11 戦闘:少年とダンは闘いに赴く 最終決戦間近だ

 突然、ビシュヌに強く揺すられて目覚めた。まだ午前四時だった。

「仮面が来ます」

 ビシュヌは、さずがに緊張感に満ちた面持ちだった。彼が示した衛星画像によると、山麓から七台の装甲車がここに押し寄せてきていた。

 ビシュヌは、出会ってからはじめて早口になっていた。

「ばれてしまったようです。敵が来るまで、五分もない。相手は八十人はいるでしょう。でも、ここで闘っているわけにはいきません」

 彼は、素早く強化服に身を包み、フルフェイスのヘルメットを装着した。そして岩屋の片隅にあったタンクを背負った。

「これは噴射装置です。ひとりなら百メートルは飛べる。でも二人は無理だし、ひとりでも訓練していないとすぐに墜落してしまいます」

 僕は状況が把握しきれなかったので、かえってビシュヌより落ち着いていた。

「どうしましょう」

 ビシュヌは、それには答えなかった。僕を手を引き、いくつもの扉を通り抜け、摩崖仏の背後に至った。コロビヤコロビヤと彼が唱えると、岩が動きだした。

「遅いな」

 ビシュヌは、珍しく心を乱しているようだった。僕のことを慮って、焦っていたのだろう。岩の扉は、ゆるゆると横に滑った。入った時は瞬間的に開いたと感じたが、時間の感覚とは奇妙なものだ。

 扉が開き、僕らは岩場に立った。あたりは、真っ暗だ。風がものすごかった。南風が断崖の至るところに突き当たり、乱反射して、四方八方から攻め立ててきた。草木は、絶叫するかのように騒めいていた。

 ビシュヌは、岩場の左端に僕を連れて行き、半身を乗り出させて何かをつかませた。太い柱ほどの幅の、強化繊維製の縄梯子だった。深い草木にカモフラージュされていた。

「さあ、勇気を出して。神の加護を信じろ。ゴ―」

 彼は、それだけ言うと、僕を押し出した。足元から地面が消えた。

 同時に彼は、噴射装置を作動させ、暗闇の虚空に向けて飛び出した。飛行というより跳躍に近く、そのまま落下していくように感じられた。下で待ち伏せされていたら、危ないと思った。

 突然、ヘリコプターの爆音が聞こえてきた。下手に飛んでいると、撃ち落されるだろう。それより眼下のすすきの中に隠れた方が、いいだろう。

 いっぽう僕は縄梯子に取りすがったまま、断崖の草木の中で、放心していた。突然、あたりは強烈な明かりで照らされた。ビシュヌに対して、山から空から、すさまじい銃撃がはじまった。

 考えたり、ためらったりしている時間はなかった。ビシュヌのことは脳裏から失せ、僕は風に翻弄されながら、縄梯子を必死に上った。昨晩、装着させられた手袋が滑り止めとなってくれた。数十秒、悪戦苦闘した後にたどり着いたのは、崖から突き出した棚場だった。

 そこの幅は、一メートルもないほどだった。密生した樹木に隠され、外からは見えない。地表は、崩れやすい土で谷に向かって傾いていて、上へと急坂となっていた。

 僕は、山肌に対して横向きになり、草にすがりながら蟹のように歩んだ。かなり進むと、森に入った。もう山での銃声は止んでいたが、今度は谷底から切れ目なく発砲音が聞こえてきた。

