六章 3
ふと考えてみる。
もし、ワレスが十六のときに起きた、あの一件がなければ、どうだったろうかと。
もし、あのとき、ワレスが、あのひとことを言わなければ、ルーシサスは死なずにすんだ。
ワレスは今ごろ、アウティグル伯爵のもとで、納税部の官吏としてそこそこ出世しつつ、家令の仕事をおぼえ始めていたはずだ。将来、ルーシサスの右腕になるために。
ルーシサスは伯爵家の一人息子だった。いずれは親の決めた許嫁と結婚していただろう。ワレスとの関係性は大いに変化していた。
でも、少なくとも、ルーシサスのそばで、一生、平穏な毎日をすごすことができた。
ルーシィの不在を、絶望のなかで、なげき暮らすことなどなかった。
会いたいと、今、こんなにも強く求めることもなかった。
もう一度だけでいい。
ルーシサスに会えるのなら。ほかの何をなげだしてもかまわないのに。
人目をさけながら歩いていって、ワレスは無人の客室のようなところに入りこんだ。窓ぎわで頭をかかえて、消えない思い出に苦悩した。
問題なのは、ワレスがルーシサスを殺したことではない。ワレスがルーシサスを愛していたことだ。
ルーシサスはみずからの死によって、ワレスを一生、彼への愛に従属させた。求めても、二度とは得られない愛に。そういう意味では、勝者はルーシサスだ。
こんな思いで、このさき何十年、生きていかなければならないのだろう。
ワレスが深い思いに沈んでいるとき。
どこからか、少年の笑い声が聞こえてきた。失った天使の声が、空から届いたのだろうか。
ワレスは一瞬、自分の正気を疑った。が、どうやら、まだ、ワレスの精神は最後の平安へふみこんではいなかった。
窓の外で、シオンが遊んでいる。野ウサギをつかまえて、草むらをころげまわっていた。一人ではない。いとこのフローラといっしょだ。彼らのまわりの大人たちは敵対してるが、子どもどうしには、そんなことは関係ないらしい。あどけない笑顔がうらやましかった。
シオンは貴族の息子にしては悩み多い少年だが……いや、だからこそ、死ぬ前のルーシサスが持っていた聖性に通じるものを、その笑顔に感じた。
ふいに思った。
シオンを守ってやらなけらばならないと。
これは、ただの過去の自分の犯したあやまちに対する
それは、わかっている。わかっているが、いくらかでも自分の気持ちがまぎれるなら、試してみても損はない。
(シオンは伯爵が生きてると言ってたな。では、その伯爵をさがしだして、また家族と暮らせるようにしてやろう。そうすれば、おれの心も救われるかもしれない。ルーシィの流した涙の一粒ぶんくらいは)
ジェイムズが話しているという典医のもとへ行ってみよう。
その場を立ち去りかけたワレスは、ふたたび足をとめた。窓の外を見なおす。体のむきが変わったので、さっきとは違うものが見えている。楽しげに遊ぶ幼い二人を、木かげから見つめるサイモンだ。その目に陰湿な殺意を感じて、ワレスは緊張した。
昨日の塔での軟禁事件。
あのとき、シオンを閉じこめたのは、サイモンだという確信がこみあげた。
サイモンは企んだような顔で、どこかへ移動する。
そっと、窓をあけ、ワレスは庭におりた。庭木に隠れて、気づかれないようにつけていく。
サイモンはにぎやかな声をあげて剣術のけいこをする、兵士たちの訓練場へ歩いていく。剣の腕前でも磨くつもりだろうか。
だが、サイモンはそのまま、訓練場の前を通りすぎた。馬場の裏にある
さては、遠乗りか。
しかし、それならなぜ、あんなふうに、キョロキョロ周囲を気にするのだろう?
ワレスは監視を続ける。
サイモンは厩舎よこの小屋へ入っていった。
外からはなかが見えない。足音をたてないよう注意して、小屋に近づく。明かりとりの小さな窓にひたいをよせる。
なかは乗馬用の馬具置き場になっていた。兵士たちの使うのは、飾りけのない実用むきのもの。金糸や銀糸の美しい装飾的な馬具は、伯爵家の男が使うものだろう。
サイモンはそれらのほうへ、まっすぐ歩いていく。
やはり、遠乗りか。
ワレスがあきらめかけたときだ。
サイモンは意外な行動に出た。サイモンが使うとは思えない、子ども用の小さな
ワレスは急いで、なかへかけこんだ。
サイモンはナイフをポケットにしまう。だが、もう遅い。ワレスは一部始終を見ていたのだ。
「シオンの鞍だな。シオンを落馬させて、あわよくば殺すつもりか?」
ごまかそうとするサイモンの手元をおさえ、切りさかれた革を見せつける。
サイモンは唇をかんで、ワレスをにらんだ。好青年に見せようとしていたサイモンとは、まったく違う表情だ。
ワレスはそこに自分と同じ魂を見た。
貧しく生まれたという、ただそれだけの理由で、世界から受けてきた理不尽な暴力に、渾身の力であらがおうともがいてる。
激しい怒りと復讐の炎が、たえず胸をこがし、近づく者すべてを焼き滅ぼそうとする。
とめることはできない。
その炎は、いつか、自分自身をも燃やしつくすと知っていながら。
「シオンが憎いのか? 恵まれた立場で生まれてきたシオンが。だから、シオンを殺して、彼が手に入れるはずだったすべてのものを横取りするのか?」
サイモンはワレスの手をふりはらう。
ひらきなおったように笑う。
不敵な笑みだ。
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