12 決戦:青山(せいざん)とは墓場のことと少年は知る

 ダンとともに山の中をさまようように行きつつ、気づいたことがあった。それは、どんな場所にも忘れ去られた祠や朽ち果てた社があり、また墓があるということだ。

 二千年前、この地は採鉄や製塩を生業とする人で溢れていた。千年前、この地は、修験道者、俗に山伏と称されるテクノロジストたちの拠点だった。

 今風に言うとイノベーションの志こそ、この町の真骨頂だった。

 志田のことを思いだした。僕も「ふるさと」という歌は、好きだった。でも、なぜ「こころざしをはたして いつのひにかかえらん」なのか、僕には腑に落ちないのだった。こころざし、なら今いるところでも果たせるのではないか。

 もちろんカネや地位や名誉は、「ここ」では得られないだろう。けれども子孫に、自分が味わった悲しみや苦しみを味わいさせたくはないという思いが、本当のこころざしであるような気がしていた。

 僕は、ダンの後をひょこひょこ付いて行きながら、知らず知らず歌を口ずさんでいた。アニメの「チョロちゃん」の主題歌だった。

 きみとあるいたみち いまは どんどんゆくよ

 そらははれわたり かぜは そよいでる

 きみとあるいたみち いまは てくてくゆくよ

 とりははばたくよ むしは さえずるよ

 ダンは頻繁に、僕の方を振り向いた。心配そうでもあるし、鼓舞しているようでもあった。

 きみとあるいたみち それは てんへとつづく

 ぼくはとしおいた きみは もういない

 きみとあるいたみち いまも どんどんいくよ

 そらははれわたり かぜは そよいでる

 なめらかな管弦楽のメロディが想われ、次第に天に昇っていくかのような心地にさせた。そこにトランペットも加わり、マンドリンの音色が上乗せされた。明るいが、もの悲しさが心に響いた。

 けれども歌っていると、気分が晴れてきた。知らぬ間に、相当な高さまで来ていた。ふと振り返ると、木立を透かして海が展望できた。大きな軍用艦さえも、殻付きのピーナッツほどの大きさにしか見えなかった。

 しかし絵葉書を眺めているような、心もちにはなれなかった。どこからともなく油の臭いがする煙が漂ってきて、あたりを満たしていた。

 もう正午を過ぎていた。僕は、名状しがたい疲労に襲われていた。

「ダン、ちょっと休ませて」

 僕は草むらに倒れ込むように、身を横たえた。その折、小さな丸っこい石で頭を打った。表面は風雨で削られ、自然のものにしか見えなかったが、それは墓石だった。

 ダンは、心配そうに僕の傍らに座った。

「ダン、ごめん。少し寝れば、元気になれる」

 僕は、三十分ほど意識を失くした。熊に食べられる夢を見て、うなされながら目覚めると、ダンが僕の顔をなめまわしていた。

「ダン、僕は食べ物じゃないぞ」

 ダンの顔が、ぱっと明るくなった。さあ、行くぞと言いたそうに、一瞬で巨大化した。僕は意を決して、その背によじのぼった。上着のポケットから荒縄を取り出し、それを再びダンの頸に巻かせてもらった。

「ダン、少し痛いかもしれないけど、ちょっとだけ辛抱してくれないか」

 ダンは、ワウーと言った。くすぐったいが、我慢するよと言ってくれた。

「ありがとう、ダン」

 ダンは僕を乗せ、ハアハアと荒い息を吐きながら、慎重に道なき急斜面を這いあがっていった。標高五百メートルの山なのに、これほど急峻だとは想像していなかった。

 午後三時頃だった。それまで晴れていた空が、一転して曇り、四方から冷たい、底知れぬ悪意を感じさせる風が吹いてきた。

 またしても霧が出てきた。この高度では、雲と言うべきだろうが、灰色の塊が不定形の生き物のように前方から押し寄せてきた。まるで僕らを包み込んで、窒息させようとする悪魔の所業のようだった。