「ビシュヌさん」

 僕は、彼の無事を祈るしかなかった。森の中、草をかきわけながら、さらに上を目指した。

 途中、石積みがあった。明らかに人工の造作物で、その隙間から水がちょろちょろと滴り落ちていた。僕はその水で口を湿らせ、顔を拭いた。少し気分が、落ち着いた。

 僕のたどっているのは、昔の修験道者が歩いた道だと、ふと気づいた。だが、このように追い詰められていると、とてもそのことに感興を催す余裕はなかった。

 風は収まったが、霧が出てきた。数歩先が、見えなくなった。夜明けになったが、ぼんやりと昇っていく陽が、幻のように見えるだけだった。

 これは幸運かもしれないと思ったが、とにかく道を横切って反対側に行かないと、町の外には出られないとわかっていた。

 僕は、道の端に至った。あたりを確認したが、何の気配もなかった。僕は意を決して、道に野兎のように飛び出た。その途端、銃声が轟き、全身が凍てついた。霧がなければ、僕の身体に穴が開いていたかもしれなかった。

 とにかく立ち止まってはならないと僕は、反対側の茂みに飛び込んだ。棘のある木に衣服を裂かれながらも、土塁のような地形の頂上に達した。そこは、大昔の円墳だと直感した。

 円墳の端は、鋭く切断されたようになっていた。僕は、そのことに気づく間がなく、二メートルほど下に腹ばいで落ちた。手首や膝や内臓に強い衝撃を受け、一瞬、息が止まった。幸いそこは、優しい草に覆われていて、地面は柔らかかった。僕の身体は、手ひどい損傷は免れた。

 すぐさま立ち上がった。そこは、緩やかな斜面の上に広がる草野原だった。濃い霧に包まれていたため判然としないが、そこには焼物窯や炭焼窯が点在していた。

 僕は、北を目指して走った。けれども無駄な行為だった。何十メートルも行かないうちに、二人の仮面が行く手を塞いでいた。僕は勢いあまって、そのうちのひとりに突っかかっていったが、すぐに投げ飛ばされた。

 二人は瞬時に相談したらしく、僕を拳銃で脅しながら近くの炭焼窯にねじり入れ、入口を大きな石で塞いだ。おそらくにやつきながら。

 窯は、分厚い土から成っていた。それは固められて、まるでコンクリートのようだった。首を傾げて、ようやく立てるほどの高さしかなかった。隅には、材木が詰まれていた。

 穴という穴は、すべて閉じられていたが、内部は暗黒ではなかった。天井部分にわずかな亀裂があり、そこから光が入ってきていた。

 しかし、まもなく何も見えなくなった。その亀裂を仮面は、塞いでしまった。息苦しくなってきた。

 炭の匂いが、全身の毛穴から神経を破壊するために、浸み込んできた。炭は、木の亡骸だ。その匂いは、死そのものと思えた。

 僕は死ぬのだ。この狭い空間の中で、誰にも悟られずに死ぬのだ。酸欠死か、餓死か、いずれになるだろうか。いずれが楽だろうか。僕は、つまらぬことを思った。

 しかし仮面が、それほど悠長とも思えなかった。まさか火を入れるのではなかろうな。僕は、心底、ぞっとした。

 あらゆる手段を講じて、ここから逃れ出なければならないことは、わかっていた。けれども、窯の壁に爪を立てることすらできなかった。木材を突き立てようとしても、撥ねかえされた。

 僕は、大声で叫んでいた。

「助けてくれ」

 何の反応もなかった。僕は、絶叫した。

「お願いだから、助けて」

 僕は、肺が喉から飛び出てきそうなほど、咳きこんだ。窯の中は、埃が充満していて、目もやられてしまいそうだった。

 それでも窯の中に僕の声が、こだますだけで、何も起こらなかった。意識がもうろうとしてきた。

 ややあって、どこからか荘厳な声が響いてきた。

「お前を助けたとして、お前はどうするつもりだ」

 僕は、答えに窮した。声は、愚弄する調子に変わった。

「人は、いずれ死ぬのだ」

 僕は、苦し紛れに答えた。

「僕は、志田さんを救いたい」

 声は、冷厳さを装った。

「それは殊勝だ。だが、きれいごとに過ぎるな」

 僕は、切羽詰まった。しばらくして消え入るように言った。

「父さんの葬式をしたい。お祖母ちゃんと母さんを救いたい。姉ちゃんと会いたい」

 僕は、それだけ口にすると、息苦しくなり倒れこんだ。死ぬんだと、しかし現実感なく思った。疲れが一気に押し寄せてきた。僕は、うつらうつらした。夢を見た。この窯の近くで、にやつきながら休憩をしてる仮面に、ダンが襲いかかっている光景だった。

