13 その後:最終章 少年は過酷な運命に挑む

 僕は、真っ白な部屋でベッドに横たわっていた。天井も壁も蒲団も真っ白だった。僕を覗き込んでいる人たちも、真っ白だった。僕は死んだのだと思った。

 真っ白に見えた人たちは、実際は薄い水色の服を着ていた。天使ではなく、男性医師と女性看護師だった。太り気味の医師は、パプアニューギニア出身だと自己紹介をした上で、人なつっこい笑顔を浮かべ、僕の両手を軽く握って言った。

「若いから、すぐ元気になれるよ」

 ほどなくして、そこは琴浦町の隣にある児島市の病院だとわかった。窓越しに海が見えた。その病室は、七人くらい収容できたが、ベッドはカーテンで隔離されていた。

 僕のベッドは、突然、通路幅ほど横に移動させられた。同時に左隣のカーテンが、開けられた。そこには祖母が横たわっていた。

 僕は、声が出なかった。祖母はずっと眠っていたようだが、僕の気配を感じ取ったのか、ようやく顔だけを僕の方に向けた。祖母の目は、わずかに開き、口元が緩んだ。血の気のない頬が、かすかに赤らんだ。祖母は、何かを言いたそうだったが、言葉は荒い息となって漏れでただけだった。そのことが口惜しそうで、左腕を僕に向けて、精一杯、伸ばそうとしていた。

 僕も釣られて、右腕を伸ばした。やっと中指の先が、祖母の人差し指に触れた。冷たく、乾ききった指先だった。その刹那、祖母は満足そうな表情を浮かべると、腕の力を失った。その腕は、草がしおれるように床に向かって垂れ下がった。

 どこからか犬の慟哭する声が、聞こえてきた。僕が呆然としていると、医師は天を仰ぎ、それから静かに視線を落とした。

 僕は、祖母の死に顔を見つめたまま、指の感触を失うまいとしていた。

 後に知ったことだが、祖母は僕が逃げ出した直後、玄関先で昏倒したそうだ。田頭は、救ける素振りすら見せなかったという。すぐに近所の人の通報で琴浦町立病院に運び込まれたが、翌日の統治軍の攻撃直後、この病院に移送されたという。

 祖母の遺体は、数日前に制定された法律により、直ちに荼毘にふされた。とにかく国中で今でも、死人で溢れかえっている状況だ。致し方ないとはいえ、僕は承服しがたかった。遺骨は世帯主、つまり母が申請すれば、速やかに引き渡すと言われた。

 僕は病気や怪我ではないということで、その日の夜に退院させられた。負傷者が次から次に運び込まれてくるので、これも致し方なかったろう。そこそこ体力は回復していたし、スルピパドン中毒ではないと診断された。確かに禁断症状はなかったが、頭の状態は平常ではないと感じられた。

 僕は、統治軍の車両を避けつつ、一時間以上かけて歩き、がらんとした家に帰った。まず残っていたスルピパドンを全部、砕いてトイレに流した。

 祖母がつくった寿司は、まだ食べることができた。松茸の吸い物とともに、僕は時間をかけて味わった。何もかも、遠い昔の出来事のような気がしてならなかった。

 ビシュヌにもらったウィンドブレーカーは洗濯した後、できる限り圧縮した。僕は、それを一生の宝物にしようと決意していた。あのガラス玉は、巾着袋に入れたまま、勉強机の引き出しの奥にしまった。その袋は、後に鹿革製と知った。

 その後、冷え冷えとした家で、ほぼ一か月の間、ひとりで過ごした。毎日、特に何もせず眠くてたまらなかったが、いざ横になっても、なかなか眠れなかった。夜半に眠り、未明に目覚める。あるいは夜明けに寝入り、昼過ぎに起きだす。そんな日々が続いた。

 朝から晩まで頭の中で、聴いたことのない、畳みかけるような繰り返しの音楽が鳴り響いていた。主に聞こえるのはトランペットの弾むような音なのだが、もの悲し気に、しかも道化的に主旋律を奏でているのはクラリネットだったりした。

 眠っていると、その音楽に誘われるかのように、悪夢が訪れた。

 あの蛞蝓が、ねちゃねちゃ音を立てて僕を包み込み、溶かそうとするのだ。あるいは狭い、暗い窯に閉じ込められた僕は、何とか地面を手で掘り進んで、そこから脱出しようとするが、途中で爪がはがれてしまい、途方にくれているのだ。

