十章 5

 *



 伯爵とエベットが抱きしめあう。

 そのどさくさにまぎれて、ワレスはメイベルを部屋からつれだした。


「どこか二人きりで話しませんか?」


 メイベルは悲しげな瞳で、うなずいた。

「塔へ行きましょう」

「そうですね」


 塔につくまで無言だった。

 形だけの錠前をはずし、塔の扉をあける。

 そのとき、メイベルはあの秘密のぬけ道の入口をさした。


「あそこから入ってきたのね? あなたは十日は帰ってこないと思っていたのに」

「それはね。遠くの町まで行かなくても、おれはサイモンから本当のことを聞くことができるからですよ。サイモンは目下、おれの子分みたいなものです」


 というより、サイモンを疑わせるために、メイベルが嘘をついていることは、最初からわかっていた。


 もしも、サイモンが自分たちの素性がバレないよう、伯爵を殺していたのなら、即日のうちに、シオンも殺していたはずだ。鞍に細工して落馬を待つなんて、不確実な方法をとるわけがない。サイモンが計算高いからこそ、違うと断言できるのだ。


「あなたはわたしがだませるような人ではなかったのね」と、メイベルは自嘲ぎみに言う。


「おれを城から遠ざけて、そのあいだに、本物の兄上を殺すつもりだった?」


「ええ。わたしはお兄さまが、お芝居をなさってるなんて思いもしなかったけど。あの鉄仮面の男をひとめ見て、兄だとわかったわ。兄はきっと、義姉の愛人の逆襲を受けて、逆に仮面をつけられ、牢屋に入れられてしまったんだと思ったの。それなら、シオンが年々、兄に似てくることにも説明がつく」


「だとしたら、兄上にはなんの罪もなかったわけでしょう?」


 メイベルは答えず、塔のなかへ入っていく。


「兄の部屋のあのぬけ道。子どものころに、わたくしも兄と通ったわ。あのころはまだ父が存命で、あそこは父の部屋だった。わたしたちはよく父におねだりして、あの通路を使わせてもらった。ホコリまみれになって、ここへ来て、塔の上の秘密の遊び場で、何時間もすごしたわ。代々の伯爵家の子どもが遊び場にしてたんだから、秘密でもなんでもないんだけど。

 あのころはほんとに、ここがわたくしたちだけの秘密の世界のような気がした。あのまま、時が止まってしまえば、よかった」


 狂気をはらんだような口調で言い、らせん階段をかけあがっていく。

 ワレスは追いすがり、その腕をつかんだ。


「塔からとびおりるつもりじゃないでしょうね?」

「まあ、そんなこと……」


 と言ったあと、メイベルの頬に涙がすべりおちてくる。


「それも素敵ね。今なら誰も、わたしが死んだほんとの理由がわからない。兄は不幸な妹を哀れんで、追ってきてくれるかしら?」


 ワレスは慎重に言葉を選んだ。


「それは難しいでしょうね。今となっては、奥方が命がけでひきとめるだろうから」

「そうね。わたくしがバカだったのよ。兄があんなふるまいにおよぶ男かどうか、少し考えればわかることなのに」


 メイベルはワレスの手をひき、最上階へとみちびいた。

 兄妹の秘密の遊び場。

 室内へ入ると、メイベルはなれた手つきで、そなえつけのロウソクに火をつけた。


 ワレスは、そのよこ顔に話しかける。


「おれは思うんだが。マイルズはジゴロだから、女を堕とすのに手荒なマネはしないはず。そりゃ、マイルズは伯爵のような立派な男ではなかった。だからって、極悪人というほどでもなかった。ただ女にだらしない、刹那せつな的な享楽主義者だ。

 マイルズはちょっと観察しただけでわかっただろう。どうやって近づけば、あなたを籠絡ろうらくできるのか。

 伯爵はあなたがマイルズの力による屈辱をうけたと考えているようだが、そうではないですよね? マイルズには伯爵の仮面と甘い言葉さえあれば、充分だった」


 メイベルは遠くを見るような目で微笑む。


「ええ。だって、わたくしの理想の男は、少女のころから、ずっと、兄でしたもの」


「わかりますよ。事件のために調べれば調べるほど、伯爵が魅力的な男だということが、一面識もないおれにさえわかった。ましてや、あなたは女だ。完璧な兄とくらべて、まわりの男が、さぞ、つまらなく映ったでしょうね」


「でも、それは恋というより、憧れのようなものでしたわ。兄の存在が、わたしを結婚にふみきらせなかったのは事実だけれど。

 わたくしに言いよる求婚者は多かった。けれど、どの人も兄より劣って見えた。父や兄が結婚に寛大だったのをいいことに、わたくし、心に決めていました。容姿も頭脳も気質も、すべてが兄より優れた人でなければ、わたくし、結婚しないと。そんな人など、いやしないのに。おろかね。だから、こんな年まで売れ残ってしまって」