 ふと耳を澄ますと窯の外で、ざりざりと激しく固められた土を掻き崩すような音が聞こえてきた。僕は気のせいだと思ったが、やがて小さな穴が開き、そこから黒い鼻先がのぞいた。

 僕は、窯の中の材木をその穴に突っ込み、上下左右に全力で動かした。穴は、肩が抜けるだけに拡がった。。

 這い出ると、そこには馬のような大きさになったダンがいた。僕に会えたのが嬉しくてたまらないようで、遠慮なしに顔を舐めてきた。僕の顔は、涙とあいまって、べちゃべちゃになった。

「ダン、ありがとう」

 ダンは、ふんと息を吐いた。その傍らには、ヘルメットが二つと水筒がひとつ、転がっていた。たぶん僕を窯に閉じ込めた後、仮面たちはヘルメットを取り、水筒に入れたコーヒーでも飲もうとしたのだろう。そこをダンに襲撃されたのだ。

 二人の仮面は、十五メートルほど先の、桜の大木の根元まで飛ばされていた。ダンに体当たりをされたのか、蹴られたのかはわからなかった。芋虫のように、もぞもぞと動いていた。どこか骨折くらいはしているかもしれないが、息はあった。

 油断していると突然、二人の仮面は幽鬼のように立ち上がり、ひとりが拳銃を撃ってきた。同時にもうひとりが、何かを僕たち目がけて投げつけてきた。

 弾が、僕の頬をかすめた。僕は、仰向けに倒れた。

 霧の中、空に舞い上がったダンのシルエットが見えた。ダンは、仮面が投擲した何かを咥えると間髪入れず、急速に体を一回転させ、それを仮面に向かって放り返した。

 ダンは、窯の陰に着地しようとする寸前、閃光が走り、爆発音が脳を揺らした。僕は思わず、顔を手で覆った。恐ろしい破片が、すさまじい速さで空気を切り裂いていくのが、この身に伝わってきた。

 その直後、ハッハと荒い息が聞えた。草を軽やかに踏みしめる音もした。蘇生した仮面が、やって来たのだろうか。僕は震え上がったが、おそるおそる見るとダンだった。

「ダン」

 僕は、思わず叫んでいた。ダンは目をくりっとさせて、面白かったなあという余裕十分の風情だった。とにかくダンのおかげで、手榴弾の攻撃から身を護ることができたのだ。

 僕は、ダンにすがるようにして、ようやく立つことができた。

 桜の木の根元に、再び二人の仮面が倒れ伏していた。その胸の上には、折れた太い枝が乗っていた。ダンが放り返した手榴弾の爆発で枝が折れて、彼らの頭部を直撃したようだった。幹は無事らしい。また春になれば、花を咲かせることができるだろう。

 どこからか、またもや声が聞えた。

「お前は、奴らにとどめを刺さなくていいのか」

「人殺しはできない」

「奴らは、お前とお前の家族をひどい目に遭わせた。ここには誰もいない。お前が何をしても、訴え出る者はいない。お前には、奴らを殺害してもいい十分な理由と資格がある」

 僕は、ダンを見やった。ダンは、座って僕を見つめていた。大きくなったままなので、その顔は僕の目の前にあった。

 ダンは、透きとおった茶色の眼を僕に向けていた。そこには悲しみが、ほのかに見えた。幼くして親きょうだいと別れざるを得なくなったが、それでも人間を恨むではなく、たったひと時だけ楽しい時を過ごした僕を、身を呈して護ってくれているのだ。