 もっと異様な夢も見た。顔に恐ろしい火傷痕が残る美禰が、全裸になって僕を誘惑する仕草を見せながら、手にしていたクロスボウの矢を、僕の眉間に向けて放ってくるのだ。美禰は、叫んでいた。由希子より、私の方が素敵でしょう。なぜ私に恋しないの、私を抱きたいと思わないの、この裏切者と。

 もしかして、本当にもしかしてなのだが、早田由希子は僕に好意を抱いていたのではないか。そして、おぞましいことに美禰も。その歪んだ嫉妬心が、僕に対する迫害を生んだのではないか。だとすれば、すべて理解できるが、それを確かめる術はなかった。

 僕は悪夢にうなされる度、ダンと、実際に声を出して呼びかけていた。僕の精神は、限界に達していたが、たったひとつの救いは、町外とのやりとりができるようになっていたことだ。僕は、姉とネットで頻繁に語り合った。そのおかげで僕の精神の安定は、ぎりぎりのところで保たれた。

 ある日、姉は妊娠三か月だと知った。僕にも味方ができるんだと、妙に嬉しく思った。

 そうやって僕は、統治軍が一日一回、配給してくれる食糧で生き延びた。水と電気は途切れることはなかった。

 十二月に入って間もなく、母が帰ってきた。母は、竪場島の化学兵器工場で強制労働をさせられていたという。そのせいで咳き込みが、止まなかった。視力も相当、落ちていると言った。元気だった母は、まるで老婆のような感じになっていた。以前、父に教えてもらった初老という言葉が、重みをもって迫ってきた。

 それから二週間ほどして祖母と父の遺骨が、帰ってきた。ようやく年末に、自宅で葬儀を営むことができた。

 そこには、意外な人物がやって来た。正装したビシュヌとピートだった。二人とも儀礼服が、よく似合っていた。初対面のピートは巨漢で、小柄なビシュヌと一緒だと、まるで喜劇に出てくるコンビのような雰囲気を醸し出していた。

 もちろん姉夫婦も来た。母は、大泣きして喜んでいた。ビシュヌも、友人で姉のパートナーであるコールとの再会におおはしゃぎしていた。

 葬儀の後、僕は去り行くビシュヌを追いかけ、路地の片隅で密かに相談した。内容は、あの巾着袋の中身についてである。異様に怪しく危険なもののような気がして、僕は誰にも、その存在を明かせずにいた。母にも、言い出せなかった。母が知れば、また母が責を問われるかもしれないと危惧していた。

 ビシュヌは、巾着袋の中の玉を見つめ、緊張した面持ちになった。ややあってビシュヌは、僕にためらいがちに訊いた。

「コウ、これをどこで手に入れたのですか」

 僕は、経緯を正直に話した。僕が誰にも相談できなかったのも、そのいきさつについて話しても、誰も信用してくれないだろうと恐れたこともあった。ビシュヌは、少なくともダンを知っている。

 ビシュヌは、僕の話を聞き終えると、大きくうなずいた。

「そうですか。シジョウも、その娘も死んだのですね。哀れなことだ」

 ビシュヌは、頭を垂れた。僕は、相手がいかなる人間でも、その死や不幸について決して軽んじたり、嘲笑ってはいけないと心に刻みつけた。

 ビシュヌは、真剣な眼差しになった。

「しばらくは、ここに滞在します。その間、調べてみます。もちろんシークレットで。私を信用して、これを預けてください。いいですか」

 僕は、了承した。


 クリスマスの翌日、僕はビシュヌに近所のお好み焼き屋に誘われた。ビシュヌは、お好み焼きは好物になったと照れたように言った。

 この地には、かつて主に四国、九州から十代の女性が集団就職してきて、縫製に従事していた。故郷を離れざるを得なかった若い女性たちも、お好み焼きを好んだと聞いた。どことなく洋食風で廉価で、みんなでわいわい言いながら食べられるのが魅力だったのだろう。

 ビシュヌは僕には特大スペシャルを注文してくれ、今日はおごりだよと満面の笑みを浮かべて言った。彼は、ウィスキーのロックを味わいながら食べていた。僕は、その姿に憧れを抱いた。

