第2話

 僕は運良く進学校と名高い学校へ進学することができた。入試の時点で好成績を残していたことも相まって、精神障害を抱えているにも関わらず奨学金の審査に合格したことは本当に幸運だった。

 しかし当然のことだが、その授業内容は非常にハードなものだ。5月からは毎月末に8教科のテストも行われ、成績上位者は名前が張り出されることとなる。僕の奨学金の条件は「常に名前が張り出される成績を維持すること」であった。

 濃密な授業内容は僕を疲弊させるには十分すぎる。しかし今日を含めた二日間は、いつもと比べて心は陰鬱としてはいない。なぜなら、家の中から僕を出迎えてくれる人がいるのだから。

「ただいま~……」

「あぁ、おかえり」

 ほかでもない、沖田総司が。



「そういえば勝手に君の本棚から何冊か拝借したんだけど、大丈夫だったかな?」

「あぁ、そのくらいなら構いませんよ」

 ぼろぼろの本棚には何十冊も本を詰め込んでいるが、その殆どは事故の前から家にあったものだ。どうしようもなく引き取ったはいいが、それらは読むのが怖くなって、ページをめくることすらできなくなってしまっている。

「どうでした、何か面白い本はありましたか?」

「そうですね、こいつとか……あと、これは中々気に入りました」

 そう言って沖田さんが抜き出したのは、ライトノベルだった。これは僕が事故にあってから読むようになったものだ。といっても、こちらも一度読んで終わりになっているものが大半なのだけれど。

「どの辺が面白かったんです?」

「現実のように感じられますけど、やっぱり現実じゃない。そう割り切れるおかげで純粋に読み物として楽しめるのがいいですね。あと超能力とか、そういうハチャメチャな感じも悪くないです」

「そう、ですよね。現実じゃないですからね」

 現実じゃない。

 その言葉自体に深い意味はないだろう。けれどそれでも僕の胸には深々と突き刺さる。愚かしい僕にふさわしい、バカバカしい話だ。


「そういえば続刊って出てるんですか?この続きがとても気になってしまって」

「まだだと思います。来月には出る、みたいな話は聞きましたけど」

「そうでしたか。いや~、そう聞くと待ち遠しいものですね」

 純粋無垢な笑顔。沖田さんは物語として楽しめたからこそ、こんなにも晴れやかなんだろう。ここまでハマるとは思っていなかったけど。

 ――それに比べて、僕はどうなんだ?そんな疑念が頭をよぎる。

 やめよう、これについて考えるのは良くない気がする。


 なにか話を変えよう。

「そういえば沖田さんって、お仕事はどうされたんですか?今日はお休みみたいでしたけど」

「自営業……とでも言いましょうか。これについては秘密ってことで」

「人斬り、とかですか?」

「まっさか〜。それで生きていけるほど、この時代は甘くないですよ。辛くもないですけど」

 なんだか白々しい。けれど本人がそう言うのなら、これ以上追求してもはっきりと答えてはくれないだろう。もともと空気と心を入れ替えるための質問だ。深入りできなくても構わない。


「じゃあ、今度は私から質問いいですか?」

「はい、なんでしょう」

「その右目の眼帯について、教えてくれませんか」

 ……遂にこの質問が来てしまった。

 まぁ仕方ない。普通の人が僕を見た時に一番最初に気になるのは眼帯これだ。病院以外で見ることは珍しい代物だし、仕方ない、仕方ないことだろう。

 むしろ昨日聞かれなかったことに、多少の配慮を感じるくらいだ。痛みがぶり返すのは、精神的に不安定になっている時に他ならない。事故のことを無理に思い出せば、3度目の痛みが襲っていた可能性は十分にありえる。


「何かあるのなら、無理に話す必要はないですからね」

「社交辞令なんていりません」

 心が震える。やはり他人に瞳を見せることは恐ろしい。そうやってこびりついた固定観念が、いつまでたっても引きはがせないのだ。

 多くの人々に拒絶されてきた。それほどこのみどりは気味悪く、吐き気を催すような異物でしかない。

 僕だってそうだ。この瞳と向き合うことなんてできっこない。ただこんなものがここにあるという、その事実こそが耐えられないのだ。

「待ってください、少し……少し時間を下さい」


 それほど気味が悪いなら、眼球を抜き取ってしまえばいい。そう考えた時期もあった。しかしその領域に踏み入ったが最後、僕はきっと誰かから「あの子は頭がおかしい」と後ろ指を指されることになる。