 哄笑とともに、またしても声が聞えた。

「お前は、罪を憎んで人を憎まずなんて、戯言を口走るつもりではなかろうな。また過去に何があろうと、水に流すといい子ぶるんじゃあるまいな」

 僕は、あえいだ。その時、ダンは倒れている仮面を見据え、低く唸った。そして数歩、ゆっくりと仮面の方に近づいていった。

 ダンは、明らかに彼らに告げていた。

 お前らを決して許さない。お前らは善き心を失っているか、そもそも持っていないのかもしれない。だから悔い改めても無意味だ。ただ、お前らにも、家族や友人や恋人はいるだろう。その人たちに悲痛な思いをさせたくないから、殺さない。

 仮面は、瀕死に近い状態であろう、ぴくりとも動かない。僕は,彼らがこの場で死を迎えることを想像して、戦慄を覚えた。二人の鼓膜は破れ、目は潰れ、少なくとも頸から上は手榴弾の破片が突き破っているはずだ。爆発の衝撃で、脳や内臓を損傷しているかもしれなかった。

 僕は、彼らを冷静に観察している自分の冷酷さにぞっとした。

 けれども僕が生き残るためには、彼らを救けてはならないのだ。彼らの居場所は、五太夫にはわかっているはずだった。もうすぐ救助のために、仮面たちが来るかもしれなかった。

 すぐに、ここを立ち去ろうとしたが、どこに向かえばいいのか、実のところ迷っていた。逃げ場が、ないように思われた。

 哄笑も声も、しなくなった。

 霧、というより、この場においては雲と言うべきだろうが、そのせいで視界は、ますます狭まった。

 僕は、喉が渇ききった犬のように喘いでいた。他人の食べ物や飲み物を口にしてはいけないとわかっていたが、思わず仮面が置き忘れたままの水筒を手にした。ひどく渇いていたのはもちろんだが、その上、喉にいがいがしたものが、こびりついているような感じがあった。それを解消したかった。

 水筒の中身は、意外にも冷たい濃いコーヒーだった。僕は、温かいものが入っているものと思い込んでいた。そのコーヒーに砂糖っ気はなかった。一口、含むと、舌がひりひりするほど苦かったが、文句は言えないと、僕は一気に中身を空けてしまった。

 その途端、妙な熱さが、身体の芯に生まれ、五感が研ぎ澄まされた。危ないと感じ、さきほど飲み干した液体を吐き出そうとしたが、もはや毒素は頭まで回っているので無意味と知れた。それには、通常の用量を超えたスルピパドンが溶かされていたに違いなかった。

 僕はとっさに、放置されていた仮面のヘルメットを手に取ると、よだれを垂らしながら、やみくもに駆けだそうとした。その時、ダンのワウッという声に我に戻った。

 ダンは心配そうな表情で、うずくまっていた。まるで、自分に乗れと勧めているようだった。

「ダン、ありがとう」

 しかし僕は、ためらった。

「このまま、またがっても落ちちゃうよ」

 炭焼窯の周囲には、木材をくくるためのものか、荒縄が散らばっていた。その中の一本をダンの頸に巻き、手綱代わりとした。ダンは厭がってはいなかったが、くすぐったそうではあった。

 おそるおそる僕は、ダンの背中に乗った。毛は、霧のせいで湿っぽかった。上の方はごわごわしていたが、その下には高級な毛布のような毛があった。

 突然、感情が昂った。僕は、叫んでいた。

「ダン、志田さんを救けるぞ。それからお祖母ちゃんと母さんも」

 どうやって救出するかという策はなかったが、ダンは深呼吸をし、ゆっくりと息を吐いた。わかった、大丈夫だ、心配するな。自分が何とかすると、ダンが声をかけてきたように僕には思えた。