 食べ終え、短い世間話の後で、彼は声をひそめた。

「コウ、これを返します。袋に内蔵してあったGPS機能は、水没したせいでだめになっていました。何も心配することはありません」

 彼は、件の巾着袋を僕の上着のポケットに入れた。中身は、そのままだった。それからバッグから、濃い緑色のバインダーを取り出し、僕に手渡した。

 彼はロックのお代わりを頼み、一仕事が終わったという風情で言った。

「コウ、袋に入っていた玉ですが、たいへん価値のあるものです。でも何も知らないで通してください。ただ大切に保管してください」

 僕には、何のことかわからなかった。ビシュヌは、諭すように続けた。

「ママにもシスターにも言ってはいけません。結婚してもパートナーにも秘密にしてください。本来なら、その玉は、あなたの国の政府、あるいは統治軍が接収すべきものです。あるいはゴッド・アー・ユーのファミリーが、所有権を主張すべきものです」

 僕の胃は、縮んだ。

「こんなもの、いらないです」

 僕の脳裏には、司城の血だらけの顔が浮かんでいた。しかし血の赤さより、今、恐怖を覚えるのは骨の白さだった。

 ビシュヌは、酔ったふりをして言った。

「私は、もうすぐ軍を辞めます。カザフスタンに行って、友人とセキュリティの会社を立ち上げます。ですから、そんなガラス玉のことは、もう忘れてしまいました」

 ビシュヌはいたずらっぽく目配せした後、重々しい口調になった。

「コウ、どんなに苦しくなっても、どんなに貧しくなっても、それを売ろうとか利用しようとか、しては決していけません。これだけは、約束してください」

 僕は、よく理解できないまま、うなずいた。

「では、どうしたらいいのです」

「コウに子が授かったとして、その子がマネーのスペシャリストになれれば、その子にすべてを託しなさい。この町が滅亡に瀕した時に、あなたの子が、その玉を使って町を救うことができるかもしれません」

 僕には、大きな疑問が湧いた。

「僕に子供ができるとか、町がどうとか、何も確定していない話では。明日、僕は死ぬかもしれないし」

 ビシュヌは、苦渋に満ちた表情になった。

「コウ、私は、あなたを一切の罪から遠ざけたいのです。ですから仮定の質問には、答えられません」

 その言葉に、僕は追及も反論もできなかった。ふと早田由希子を思い浮かべた。彼女と結ばれて、子供ができればいいなと夢想した。

 しかし町が滅亡するということが、本当に起こるのだろうか。

 ビシュヌは、静かに語った。

「私のホームは、ヒマラヤ山脈の中の小さい、貧しい村でした。そこは私が幼い頃、大地震に襲われ、地滑りで壊滅しました。私は、そこの、ただひとりの生き残りです。インド人の養父母に育てられました」

 僕は、あのペイズリー柄の岩屋での会話を思い出した。ビシュヌは、視線を落とし、続けた。

「私には母国はあるが、ホームはありません。だからコウが、うらやましい。私は、ホームのない国に帰る気がしません。国は抽象的なものですが、ホームは手で触れられます。その手触りを守るため、私は国があると思うのです」

 しばしの沈黙があった。僕にはビシュヌの声なき慟哭は、まだ十分にはわからなかった。

 彼は、静かにグラスを空けて、敢えて明るく言った。

「コウ、その玉は、あのドッグが拾ってきたんでしょ」

 それは、そうだった。

「だから気にしてはいけないと言いたかっただけです。ドッグが、勝手にしたことで、あなたには関係ないと」

 ビシュヌは、僕の肩を大げさに叩いた。

「コウ、元気を出して。あなたは、よく頑張りました。もうボーイじゃないよ。でもウィスキーは、まだ飲んではいけませんよ」

 それが、ビシュヌとの別れだった。


 大晦日、姉夫婦はカナダへ帰っていった。同じ日、五太夫グループは、半年後に消滅させられるという報道があった。しかし五太夫グループは、もはや存在しないも同然だった。統治軍の攻撃から数日以内で、ほとんどの従業員が退職の意思表示をしたという。

