十章 4
伯爵は立ちあがり、涙をながすメイベルの肩に手をおいた。
「すまなかったね。メイベル。私のために、おまえを苦しませた。さあ、もういいんだ。もう何も苦しまなくていい。私とともに行こう」
メイベルを抱きおこし、二人で室内を出ていこうとする。
ワレスは彼らの前に立ちはだかった。
「そして妹を殺し、自害するつもりですか?」
伯爵が息をつまらせるのがわかる。
ワレスはさらに一歩、二人に近づく。伯爵の反対側から、メイベルの腕をとった。
「だめですよ。姫。あなたが死ぬ必要なんてない。伯爵は自分で自分の過ちがゆるせない。だから、あなたを道づれに心中しようとしてるんだ」
「それは違う。私は妹を不幸にしておきながら、自分だけ幸福になることはできない」
「そうです。あなたは幸せになろうと思えばなれる。ジャマなマイルズはいなくなったし、その仮面はヤスリで切りおとしてしまえばいい。以前の考えどおり、奥方に真実を打ちあければ、何もかも解決する。でも、あなたの性格では、それはできないんですよね?」
「わかっているなら、どいてくれ。メイベルも生き恥さらすより、そのほうがよかろう」
「あなたのその性格は見越していました。だから、おれは仕掛けを用意しておいた——さあ、出てきてください」
後半はろうかに向かって言う。
すると、ひらいたままのドアのかげから、エベットが現れた。
伯爵はがくぜんとして、よろめいた。
「なんてことだ……」
「あなたが奥方には真実を告げず、死ぬ気じゃないかと、おれは思った。なので、前もって奥方に言っておいたんです。もし、真相が知りたければ、今夜、私たちの客室で待っていてほしいと。こうなってもまだ、閣下。あなたは死を選ぶことができますか?」
ワレスは道をゆずる。
エベットがためらいがちに伯爵のもとへ歩みよった。そっと伯爵の手をとり、自分の胸にあてる。
「……この手です。たしかに、わたしの愛した人の手です」
これまで信じてきたものが、すべて嘘だった。そのことに、エベットは強い衝撃を受けている。
だが、伯爵を見る目に、責めるような色はない。二人は二十年、愛を語り続けてきたのだ。そこにある真心を感じとれないわけがない。
伯爵は深い吐息をしぼりだした。
「そなた、ズルイぞ。こんな手を使うとは」
にらんでくるので、ワレスはダメ押しをする。
「ねえ、伯爵。あなたが奥方と出会ったのは、皇都のダンスホールでしたよね。仮面舞踏会だったんじゃありませんか?」
「それが、何か?」
「あなたと奥方は、仮面をつけたまま、おたがいに恋をした。同じ日に、マイルズもその舞踏会に来ていたのが、不幸の始まりだった。マイルズとあなたは姿形が似ていたんでしょう? 同じ仮面をつけていたら、奥方があなたとマイルズをまちがえてしまってもしかたない。
奥方の話に出てくる、美しい詩や歌を聞かせてくれたマイルズと、うわべだけの優しさで金をせびりにやってくるマイルズでは、人格が違いすぎる。変だと思っていたんだ。奥方が最初の夜に語りあかしたマイルズは、たぶん、あなただった」
悲鳴があがる。
伯爵とエベットの口から、同時に。
それは二人にも合点のいく答えだったのだ。
「あなたは二十年、奥方をだましてきたと言った。だが、そうじゃないんだ。奥方が愛してたのは、最初から最後まで、あなたの心だったのだから」
伯爵の仮面の双眸から、涙が玉になってこぼれおちた。
そのとき、エベットが奇跡を起こした。にぎりしめていた伯爵の手を離し、自分の首にかけた鎖を、服の下からひっぱりだした。鎖のさきには、小さな金の鍵がついていた。
「これを使ってください」
ワレスも、伯爵も、ジョーナスも、思わず感嘆の声をあげた。
「それは、もしや……」
「はい。仮面の鍵だと思います。二年前、伯爵の顔を見たと言いましたね。じつは、この鍵を盗むために、伯爵の部屋に忍びこんだときのことです。牢屋の鉄格子の鍵は見つからなかったんですが、これを手に入れることができました」
「では、なぜ、マイルズに——マイルズだとあなたが思っていた、牢屋のなかの伯爵に、その鍵を渡さなかったんですか?」
ワレスが詰問すると、エベットはうつむく。
「勇気が……持てなかったからです。わたしが愛したのは、ほんとにマイルズの心だったのか。もしや伯爵の言うとおり、マイルズの美しい顔だったのではないのかと。そこなわれたという顔を、わたしは一度も見たことがありませんでしたから……」
なるほど。気の弱いエベットらしい苦悩だ。
「では、これで心置きなく、仮面をはずすことができますね」
エベットはうなずき、自分の手で、伯爵の仮面の鍵をはずした。
醜い鉄の仮面が床に落ちる。伯爵のおもてが、二十年ぶりに人目にふれた。ヒゲは伸びていたが、それでも、同じ。
肖像画と同じ、あの顔だ。
輝くばかりに美しい。
伯爵は優しい笑みをエベットにむける。エベットは涙をうかべて微笑みかえした。二人が抱きあい、くちづけるのを、そこにいる全員が見守った。
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