七章 4
そのあと、深呼吸で感情の乱気流を落ちつかせる。いつまでも泣いてばかりもいられない。
「……で、典医はなんて?」
話題をきりかえる。
ジェイムズは今さら、激情のなかで言ったセリフの数々が恥ずかしくなったのか、照れ笑いをみせた。
「それが、残念ながら、当時、伯爵のケガを診た医者はもういないんだよ。あのあと、別の医者にお抱えが代わったんだそうだ。今の典医は、伯爵の仮面をとった顔を一度も見たことがない」
ワレスはガッカリした。
「なんだって、みんな、自分の城のあるじの顔を知らないんだ。おかしいじゃないか」
ふと、前に思いついた考えが脳裏をよぎった。が、ジェイムズがあることを言いだしたので、関心が移る。
「でも、おもしろいことがわかったんだ。以前の典医の名前は、クラウディオ・モントーニだって」
「モントーニ? 皇都で名医と評判の、あのモントーニ?」
「そのようだね」
モントーニなら、ワレスも知ってる。知ってるどころか、ちょっとしたつきあいもある。以前、ある事件で知りあったのだが、女好きで野心家で自分に正直な天才医者と、なぜか気があった。
何度も二人で町の酒場にくりだした。ワレスの美貌によってきた女を、モントーニが金と名声でくどくというスタイルで成功してきた。
モントーニも、ワレスを重宝しているようだ。
「惜しいな。ここが皇都なら、すぐにたしかめに行くのに」
「手紙を送ろう。騎士長にたのめば、早馬を出してくれるだろう」
「そうだな。早馬でも往復には五、六日か、それ以上かかるだろうが。このさい、しかたないな」
ワレスたちは兵舎のある前庭のほうへ歩いていった。
騎士長は遅い昼食のために、食堂へ行っていた。食堂といっても、伯爵家の人間が使う豪華な大食堂ではない。厨房と隣接した使用人用の食堂だ。
騎士長とはいえ、伯爵家の人間ではない。ふだん、オーガストはここを使うらしい。
使用人食堂へ入ったとたん、充満したスープやベーコンの匂いが鼻をうつ。
ワレスはすっかり忘れていた食欲を思いだした。今日は朝から泣いたり笑ったり、怒ったり。感情のフルコースを味わった。ここらでちゃんとした料理のほうも堪能したい。
「兵士と同じ料理でいい。おれにもくれないか」
台所女にたのんでおいて、オーガストのとなりにすわる。
オーガストはワレスたちを見て、
「何か?」
ワレスはまず、手紙の一件を話した。
「手紙はすぐに書いてくる。紙とペンとインクがあれば、ここで書いてもかまわないが」
きっと、何度も顔をあわせるのがイヤなんだろう。オーガストは近くにいた兵士に命じて、それらを持ってこさせた。
ワレスの前には、食事と紙と羽ペンとインクつぼが、いっぺんに並んだ。
ワレスは食事は右手で、文字を書くのは左手という両利きだ。器用に食べながら手紙を書く。
オーガストが非難する。
「育ちが知れるぞ」
ワレスは下からすくいあげるように、オーガストをながめる。
「メイベル姫の恋人は、やっぱり、あんたなのか?」
「はあ?」
首すじまで真っ赤になって
「ふうん。かわいそうにな。姫君には好きな男がいるみたいだ」
「それは……妙齢のご婦人だ。そんなことも、あるだろう」
強がっているが、オーガストはだいぶ、へこんでいる。
これ以上、追い討ちをかけるのは哀れだったので、ワレスは言わないでおいた。おれはあの人と寝たよ——とは。
かわりに、もうひとつ気にかかってることをたずねてみる。
「なあ、あの裏庭にある古い牢屋だが。ほんとに、なんにもいわくがないのか? あんた、あの場所のことを話すとき、ちょっと変だった。何か隠してるだろう?」
オーガストの表情はかたい。秘密があるのは、その顔を見れば、あきらかだ。が、白状しろと言うだけでは、オーガストは口を割りそうにない。
ワレスはモントーニへの手紙を書きおえ、封筒におさめる。
「じつはな。おれとジェイムズは、昨夜、ある人の不審な行動を目撃して、あとをつけたんだ。今朝になって場所を確認してみた。どうも、あの牢屋付近なんだ」
周囲に聞こえないよう、ワレスはオーガストにだけ耳打ちする。
「今夜、待ちぶせして押さえるつもりでいる。あんた、隠してることがあるなら、今のうちに言っといたほうがいいぞ」
とたんに、オーガストの顔色は変わった。
「だ、誰なんだ。その人物は?」
ワレスはまた耳打ちした。
オーガストは大きなうなり声をあげた。
「そんな……バカな。もう二十年も前の話なんだぞ」
ワレスはジェイムズと目を見かわす。
「やっぱり、何かあるんだな? あの場所」
オーガストは肩をおとした。
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