 僕は、思い切って仮面のヘルメットを被った。重く、内部は蒸し暑く、いやな臭いがするのではないかと想像していたが、まったく違った。軽く、内部は冷涼感があり、無臭だった。直接、外界を見ることはできないが、視界いっぱいに前後左右の光景が、映し出されていた。

 ダンは重々しく立ち上がり、すぐに軽快に駆けだした。僕は、振り落とされまいと必死だった。

 まもなく帆干谷の端に着いた。霧のため、底までは見通せなかった。

「まさか、ここを下りるのか」

 ダンは返事をせず、急に谷底に向かい、ふわっと身を躍らせた。僕の肝は縮んだが、すぐに着地する気配が伝わってきた。切り立った崖ではあるが、ところどころに出っ張りがあり、ダンはそれを上手に利用して、降下していった。

 加減してくれているのはわかったが、それでもダンにしがみついて、バランスを保つのは生易しいことではなかった。

 ほどなくして僕らは、帆干谷の底に至った。そこは上から見ると、すすき野だったが、実際には表面がすり減った墓石が密集していた。

 今や忘れ去られた墓地に眠る人々が、何かを訴えかけてくるように思えた。死者たちが僕にかけてくる声が、皮膚に突き刺さってきた。それは、こっちに来いという下卑た感じではなかった。自分たちが味わった苦しみや悲しみを子孫にさせるなと、僕に懇願していた。

 僕は、死者たちに背中を押されたような気がした。神経の末端まで、電気が走った。覚悟を決めて、ダンに言った。

「さあ、行こう」

 けれどもスルピパドンのせいで、強烈な睡魔に襲われた。墓場の真っただ中で僕は、伏せの態勢を取ってくれたダンの背で、眠りこけるしかなかった。

 目覚めると、もうすぐ午前八時になろうとしていた。濃い牛乳のような霧は、晴れそうになかった。

 僕たちは、慎重に人里に下りた。祭りが中止になったし日曜日なので、この時間に外出する人はまれだと思ったが、あえて茂みの中を進んだ。

 海沿いに出た。いったん花崗岩質の、ぼろぼろと絶え間なく砂や小石が落ちてくる崖の下の草むらに潜んだ。そこには、か細い自然の水路があった。僕は、そこで手を洗い、湿らせたハンカチで頭や顔に付着した炭埃を拭い取った。

 きれいに舗装された町道の向こうは、穏やかな瀬戸内海だった。さざ波の音が聞えた。そこから小さな家屋が密集する狭い岬が伸び、さらにその先から、一筋の砂州が、水墨画のように海に浮かび上がっていた。祖父祖母島、つまりジンバへの、干潮の時にだけ出現する通路だった。

 勇ましいことを行なうのを夢想していたが、実のところ、その時点になっても何をすべきなのか、僕にはわからなかった。とりあえずダンの背にまたがった。

「ダン、どうすればいいんだろう」

 ダンは、アウッと小声で唸ると、突如として全速力で駆けだした。町道のガードレールをやすやすと飛び越え、今度は消波堤の上を疾走した。

 わずかな時間だったが、僕は仮面のヘルメットのおかげで、さまざまな情報を得ることができた。たとえば「カジヤマ、何をしている、応答せよ」という声を聞いた。

 このヘルメットの持ち主に対しての呼びかけだろうが、もちろん僕は無視した。するとアラームが鳴り、「規律違反の疑いあり」と目の前に文字が流れた。細かい連中だなと僕は、舌打ちした。これは案外、やっつけられるかもしれないと妙な自信が湧いた。

 霧を透かして、ジンバの光景が見えた。小さな岩礁上には高さ十メートルほどの木の杭が立てられ、その中ほどに、上半身、裸でジーパン姿の男が、ロープでぐるぐる巻きにされ、ぐったりとして、頭を垂れていた。

