。

「本当ですか?」

「嘘はつきません」

「……わかりました」

 そうして噛みしめるように返事をする。弱々しい返事だったことは間違いない。自分がどう話したのかさえ、はっきりと感じられない。

 うつむいて深呼吸をする。沖田さんを直視できなかった。なぜなのかはわからない。

 そして顔をあげる頃、沖田さんの姿はどこにもなかった。ほんの1分もしない間だったはずなのに。僕はただただ、必ず帰るという言葉を信じて、その場に立ち尽くした。


 時間が経つにつれて、心臓の鼓動が激しくなっていく。けれど意識を失った時とは何かが違っていた。

 やはり腕時計を見る勇気はなかった。時間感覚が狂いそうだ。一時間、二時間くらい経ってしまうんじゃないかと思うくらいの時間を感じる。きっと現実ではまだそんなに経っていないんだろうけれど。

 僕は心臓が破裂しそうになるたび、深呼吸をする。そうすれば少しだけ気持ちが落ち着いてくれたからだ。

 そうやって何度めかの深呼吸を終えた頃、沖田さんは約束通り戻ってきた。


 花屋の角からその顔を出した沖田さんは、悲しそうな顔をしない。

「用事は終わったんですか?」

 待ちわびていたかのようにその言葉を口にする。

「えぇ、あっさりと終わってしまいました」

 安堵なのか苦笑なのか、どちらともとれないような笑顔を浮かべてそう話す。僕はいまどんな表情をしているのだろう?自分の心を制御できない醜い自分がただただ恥ずかしい。


「――とある組織がやんちゃを起こしましてね。私はそれを戒めるために、暫くの間出勤していました」

「え?」

 沖田さんの突然の語りに、そんな間抜けた声を出してしまう。それでも沖田さんはその舌を動かすことを止めなかった。

「組織の人たちもさすがに懲りてくれたはずだったんですがね……。優秀な人物を私の家に派遣して、ドカン。なんてことをしてくれちゃったわけですよ」

 守秘義務か何かがあることはすぐに察することができた。だから節々の用語をぼかすようにしているのだろう。

 ドカン、という擬音には心当たりがある。沖田さんの家が吹っ飛んだ話は前に聞いたが、おぼろげながら話が見えてきた。簡単に約するなら怨恨、というところだろう。


「もしかして今回の用事っていうのは――」

 そこまでいったところで、沖田さんに手で口を遮られる。

「私が語ります。あなたは何も言わない方がいい」

 口調が変わったということは、僕には理解できないが大事なことなのだろう。

「続けます。そんなことをされたらまたもや戒めなければなりません。私は今回も同様に出勤したわけなのですが……。残念ながら彼はすでに覚悟を決めていたようです」

 覚悟……自殺の暗喩だろうか。いずれにせよ沖田さんの語るところを見るに、組織とやらの末路は嫌が応にも想像できてしまう。何かしらやらかした結果なのだろうが、それでも往生際の悪い。

 あぁ、さっきの意味がわかった。

 沖田さんは、僕が関わってはならないということを言いたかったのだ。

 ……やはり、生きている世界が違いすぎる。


「私はそろそろ行かなくてはなりません。仕事を終えた以上、速やかにここから立ち去る必要がある」

 別れの時が来る。それはわかっていたことだが、ついに覚悟することはできなかった。まだまだいろんなことが、ぐるぐると頭の中を駆け巡っている。

「嫌です」

「嫌じゃないんですよ。あなたも大人になれば、そのうち理解できるはずです」

 精神的に未熟な僕には心に刺さる。しかし沖田さんらしくもない、説得にしては拙い言葉だ。

 まだ沖田さんに言わなければならないことがあるはずだ。それはわかっているのに、どう言えばいいのかわからない。ただそれを話しただけでは、沖田さんはきっと忘れてしまう。


「栞、あなたには運命だとか、特別な能力だとか、そんなものはないのかもしれません。それでもあなたには立派に生きる権利がある」

 なにか、僕の言葉を補ってくれるようなものはないか。鞄やポケットの中を想像でまさぐるけれど、何も見つかりやしない。

「夢の道を進むというのなら、もう大丈夫でしょう。あなたにもまた立派な道が残されていることを信じています」

「待ってください!」

「……少しだけなら」


 その瞬間、何かが頭の中に舞い降りてきた。このひらめきは、とても気待ちが悪い。しかし思いついてしまった以上、もはや実行しない手はないだろう。

 話すべき言葉は決まっている。その言葉を補う術を、ようやく見つけ出した。

「――花を、送らせてくれませんか」

 花には特別な魅力がある。それに『形になる』。沖田さんと僕が離れてしまっても、形が残っていればきっと忘れないはずだ。

 沖田さんは根本的に優しい人間なのを知っている。言い方は悪いが、そこにつけ込む他はない。


「しょうがないですねー!」

 ようやく沖田さんが、僕と過ごしていた頃の少女らしい顔を身につける。

 張り詰めていた緊張の糸が千切られてしまったようだ。僕の心臓の高鳴りも、静かに温度を下げていく感覚が残る。

「せっかくですから私からもなにか送りましょう。それで本当の終わり、です」

「そうですね、ありがとうございます……」

 沖田さんは真っ先に花屋へと駆け込む。

「あ、ちょっと!」

 やはりこの人のことはわからない。この人のことを推測しようだなんて、無駄なことなのかもしれないとも思う。


 謎は謎のままだから素敵なんだ――誰が遺した言葉だったか。本当に無責任な言葉だと思う。もしあいつに会って話をしたら、きっと一生の笑い話にされるだろう。

 けれど本当に、そのままの方がいいのかもしれない。

 今の沖田さんほど魅力的な人を、僕はまだ知らない。

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