 もう下界から銃撃音や爆裂音は聞こえなくなっていたが、そのかわり山頂付近から激しい戦闘を伝える無機質な音が、絶え間なく鼓膜を揺すった。やがてその音も消えた。


 南側から登っていたが、途中から小石が密集したガレ場となった。僕たちは、北側へ迂回せざるを得なくなった。

 やがて断崖が見えてきた。僕たちは、杏仁池の下と思しき場所にたどり着けた。さすがにダンも疲れた様子だが、それでも僕を背に乗せたまま、ゆっくりと茂みに入っていった。人の背よりも高い電気柵があったが、ダンはいともたやすく、それを飛び越えた。僕は、尾てい骨からのものすごい衝撃に気絶するかと思った。

 目の前には、土手があった。そこを越えようとした時、ダンは、急に伏せの体勢となった。僕はダンの背にしがみついたまま、あたりを見回した。ねっとりとした雲の中、左手から何かが、もぞもぞと迫ってきた。それは、触角を不気味にうごめかしていた。

 ダンは息を殺して、その生き物が通り過ぎるのを待っていた。闘ったら勝てるんだが、面倒くさい相手だよと、ダンは言いたそうだった。

 それは、巨大な蛞蝓だった。太さは二メートル、長さは十メートルはあったろう。それは茶褐色だが、ところどころに大きな赤い斑点があり、無気味さが際立っていた。

 祖父が見たのは、これだったのだ。僕は、全身から水分が蒸発するような感覚を覚えていた。まるで自分が、塩をかけられた気分だった。

 蛞蝓が通りすぎると、ダンは土手をやすやすと跳び越えた。そこは、僕の家ほどの広さしかない砂地だった。お地蔵様くらいの大きさの岩が、点在していた。

 目の前には、一反ほどの池があり、東と南は高い崖で閉ざされ、西は木々で塞がれていた。杏仁池は、まさに祖父が伝えたとおりのありさまだった。

 快晴の昼間でも、陰鬱そうな場所だった。その上、日没間近の雲の中にいたのだから、あたりは夜の雰囲気だった。冷たい風が、池の上で舞っていた。ビシュヌにもらったウィンドブレーカーがなければ、凍えるところだった。

 水面は、激しく波立っていた。そこには、時折、白く光るものが姿を現していた。それが水の移ろいによる現象なのか、はたまた何かの生き物によるものなのか、僕にはわからなかった。

 東側の崖の上とその地下に、五太夫の居宅がある。その周辺から、明かりがここまで漏れてきていた。統治軍が強襲したはずだが、何の物音もしなかった。直ちに制圧できたのだろうか。五太夫のことだ、身を護るために屈強の仮面をはべらせ、さまざまな罠や仕掛けを用意し、秘密の逃走ルートを確保しているに違いなかった。

 僕は、少し冷静になった。そもそも僕は、なぜ、ここに来たのだろう。事実を確認し、絶望するため。祖父の話が事実であると確認できたのだから、もういいではないか。それ以外に何もないというのが、絶望の正体だったというオチか。

 あんな蛞蝓に襲われないうちに、下山しようと思った。

 その時、東側の崖の一角が、ほの明るくなった。目を凝らすと、そこから溶け出るように海賊船が現れた。少し大きめのヨットという感じだった。

 同時に、爆発音が轟いた。地面が震動し、爆風が僕の身体を揺さぶった。僕は本能的にダンの背から降り、うずくまった。ダンも一瞬で元の大きさに戻り、石の陰に身を潜めた。

 建物や機械の破片が、相当な速さで僕たちをかすめていった。瓦礫がいくつか、僕の頭部を直撃したが、ヘルメットのおかげで無事だった。爆風とともに、人の叫び声や銃声が聞こえてきた。それは、あるいは空耳だったかもしれない。

 おそるおそる顔を上げると、池は大きく波立っていた。銀色に光る大きなものが、何十も水面に浮かび上がっていて、すさまじい勢いで無秩序に動いていた。興奮した生き物だった。阿波の奥地にいるという怪魚の話を思い出した。