 ズーム機能を使うと、間違いなく志田だと確認できた。

 その真ん前には五脚が設置され、大きな黒い釜が乗せてあった。その下では盛大に火が焚かれ、釜の中からは湯気が上がっていた。何かの液体が、熱せられているようだった。

 志田が縛められている杭と釜は、二十人ほどの仮面が肩を接するようにして取り囲まれていた。元仮面に対する残虐な仕打ちを目の当たりにさせて、仮面らに改めて忠誠を誓わせる計略なのだろう。

 そこから十歩ほど前には五太夫美禰が、高校の儀礼用の制服姿で、まるで女王のように、天蓋の下の豪華な椅子に腰かけていた。その背後には、多分、町長をはじめ町のお偉方と思しき人たちが、礼服姿でパイプ椅子に座っていた。どの顔も強張っていることが、想像できた。

 さらにその後ろに、ビデオカメラの席があった。おそらく、この酷い光景を町内に配信し、五太夫への反逆の意図を潰すつもりなのだろう。

 志田を本当に処刑するのかどうかはさておき、おぞましい有様を垣間見せるだけでも、人々を震え上がらせることはできる。五太夫らしい演出だと思った。


 ジンバへと続く砂州の入口には、十人ばかりの仮面がいた。全速で突進してくるダンには、本当に驚いたようだった。拳銃の発砲がはじまる直前、ダンは空中高く舞い上がり、霧に姿をくらまし、仮面の背後に着地した。

 そこで仮面に体当たりをかけ、同時に前脚、後脚を動かせた。一瞬後、仮面らは全員、消波堤に激突させられるか、海に飛ばされていた。

 異変はすぐに、ジンバに伝わったようだ。砂州を疾走して一分弱、しかし何が攻撃してきたのか、わからなかったのだろう。また、このような事態は想定されていなかったのだろう。ジンバでは応戦態勢が、取れなかったようだ、陣形は乱れていた。ただ人が、右往左往しているだけだった。

 抵抗もなく、僕たちは、陰惨な処刑場に突入した。その途端、ダンは跳躍すると、志田が縛められていた杭の根元の方に、肩で体当たりした。杭は折れ、志田とともに海に向かって飛んでいった。

 あわてて動いた仮面の身体が、ぶつかりもつれて、傍らの五脚に激突した。それは倒れ、周囲に釜の中の液体が振りまかれた。

 それは、熱せられた食用油だったようだ。仮面らは装置に異常を来したようで、あらぬ動きをしていた。

 美禰は、それを頭から浴びたようだ。実際には聞こえなかったのだが、ウオーという獣の断末魔のような悲鳴が、鼓膜を揺らしたような気がした。

 来賓も、熱い油を浴びてうずくまっていた。ビデオカメラもだめになったに違いなかった。

 僕は、自分に問うた。罪悪感を覚えるべきなのだろうか。しかし油を撒いたのは、僕でもダンでもない。それに、たとえフェイクであろうと、人間を天ぷらの具材のようにさらす行為は、許されないと思った。

 目の前は、海だった。対岸まで百五十メートルはあろう。いくらダンでも、そこまでは跳べないだろう。泳ぐのか、泳げば銃弾の餌食になる。

 僕の頭の中は、真っ白になった。無茶をしでかしたと、ひどく後悔していた。死ぬぞ。仮に生きられても、重犯罪者としての扱いを受ける。しかし、と僕は思い直した。引き返しても、留まっても同じだと。

 ダンは、ためらうことなく僕を乗せ、海に向かって跳躍した。逃げるしかないのだ、それが、この状況では前に進むことなのだ。そうわかっても、僕は叫んでいた。

「ダン、止めてくれ」

 僕は、犬かきで泳ぐ犬の背にしがみついている自分を想像した。本来なら牧歌的はこんでいっつぁな光景だが、狙撃の的には最適だ。けれども予想は、良い方に裏切られた。

 海面のすぐ下には、岩が飛び石のように対岸まで連なっていた。ダンは、その上を体を傾げながら、次々と跳び渡っていった。僕は、とにかく振り落とされまいと躍起になっていた。ダンにしがみつき、その胴体に脚を懸命に巻きつけていた。