 国であれ企業であれ、いかなる集団や組織であれ、構成する人がいなくなれば、そこで終わりなのだ。もはや命を賭して闘う必要はない。無意味に耐える必要もない。逃げればいいのだ。どこにでも行ける時代なのだ。まともな人たちのもとに、誰でも行けるのだ。

 五太夫の元従業員たちには、国策として再就職先が次々と紹介され、町民は続々と町を離れだした。

 年明けのこと、母は咳き込みながら、真顔で僕に問いかけてきた。

「私らも、ここを出ようか」

 僕は、首を横に振った。

「ここにいたい」

 僕の心も揺らいでいた。出て行っても良かった。ただ身体の弱った母とともに、イッキの後始末が終わっていない知らない土地で、いちから生活を築いていける自信はなかった。母にしても実は、同じ気持ちだったろう。それにビシュヌの言葉が、ひどく心にひっかかっていた。

 加えて母のもとに、アサヤマという会社から縫製の仕事が、次々に舞い込むようになっていた。それは、一緒に台風被害の復旧作業に当たった朝間と山際が、急ごしらえで立ち上げた会社だった。ふたりとも経営者といえ、自らライトバンを運転し、町中を奔走していた。

 母の仕事は、日に日に増えていった。AIが世界を席巻しているのに、僕は不思議な気がした。ある日、忙しそうに服を縫っている母に訊いた。

「私らがやると、人工知能より安く上がるんだよ」

 その言葉には、やるせなさがこもっていた。

 母の咳き込みは、一向に良くならなかった。それどころか半日、仕事をすると、夕方には動けなくなることもあった。

 母は、ぶらぶらしている僕に何も言わなかった。本当は言いたかったに違いないが、まったく余裕がなかったのだろう。毎日、命を削って服を縫っているのが、肌を刺すほど伝わってきた。

 ある日、預金通帳を盗み見た。祖母と父の葬儀を執り行った後、我が家は本当に無一文になったのだと、はっきりとわかった。

 僕は、どうしたらいいのだろうと考えた。やみくもに就職しても、高校中退では先々うまくいくはずがないような気がした。

 僕は、大学進学を決意した。三月初めの寒い夜、夕食は煮込みうどんだった。それをすすりながら、母にそのことを伝えた。母は、少し明るい声で言った。

「復学するんだね」

 僕は、首を横に振った。学校に戻っても、勉強以外のことで多くの時間が割かれる。アルバイトも制限される。それに、いやな思いをさせられたところには、行きたくなかった。仮面に殴られ足蹴にされ、バカ野口と罵倒され嘲笑された口惜しさ、情けなさは、時の経過とともに心の中で膨らんでくるのだった。

「今さら高校に戻っても、この半年間の遅れは取り戻せそうにないよ」

 母は、しばし無言だった。学費をどうするか、考えていたのだろう。経済の崩壊とイッキのせいで、たった数年で大学の数は激減し、学費は高騰していた。奨学金制度は、無いも同然になっていた。

 僕は、母に告げた。これから働いて、家計を助け学費を貯めながら勉強し、高校卒業認定試験に受かって、大学に進むと。

 母は、切なそうに涙ぐんで言った。

「いいよ、それで、いいよ」

 翌日、僕は高校に退学届を提出した。校長も担任の北川も退職しており、届は即刻、受理された。

 その二日後から僕は、近くのコンビニで働きだした。ほとんど休日なしに一日九時間、勤務し、帰宅して五時間、勉強した。

 最初のうちは、何も頭に入って来なかった。自分の頭の悪さに、萎えてしまいそうだった。ある時、問題から入ればいいのだと気づいた。問題を解いていって、わからないところを調べて、頭にたたき込めばいいのだと。これで、少しは楽になった。

 悪戦苦闘しているうちに、五太夫グループは消滅し、統治軍は去り、町は平穏を取り戻した。けれども四万人の町民は、三分の一以下に減り、町は死んだようになっていた。湯沢君と橋本君、土居先輩の一家も町を去った。勤務していたコンビニのオーナーも、経営が苦しいと、僕に愚痴をこぼすようになった。ただ競合する店が次々と閉まったので、廃業には至らなかった。

 僕は、翌年の秋、なんとか高校卒業認定試験に受かった。それから、しばらく経って、大学受験を控えた正月明け、この地には珍しく雪の舞う日だった。僕は、深夜になっても帰ることができなかった。交代要員が、インフルエンザにかかったというのだ。僕は、徹夜を覚悟した。さすがに日付が変わると、客は少なくなってきた。