 山頂からは火柱が天に向かって伸び、塵が渦巻いていた。濃い墨のような煙が、とぐろを巻くように迫ってきた。それは、スルピパドンの臭いがした。

 五太夫の居宅が、爆破されたのだと容易に想像がついた。おそらく自爆だろう。統治軍の兵士たちも、仮面らも道連れになったのだろうか。

 僕は、頭の中が真っ白になっていた。逃げようと声をかけたが、ダンは聞こえない振りをした。ダンは、これまでに見たことのない厳しい表情で、海賊船を凝視していた。

 僕も仕方なく、立ち上がった。あたりは、すっかり暗くなっていたが、雲は薄れており、火柱のおかげで船の様子が、はっきりとわかった。

 狭い甲板には、四人の仮面とともに、強化服姿の小柄な人物がいた。ヘルメットは装着しておらず、包帯で頭部をぐるぐる巻きにしていた。それは、五太夫美禰に違いなかった。ひどい火傷を負っているはずだが、とにかく逃亡するつもりなのだろう。このあたりに海に通じる秘密の地下道が用意されていて、潜水艇にでも乗り込む気なのか。

 仮面のひとりは、堂々とした様子だった。五太夫司城だと確信された。他の三人は護衛であろう。群を抜いて有能な、司城にとって信頼のおける人物なのだろう。

 連中は僕に気づいて、ひどく驚いたようだ。僕はフルフェイスのヘルメット姿だから、美禰にも僕が誰だかわからなかったろう。けれども悪魔的な感覚の持ち主なので、身体つきや些細な仕草から、僕の正体を見抜いたような気がした。

 船が迫ってきた。仮面が自動小銃を構えたが、発砲はしなかった。統治軍の生き残りがいたら気づかれるから止めろと司城に命じられたのだろう。かわりに司城は、得意のクロスボウを、たぶん舌なめずりしながら、ゆったりと身構えた。

 僕は慌てて、傍の岩の陰に飛び込んだ。しかし岩は、僕の全身を護ってくれるほど大きくはなかった。僕は、またしても後悔していた。死ぬことが死ぬほど怖いのに、死地に赴いてしまう。絶望すべきだと言いながら、絶望しきることを恐れている。僕は、そんな自分自身に絶望していた。

 岩陰からは、どんなに身を縮めても、身体のどこかがはみ出してしまうのだった。手足の一部でも司城の眼に入れば、格好の標的となってしまう。そこに矢が命中すれば、痛みで七転八倒するはずだ。半身は、岩陰から出るだろう。そこで第二射が来れば、終わりだ。

 背を向けて逃げ出せば、かえって弓の好餌になるだけだ。僕は岩陰で、全身を毛虫のように丸めた。それでも身体のどこかが、司城の眼に見えているのは明らかだった。

 粘液のような汗が、一瞬で全身を濡らした。心臓は、僕から飛び出していきそうなほど動いていた。僕は、誰に向かってでもなく叫んでいた。

「助けて」

 矢が放たれた音が、聞こえたような気がした。それは、必ず僕の命を奪う先導となるはずだった。

 長い時間が経ったように感じたが、実はコンマ何秒もしないうちだったろう。ダンが、ことさら獰猛な声を発した。一瞥すると、ダンが口に矢を咥えていた。それは、僕に命中すべき矢だった。

 間髪入れず、二本目、三本目の矢が、今度はダンに向けて放たれた。司城のことだ、ダンの眉間めがけて矢を放ったに違いなかった。僕は、絶叫した。

「ダン、逃げろ」

 しかしダンは、十メートル先まで迫っていた船に向かって跳躍していた。まるでミサイルのように身体を伸ばし、これ以上ない速さで一直線に、低空を切り裂くように進むダン。その勇敢さと身体能力の高さに、僕は震えた。

 ダンに向けられた矢は、背後の森に消えていった。司城の狙いが、狂うはずがなかった。ダンは、空中で微妙に体勢を変化させ、矢から逃れたのだ。

 船に着く寸前、ダンは巨大化した。護衛の仮面のひとりは、自ら池に飛び込んだ。他の四人は、呆然と突っ立っていた。一体、何が襲ってきたのか、何が起こったのか、まったく理解できないようだった。

 ダンが甲板に降り立つと、船は沈没すると思えるほど、激しく左右に揺れた。そこにいた者たちは、なす術もなく皆、池に投げ出された。司城は、包帯姿の美禰をかばう仕草を見せたが、手遅れだった。