 自嘲的に、メイベルは笑う。


「あなたは今でも絶世の美女だ。その気になれば、どんな男だって、とらえることができる」


 ワレスはメイベルのとなりに立ち、手をにぎりしめる。

 メイベルはワレスのおもてをのぞきこんできた。甘い吐息が、ワレスの頬にかかるほど間近から。


「あなたはかなり及第点だったわ。白薔薇さん。ジョスのいい人でなければ、本気で結婚を考えたかも」


 メイベルの水蜜桃のような唇が、やわらかく覆いかぶさってくる。

 くちづけのあいだ、ワレスは申しわけないような気がした。自分は完璧な男なんかじゃない。完璧からはほど遠い。


「おれは、とても大きな欠陥をかかえてるんだ」


「いいのよ。そんなところも可愛らしいわ。もっと早く、あなたの半分でも素敵な人と出会えていたら、こんなことにはなってなかったでしょうね。お兄さまだと思っていたあの男に誘われて。ずるずると深みにハマって。どうしても、ぬけだせなくて。こんなことではいけないと、ずいぶん悩んだわ。それで、あの夜、お兄さまを殺して、わたしも死のうと決意したの」


 苦悩の色が長いまつげのかげに、なまめかしく、ほのみえる。


「身ごもってることが、わかったから?」


 メイベルは返事のかわりに、一度、大きくまばたきした。


「さすがに神が許さないと思ったの。兄が終わらせないなら、わたしの手で終わりにしようと思って……。

 大決心だったのに、こときれた兄の顔を、最後にひとめ見ようとしたら……それは兄ではなかった。そのときのわたしの驚きが、あなたにわかるかしら?

 わけがわからなくて立ちつくしていると、うしろで人の気配がした。急いでその場を逃げさりました。階段をおりたところで、伯母たちに会った。たったいま自室を出てきたふりをして、話をあわせたけど。きっと、あのとき、背後から見ていたのは、ジョーナスね。だから、わたしをかばって、自分が刺したなんて言ったんだわ」


「そうだろうな。あなたが室内にいたので、ジョーナスは死体を処理する時間がなかった。家族が来てしまったので、あわてて逃げだした。その後、伯爵を助けだす機会をうかがっていたが、鍵を持たないジョーナスにはままならなかった——というわけだ」


 ワレスはため息をついて、メイベルの瞳を見つめた。


「ねえ、もういいじゃないですか。あなたが契っていたのは、兄ではなかった。あなたが思っていたより、ずっと、あなたの罪は軽かった。死ぬほどのことじゃない」


「わたくしは兄だと思って、あの人に身をまかせたのよ! 今さら違ったからって、この気持ちをなかったことにはできない。今度こそ、ほんとに殺してしまう。ほかの女と幸福に微笑んでいる兄を見たら!」


「シオンを塔に閉じこめて、殺そうとしたように?」


「ジョスのために薔薇をつんでいたの。塔の小窓からシオンが見えた。わたくしとお兄さまの大切な思い出の場所なのに——そう思ったら、いつのまにか体が動いていたわ。義姉の不倫の子のはずなのに、年ごとにお兄さまに似てくるあの子が、急に憎くなって……」


 メイベルの瞳から涙がこぼれた。彼女はそれを両手で覆いかくそうとする。


「……だからもう、わたくし、自分を抑えられない。もう、どうしていいか、わからない」


 ワレスはメイベルの手をつかんだ。泣きぬれたおもてを、ワレスの前にさらけだす。


「家族なんか捨てて、皇都へ来たらいい。あなたが笑って暮らせるようになるまで、おれがなぐさめてやるから」


 かすかに、メイベルは泣き笑いの表情を見せた。

 この笑みが、いつか本物になることを、ワレスは知っていた。

 メイベルの子どもは、きっと、彼女によく似た美しい子だろう。メイベルには、兄とのあいだの子のように愛しく思えるはずだ。そして、そのうちには、つらい恋の記憶は薄れる。新しい恋にふみだすことができる。


 ワレスはそれまでのあいだ、ほんの少し力を貸せばいい。


「ジョスリーヌはどうするの?」

「ああ。ジョスにはナイショだよ」

「いけない人ね」


 ワレスの胸で、メイベルは泣きじゃくる。幼な子のように声をはりあげて。


 泣けばいいよ。

 この涙が枯れるまで。


 ワレスはそっと、メイベルの肩を抱きしめた。

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