 思わず緊張感が緩んで、あくびが出た。その直後、自動ドアが開いて、ひとりの女性が姿を現した。あたりを見回しながら、ひどく人目を気にしていた。

 女性は、目と唇をひどく強調した化粧をし、髪を腰まで伸ばしていた。毛羽だったピンク色のブルゾンに、尻の形がくっきりと浮き出た水着のような丈のレザーのショートパンツを着用し、仮面用のブーツを履いていた。

 すぐにはわからなかったが、彼女は早田由希子だった。憧れの女性は、素早く店内を物色し、レジにいた僕の前に買物籠を無造作に置いた。その途端、彼女は僕に気づいたようだが、あくまで知らない振りで通そうとしていた。僕も、そうだった。

 買物籠の中には、ロングサイズの缶ビールが五本と避妊薬があった。清算を終えると同時に、僕の人生において、ある一区切りがついたと思った。

 後日、彼女の父は、統治軍の攻撃があった日から行方不明になり、母は自殺したと聞いた。その後の彼女の消息は、知らない。


 僕は、隣の市にある児島市立大学に進んだ。そこは、両親の母校でもある。都会に出るように勧めてくれた人もおり、母もそう言ってくれたが、健康を害している母に負担をかけるのは忍びなかった。

 児島市立大学なら自宅から通えるし、地元在住で成績要件をクリアすれば、翌年の学費が免除される制度もあった。卒業生は、地元企業が優先的に採用してくれるのも魅力だった。

 僕は、毎日、リュックサックを背負って自転車で通学した。

 意外にも、大学の非常勤職員に志田がいた。志田は、元仮面の更生に携わっていた。彼から、台風被害の復旧作業に当たった堀江と和井田の現況を聞くことができた。

 堀江は、高校を中退してメキシコに行って起業した。画期的な自動運転システムの開発者のひとりだそうだ。和井田は高校卒業後、インドネシアに渡った。ジャカルタ大学在学中に、国際海洋法に関する世界的な論文を著した。それは、往古の琴浦の水軍が有していた法の記述から始まっているという。

 僕は、二人の活躍を祈った。

 ある時、田頭が話題に上った。志田は、苦虫を噛みつぶした面持ちになった。

「あいつはねえ、五太夫にいた頃から、とんでもない奴でしたよ。わしも随分、ひどい目に遭わされた」

 志田は、それ以上は口にしなかった。数週間後、田頭は舌を切断された状態で、新潟の警察に保護されたというニュースが流れた。多くの人の弱みに付け込んでいたのだろう。僕は、祖母が復讐したのだと信じた。

 また、ある時、志田は口ごもりつつ言った。

「わしがジンバで殺されそうになった際、馬に救けられた気がするんです」

 僕は笑いそうになったが、こらえた。志田は、大まじめに続けた。

「それから元仮面連中に話を聞くと、犬みたいな顔の、黒い馬にやられた言う奴が、何人もいましてね」

 僕は、あいまいに首をひねるしかなかった。けれども志田の、さりげない追及は止まなかった。

「もしかしたら、ありえないことですが、馬みたいな大きさの犬かもしれません。もっと信じられないことに、そいつに人が乗っていたという奴もいるのですが。元町長や町の幹部が、見たと言っているようです」

 僕は冷や汗をかきながら、できるだけ落ち着いて答えた。

「現実とは事実を頭の中で再構成したものだと、ある人から学びました」

 志田は、顎を撫でながらため息をついた。

「兄さんは、いいことを言うなあ。やっぱりスルピパドンや酒のせいですかね。でも、あの時は素面だったんだが」

 四回生になり、地元企業に就職が決まった。母も姉も志田も喜んでくれたが、僕は気持ちが浮き立つほどではなかった。このまま、この町で消えていくのだろうという諦観が、全身を満たしていた。

 今頃になって僕は、杏仁池での悪夢のような出来事を振り返ることが多くなった。僕は、父を殺害した犯人は、永久に捕まらないだろうと感じていた。なぜなら、そいつらは、池で魚に食われて死んだからだと信じるようになっていた。