 銀色に光るものが、瞬時にして集まり、連中に襲いかかった。鯉か鮒かはわからないが、全長五メートルはあるだろう魚だった。魚は、浮かんでいる五人に襲いかかり、次々に水中に引き込んでいった。ばりばりという強化服を噛み裂き、さらには骨を噛み砕く音が、耳に達したような気がした。僕は、恐ろしさの極限を味わっていた。

 ダンは、しばし船の上にいたが、今度はふわっと優雅に舞い上がり、僕の横に着地した。僕は思わず、ダンの首筋にすがりついていた。涙が、あとからあとから出てきた。よだれや汗も止まらなかった。まるで身体の中の悪いものを、一気に出し尽くす感じだった。

「帰ろうよ、ダン、帰らせて」

 僕は、情けなく訴えた。ダンは、いつもの柔和で、とぼけた表情に戻っていた。脚を屈し、さあ、乗ってと伝えてくれた。僕は、その背によじのぼった。

 その直後、突然、水面に黒い仮面の頭部が現れた。硬い仮面であろうに、魚の歯に砕かれて、顔の左半分が露わになっていた。皮膚はおろか肉まで食いちぎられ、頭蓋骨の一部が見える。まるで人体標本のような姿だった。あたりの水は、真っ赤に染まっていた。

 それは、司城だった。顔面の神経はやられているようで、口は大きく開いたままだった。それは、僕のことを嘲笑っているかのように映った。しかし目つきは、この世のものと思えないほど陰険だった。

 僕は、思わず顔をそむけた。その様子を感じ取ったのか、ワンとダンが吠えた。怖気づくな、睨み返せ。ダンは、僕を叱咤していた。

 司城の足は、池の底に着いているようだった。胸から上が、水面上に出ていた。執念深くクロスボウを握って。

 僕は、ダンに訴えた。逃げようと。

 しかしダンは、それを無視した。僕が衰弱しきっているのが、わかっていたのだ。不用意に逃げだせば、僕はダンから転落するかもしれなかった。たとえ落ちないにしても、背中を向けた瞬間に、司城の放った矢が僕を射抜くだろう。

 僕は、いけないと思いつつ、投げやりな気持ちになっていた。実際に精神的な衝撃とあいまって、疲れは極限に達していた。長時間、飲まず食わずだったし、スルピパドンの効果も切れていた。視界はかすみかけ、手も腕も脚も、ダンに必死でしがみついていたせいもあって、もはや力が入らなかった。全身の至るところで、痙攣が起きかけていた。

 司城は、十数歩先まで来ると、クロスボウを構えた。その左手には、小さな袋を握りしめている。

 ダンは姿勢は低くしたが、昂然と頭を上げ、僕を矢から守ろうとした。その喉の奥から、低い唸り声を発し続けながら。僕は、ダンの背で身を縮めているしかなかった。

 司城が、歩みを止め直立し、ダンに狙いを定めた。しかし矢が放たれる直前、魚が彼の胴体に跳びつき、噛みついた。矢は、虚空に力なく放たれ、どこかに消えた。

 司城は池に引き込まれる直前、左手にあった小袋を岸に向かって投げてきた。それを、魚に呑み込まれては大変だと思ったのだろう。

 袋は、ダンの前に落ちた。ダンは、慎重に匂いながら、それを口で拾い上げた。手で探ると、紐を犬歯にひっかけていた。

 急におかしさが、こみ上げてきた。

「ダンは、お利口だなあ」

 いらまかした僕に、ダンは冗談めかして、鼻声で答えた。

「今度こそ、さあ、帰ろう」

 ダンは、ワオーンといななくように吠えた。池を去る直前、振り返った。そこには無人の海賊船が漂っているだけで、魚の姿も人の気配もなかった。ただ、あの蛞蝓の皮膚のように、赤い斑点が、水面のあちこちに浮かび上がっていた。司城、美禰、そして三人の仮面が、命を落としたことを示していた。

 山頂の火勢は少しは衰えていたが、火は周囲の草木に燃え移っていた。ダンは、むせた僕を乗せ、土手と電気柵を軽々と飛び越えた。その場を去った途端、背後で人が動き回る気配がした。統治軍の生き残った兵士たちが、池まで下りてきたのだろう。