 対岸が迫ってきた。ダンは大きく跳躍し、消波堤を越えた。そして一息つくかのように、うずくまった。そこは水産物加工場の跡地で、今は地面を覆っていたコンクリートも半ば、剥がされていた。

 ほっとしている暇は、なかった。ジンバからの攻撃が、始まった。自動小銃の弾が、頭上をかすめたが、堤が僕たちを守ってくれた。僕は、堤の隙間からジンバの様子を覗き見ることができた。

 救急車の警告音が聞こえ、砂州の入口で停止した。数人の仮面が、美禰を椅子に座らせたまま、そこに向かって運んでいった。

 風が出てきた。霧は、晴れつつあった。その時、海中からジンバに躍り上がった人影が見えた。ナイフ一丁で次々に仮面を斃していくのだった。ビシュヌに違いなかった。

 志田は杭に縛られたまま、沖に流されていった。潮の流れは、速く複雑そうだった。杭は、目まぐるしく回転していた。水温は、低いはずだ。志田は、すぐ死ぬと僕には思えた。

 しかし潜水服姿の数人の人が海面に現れ、その横に潜水艇が浮上してきた。志田は、その中に収容された。僕は、胸をなでおろした。


 強い南風が吹いてきた。霧は晴れた。

 さて本州と四国の、ちょうど中間に大槌島おおづちじまという、きれいな三角錘の形状の島がある。そこの陰から急に空母が、姿を現した。昨日、目にした艦が、高松港から急速発進してきたのであろう。明らかに統治軍のものだった。

 甲板からは、二十機ばかりのヘリコプターが飛び立ち、この町を目がけて押し寄せて来ていた。僕は、本能的に仮面のヘルメットを海に投げ捨てた。

 僕のいた場所には、不法に投棄された廃棄物が散乱していた。その中から、僕はバイク用のフルフェイスのヘルメットを拾い上げた。いろいろな意味で、無防備では危ないと思った。

 そのヘルメットを被ると、ジンバでの戦闘を避けるべく、ダンにまたがり再び山に移動した。少し奥に入ると、小さな滝があった。僕たちは、そこで小休止した。水が安全かどうかはさておき、僕もダンも思い切り水を飲んだ。この水は、杏仁池から発しているのだろうと、なぜか確信した。

 そこからジンバが見えた。ジンバには、多くの人々がいるようだったが、遠すぎて状況はよくわからなかった。同時に、いらいらするようなヘリコプターのローター音が迫ってきて、頭上で隊列は分散した。

 そのうち数機は仙隋山の頂、つまり五太夫の居宅に向かっているものと思えた。他は五太夫本社など、町の重要地点に舞い降りるのだろう。地上からは銃撃が、散発的にされたようだが、ミサイルや砲による迎撃はなかった。さすがの五太夫も、そこまでの武力は保有していなかったのだろう。

 竪場島の近辺には五隻ほどの、比較的、小ぶりな軍用艦が見えた。島からは煙が立ち上がり、爆裂音が、はっきりと聞こえた。何かが起こっているのだろうが、僕の眼は、それ以上のものは捉えることができなかった。

 あの島にいる母のことが、ひどく気にかかったが、なす術がなかった。

 ダンは、いつの間にか、普通の犬の大きさになっていた。さすがに疲れているのだろう。僕の足元でうずくまり、うとうとしていた。僕も腰が抜けたような感じになって、地べたにぺたんと尻をつけた。