 ダンは、そいつらに裁きを与えるために、そしてその光景を僕に見せるために、あの池に僕を誘ったのではないか。

 それにしても、あれは本当にあったことなのだろうか。もし本当にあったことなら、僕の人生は実は、そこで終わっていたのではないだろうか。このところ妙な疑念が、ずっと頭を支配していた。

 今の僕は、実際には、この世にないのではないか。だとすれば今の僕とは、何なのだろう。


 大学の卒業式が迫っていた。

 三月上旬のある日、昼過ぎから大学で卒業生追い出しパーティが開かれた。ウィスキーの水割りをかなり飲んだ後、屋上に向かった。そこには誰もおらず、思いのほか暖かかった。

 陽は西に傾きかけ、雲は茜色に染まっていた。海を隔てて四国の工場やビルが、くっきりと見えた。顔を東に向けると、黒々とした山塊が、視界に入った。仙隋山には、あの日以来、足を踏み入れたことはなかった。

 山は軍の管理下に置かれ、中腹以上への立ち入りが禁じられていた。僕は、ずっとダンに会いたいと思っていたが、もし会えても別れがつらくなるだけだとも思うのだった。

 屋上には、喫煙所があった。僕は飲酒に加え、喫煙という悪癖を覚えていた。僕は、安煙草にライターで火をつけるのに難渋した。風のせいというより、自分の意志が指先まで伝わっていかないのだった。

 パーティで先ほど、志田から聞かされた話は、僕を壊しかねない衝撃を与えていた。

 会場で志田は、相変わらず大酒を飲みながら壁にもたれて、学生たちの悪ふざけを楽しそうに眺めていた。その横に僕が陣取ると、彼は何気なく言った。

「早田という仮面がいましてね。元エリート自衛官だったが、身内の借金の工面に追われ、公金に手を付け免職になり、あげくのはてに五太夫に拾われたんです。五太夫が借金を肩がわりし、政治家を動かして、刑は免れたそうです。かれこれ三十年ほど前のことらしいです」

 僕の身体は硬直し、血が凍るような感覚を覚えた。志田は、僕の変調に気づかないようで淡々と続けた。

「早田は頭は抜群に切れるし、体力も戦闘能力もずば抜けていたらしいです。仮面でも別格扱いで、司城に最も信頼された側近でした。汚れ仕事は、すべて早田と直属の部下が手を下したと聞いています。かわいいお嬢さんがいたのにね。結婚が遅かったから、本当に授かりもののように接していたようです」

 祖父と父、そして由希子の顔が、次々に脳裏に浮かんだ。

 不意に志田は、僕を試すように言った。

「仙隋のてっぺん近くに池があるというのは、知っていますか」

 僕は躊躇したが、知らないと答えた。

「先日、元仮面に聞いたのですが、最近、その池の底から見つかった骨のかけらが、司城とその娘、それから早田のものだと確定されたということです。他に二名ほどいたようですが、身元は不明と」

 池の実体は地底湖で、想像を絶する深さだったようだ。


 ようやく煙草に火がつき、僕は少し落ち着いてきた。

 僕は実際に、この世に存在しているのだと自分で自分に言い聞かせた。すると、たった一着しか持っていない安物のスーツ姿であることに、改めて気づいた。これが、僕にとっての強化服なのか。こんな武装で、ヘルメットも噴射装置もなしに何十年もの間、闘っていくのか。

 突然、僕は見渡す限り一面、くすんだ白色の、空っぽの世界に投げ出された。懸命に脚を伸ばすと、固い地面があった。けれども、そこには草も木も生えておらず、蝶や蜂の気配すらなかった。

 気が付くと僕は、煙草を灰皿に投げ入れ、コンクリートの床にひざまずいていた。涙が、身体のいちばん深いところから溢れでてきた。それは目だけでなく、全身の毛穴から噴き出してくるようだった。

 僕は、あの黒い犬に会いたくてたまらなくなっていた。伝えるべき言葉を、ようやく思いついたのだ。

 ひざまずいたまま頭だけは、上げることができた。どこまでも広がっている空が、あった。いや、正しくは、どこまでも広がっていく空だった。

 涙は止まった。僕は空を睨みつけ、えんえんと叫び続けた。


 ダン、ごめんよ、ごめんよ。

                          「杏仁池の悪夢」了




 










 





 




 












 





 


 

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