 火に追われ、煙にいぶされながら、ようやく僕たちは安全な森の中に入ることができた。闇の中を、ゆったりと下界を目指した。やっと町が展望できる場所にたどり着いたが、灯りといえば、サーチライトと軍用車が発するものだけだった。

 空には、さまざまな航空機が飛行していた。爆音は、耐え難いほどだった。

 酸化臭と騒音に満ちた暗黒の中で、僕は、何もかも他所事のように感じていた。すべてが終わったという思いが、僕から、あらゆる力を奪っていた。

「ダン、眠い」

 僕は、それから幾たびも、ダンに告げた。ダンは、その都度、平らな場所で伏せをして僕を寝ませてくれた。僕は、一瞬だけ夢想した。ずっとこうやって、ダンと一緒に冒険ができたらいいのに。

 冒険。その言葉には、心を躍らせる何かがあると気づいた。幼い頃、憧れたものだ。アマゾンの奥地にあるという古代都市の遺跡に行きたい、アフリカの人跡未踏の地にいるという恐竜を発見したい、誰もしなかったことをしたい、誰もできなかったことを成し遂げたい、誰も行きつけなかったところに行きたい。

 けれども、うらはらに僕は、もう冒険はこりごりだとも思った。今は、平凡極まりない人生でも、実は冒険の連続ではないかという気がしていた。統治が壊れるということは、僕のような凡人にとっては、目先のやりくりですら冒険となるのだと痛感した。

 途中に祠があった。僕はヘルメットと手袋を取り、そこに捧げた。他人から見れば放置したことになろうが、僕は感謝の意を込めたつもりだった。

 腕時計を見ると、午後十一時を過ぎていた。その夜は、意外に暖かくなっていた。仙隋山頂付近の炎は、懸命の消火活動によって、おさまりかかっていた。

 僕たちは八幡様の裏山にある、忠魂碑に到着した。ダンは、名残惜しそうに伏せをした。このあたりで、お別れだと言いたかったのだろう。

 僕は、ダンの背から滑り落ちるように降りた。月と星の明かりだけが、ダンを照らしていた。ダンは、普通の犬の大きさに戻り、まるで恐縮するかのように顔を突き出した。犬歯にひっかけている袋を持っていけと勧めているのだ。

 司城の遺品なので気味が悪かったが、ダンの熱心さに負けて受け取った。小さな革製の巾着袋で、中には大きめのガラス玉のようなものがあった。なんだかわからなかったが僕は、それをズボンの裏の隠しポケットにねじ入れた。

 ダンは、悲哀に満ちた顔つきになって、フンと優しく鼻を鳴らした。僕は、その頸の手綱をはずした。同時にダンは僕に背を向け、仙隋山の方へと駆けだした。すぐにダンは、闇の彼方に消えていった。さよならの一言をかける間もなく。

 別れとは、これほど呆気ないものなのだろうか。すると死も、これほど呆気ないものなのだろう。

 僕は家に帰ろうと、のろのろと歩みをはじめた。左手に海が見えてきた。船の灯りが、いつものように目に入ってきた。航空機の爆音は消えていて、かわりに汽笛がこだましていた。

 仙隋山頂の火事は、おさまりかけていたが、その周辺は白く霞んでいた。空から大量の消火剤が、撒かれたのだろう。あの蛞蝓、あの魚は、大丈夫なのだろうか。僕は、生きているものすべてに、そして、死んでいるものすべてに、自分が何らかの責任を負わなければならないように感じていた。

 あらゆる存在の生と死の上に、僕の生と死も成り立っているのだ。僕に、その重さに耐える度量も能力もないことは自覚していた。僕は、人生のどこかで、自らの命を絶つべき人間なのだと信じた。僕は、能無しなのだから。

 ひとまず祖母に会わなければならない。その一心で、八幡様にたどり着き、そこからの急な坂道を、這って下りた。そこは舗装されていないので、全身、土にまみれた。

 石鳥居を過ぎると、頭上をヘリコプターが通った。それが起こした風で、目の前に何かが落ちてきた。それは昨日、僕が鳥居のてっぺんに投げ上げた町民証だった。僕は驚きながら、それを頸にかけた。

 そこから何歩か歩いた。家まで、あとわずかだった。兵士が数人、迫ってきたことは憶えている。けれども、そこから記憶はない。















 



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