 そう理解した瞬間、うっすらと残っていた勇気のかけらさえもどこかへ落としていった。

 後に残ったものは、粗末なプライドだけだった。


 いけない、心を落ち着かせなければ。

「……コーヒーを淹れるんですが、沖田さんは何か飲みますか?」

「ではわたしもそれで」

 お湯を沸かし、インスタントコーヒーをカップに入れる。僕の飲む方にはあらかじめはちみつをいくらか入れておく。そうやって中にお湯を注いでしまう。

 たった数分の簡素な作業だが、それでも気が紛れるのだ。飲めばさらに心が安らぐ。半分以上はプラシーボ効果から来ているだろうけど。


「沖田さんは、何か入れますか?」

「そのままで結構です」

 明治か大正あたりにカフェがオープンしているのは辛うじて知っているが、江戸時代にコーヒーはあったんだろうか。いや、あったとしても沖田さんが飲む機会は流石に無いな。


「どうぞ」

「ありがとうございます」

 そう言って受け取ると、なんともない顔でコーヒーを飲み始めた。

 僕は正直そのまま飲むのは苦手だ。苦いだけに。だからハチミツを投入することでいくらか苦味を緩和して飲んでいる。味よりはこの芳しい匂いが好きで飲んでいるから。

 ――暖かい。

 冷たくなりかけた心に、その心地よい感覚がじんわりと広がっていく。緊張の糸が少しずつほぐれていくのがわかる。

 本当に、不思議なものだ。


 ――もう大丈夫だろう。大きな深呼吸を交えてから、心の中でそう呟く。

 恐れも悩みもきちんと抱いている。それさえしっかりと再確認したなら、これ以上の躊躇いは必要ない。

 そうやって無理やり自分の中で完結させる頃、沖田さんはコーヒーを飲み終えて僕の顔を見つめていた。僕のコーヒーの湯気ももうほとんど残っていない。


 時間が経つのはいつだってあっという間だ。


「どうやら決心がつきました?」

 タイミングを見計らうように、沖田さんは優しげに呼びかけてくれた。

「……まぁ、そんなところです」

 それから深呼吸を繰り返す。

 そうだ、自分の心を安定させることに集中しろ。痛みから逃げなくてもいい。暗示を何度も、何度も口に出すことなく唱える。


 ゆっくりと、右目を覆い隠す眼帯に手をかけた。その瞬間心臓の鼓動が速く、強くなるのがはっきりと感じる。

 落ち着け。取り乱すのは少し早い。そうだ、もう大丈夫だから。

「じゃあ、見せます」

 沖田さんはその言葉に小さく笑って返した。




 恐る恐る眼帯を取り外し、その先の瞼をゆっくりと開く。

 この目は見るための機能はほとんど失われているが、それでもなお鈍い碧色の輝きが放たれていることだけは、今でも容易に想像できる。

 僕はいつになっても、いつまで経ってもそれを受け入れられなかったから。だからこそ、誰よりもそれを深く理解している……はずだ。


 息が荒れていくのがわかる。最初から克服できた、なんて甘いことは考えちゃいない。このくらいは想定の範囲内だ。

「昔、交通事故にあって……それで、こんな色になりました」

 事実だけを羅列し、心の内の感情を説明しないようにする。そうやって目を背けるしかなかった。

 多分だけど、真面目に向き合ってしまったら、この場で卒倒してしまうから。


「どう、でしょうか……」

 自分でも、何についてどう質問しているのか、よくわからないまま沖田さんに投げかける。

 頭の中はあくまで冷静に。けれど心がそれについていけないせいで、大きく矛盾した思考が頭の中を駆け巡る。こうなってしまえばもう手の施しようはない。

 あとは気力と、時間と、沖田さんの返答如何で解決する他はない。



「そうですね。綺麗な、深い緑色じゃないですか。恥じる必要なんてありませんよ。栞が苦労したということは読み取れました」

「……ありがとう、ございます」

 ――嬉しかった。

 僕の碧眼は、外国人のような鮮やかなエメラルド色とは微妙に違う。緑色に少し黒を混ぜたような、暗く鈍い碧眼だった。変色するときに元の瞳の色が作用したんだろう。

 この瞳が他人の目にどれほど気持ち悪く映ったのか。残念ながらそれは想像ではなく、口々に吐き出される現実として受け取ることになった。

 ただ褒められた。それが無量の喜びとして、波のように脳に押し寄せる感覚が僕を満たした。


 何も言わず、再び眼帯を装着する。

 これ以上はさすがに耐えられない。沖田さんが褒めてくれたといえ、そうずっと見せ続けることにはまだ慣れていないから。

「その瞳が、嫌いなんですね」

「……その通りです。僕自身も負い目っていうんでしょうか。……今でも吐き気を催すほど、大っ嫌いです」

「カラーコンタクトみたいに、同じ瞳の色に見せることもできたんじゃないですか?」

「それは考えました。でも……ダメだったんですよね」

 見た目だけでも健常者のように振る舞えたとして、それでも『瞳を衆目に晒す』という行為そのものが僕には耐えられなかった。

 上っ面だけ変えたとしても到底変わらない。なぜなら一番この碧眼を忌避しているのは、僕自身にほかならないのだから。

 とても一歩を踏み出す勇気はなかった。


 その日、沖田さんからそれ以上瞳について質問されることはなかった。

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