 ダンの頸から手綱代わりの荒縄を、そっとはずした。ダンの喉のあたりの毛は、荒縄で擦り取られ、皮膚には血がにじんでいた。

 僕は、何もしてあげられない自分を呪いながら、ひたすらダンの首筋をなでた。

僕は無意識のうちに、情けない声を発していた。

「どうしよう」

 これから、どうしたらいいのか。いくつかの選択肢は思いついたが、そのいずれを採るか、判断できなかった。

 ダンは、目覚めたようで、フーンと気楽そうに深呼吸をした。僕は、たたみかけた。

「眠いのに、すまない。ダン、僕はどうしたらいいのだろう」

 ダンは、ゆっくりと立ち上がり、ぶるぶるっと体を激しく震わせた。その後、ゆっくりと僕に視線を向けた。鋭い、問いかけるような眼差しだった。その鼻は、

高く上げられ、その先には仙隋山頂があった。

 まるで、そこに行けるかと僕を試しているようだった。あるいは、そこに行くべきだと強く訴えてきているようだった。そこまでして山頂にこだわる理由は、僕には全然わからなかった。

 かつて僕の祖父が、不可思議な体験をしたという場所に行ってみたいという気持ちはあったが、怖い思いをしたり危険な目に遭うのは、御免こうむりたかった。ここは家に戻って、祖母の安否を確かめるべきだろうと心を定めた。

 その時、ヘリコプターの音が消え、かわりに銃声に加え爆発音が、下界から聞こえてきた。大勢の人の悲鳴が、かすかに耳に達してきたような気がした。

 これは、家には帰れないと悟った。

「お祖母ちゃん、ちょっと寄り道させて」

 僕は意を決し、勢いだけはよく立ち上がった。このような時だからこそ、この世の果てだろうが、地獄のどん詰まりだろうが行ってやるとも。

 ふと僕は、絶望について考えた。絶望とは、敗者や弱者が囚われる精神作用と思われている。しかし、それは違うのではなかろうか。

 人は、真摯に現実に向き合うと絶望せざるを得ない。その果てに生まれるのが、政治や宗教なのだろう。しかし人は、政治にも宗教にも絶対に裏切られる。そうなると人に残されるのは、学問と芸術、いわゆる文化しかない。けれども、それらも最後には、人を裏切る。

 人にとって残る選択肢は、パワーやマネーの亡者となるか、何も考えず生きていくか、二通りしかないように思われた。

 しかし、それは中途半端な絶望しか、していないからではないか。絶望した人は現実と称するものを見ているのだろうが、現実とはビシュヌの言うように、事実を各人の脳内で再構成したものでしかないとしたら、どうだろう。

 現実は幻でしかなく、真実は存在しないのではないか。

 確かに存在するのは、事実だけなのだ。僕は、事実を確認すべきだと思った。生温かい、ほの明るい希望などいらない。僕は事実に直面して、真に絶望すべきだと思った。その果てで人は、はじめて具体的に何をなすべきかが、わかるのだ。

 僕は、ダンに宣言した。

「わかった、行くぞ、杏仁池に。ダン、行こう」

 ダンはアイアイサーと言いたそうに、尻尾をぴんと立てた。それを左右に振りながら、歩きだす後ろ姿が、妙におかしくて僕は笑った。

「お前、変なワン公だな」

 ダンは急に立ち止まり振り向くと、僕に抗議するかのようにフンと息を吐いた。まるで変なワン公じゃないよと言いたそうだった。ますます、おかしさがこみ上げてきた。

「わかった、ダン。もう、いらまかさないから」

 ダンも笑っているようだった。

 僕はダンに先導してもらい、細い山道を上へと向かった。昨日の晩から何も食べてないが、空腹感はなかった。緊張感とスルピパドンのせいだったろう。

 ひっきりなしに物騒な音が空気を揺らし、薬っぽい匂いが、どこからか漂ってきた。町中に軍用車が走り、路地裏にも兵士が駆けまわっている光景が想像された。

 振り返ると満潮になったので、ジンバは海中に没しようとしていた。竪場島では、炎と煙が、ますます盛んになっていた。母のことを僕は祈るしかなかった。



 



 






 

 


 



 



 






 






 






 









 



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