10 出会い:グルカ戦士のアジトで少年の運命は定まる

「行くな」

 帆干谷の側の茂みから、突然、低いが力のこもった声がした。悲鳴を上げる間もなく、腕をつかまれたと思いきや、僕は木立の中に連れ込まれていた。

「抵抗しないで、味方です」

 少したどたどしい、男の日本語が耳に達した。

 抵抗しようにも、口には一瞬でバンダナが詰められ、両腕はゴムのベルトで胴体に巻きつけられていた。僕は丸太のように、男の右腕に抱えられた。

 そのような体勢で、男は直角にも見える斜面を分厚い落葉に乗って、スノーボーダーのように滑り下りていった。

 谷が、どんどん迫ってきた。暗い、底知れぬように思える谷底が目に入った。その瞬間、男は僕を抱えたまま、ためらうことなく跳躍した。死ぬんだと直感したが、直後、男は固い岩盤の上に着地した。首をひねると、海に灯りをともした船が、行き交っているのが見えた。

 そこは、崖から突き出た狭い岩場だった。目の前の岩肌には、ひどく摩耗しているが、人より大きい結跏趺坐姿の仏様が彫られていた。男は素早く礼拝し、呪文のような言葉を唱えると、仏様の右肩に手をかけ、一気に力を込めた。

 ようやく通れるだけの隙間ができた。男は僕を抱えたまま、そこに飛び込んだ。すぐさま入口は閉じた。中は真っ暗だった。

 僕の口からバンダナが抜き取られ、身体を拘束していたベルトがはずされた。僕は、男の前に立たされた。

「ボーイ、痩せているようで、けっこう重いね。安心しなさい。私はゴッド・アー・ユーの味方ではない。さあ、ここからは歩いて」

 背後から声がかけられたが、僕には振り返る余裕はなかった。男からは、仮に僕が反撃しても、絶対に勝てるという自信が伝わってきた。

 僕が歩むのを躊躇していると、男は携帯していた灯りをともしてくれた。

 そこは、人ひとりがようやく通れる幅と高さの洞窟だった。それは、ゆるやかに下っていた。頭上からは水がぽたぽた落ちてきた。足元には水がうっすらと溜まり、ちょろちょろとどこかに流れていくのだった。

「ボーイ、気をつけて。滑るよ」

 五歩ほど進むと、青銅色の金属の扉があった。

「さあ、開けて」

 男に言われ、取っ手を握った。力を入れなくても、扉は右に滑っていった。その厚さは十センチ以上あった。男は急かした。

「さあ、早く行って。三秒で閉まる」

 一歩を踏み出すと、そこは高さも幅も二メートルほどの空間だった。四方がコンクリートで覆われていた。男が入ると同時に、扉が音もなく閉まった。

 目の前には、また同じような扉があった。僕たちは都合四回、同じことを行なった。つまり扉は、四つあった。

 たどり着いたのは、高校の教室くらいの広さの岩屋だった。隅に簡易なキッチンがあったが、使えないようだった。家具は何もないが、床には擦り切れた絨毯が敷き詰められていた。

「ボーイ、座って。安心して」  

 僕は言われたとおりにしたが、身体は震えていた。

「本当に安心して」

 男は、僕の前に腰を下ろした。迷彩服姿で、腰には大きなナイフ入れが装着されていた。身長は、一六五センチほどだろう。僕より低い。けれども強靭かつ柔軟な肉体の持ち主であることは、容易に見て取れた。顔は浅黒く、いかついが、眼差しは柔和だった。

 男は、大きい蓄電池ランタンを灯した。今いる空間の全貌が、わかった。高さは三メートルくらいで、天井も壁面も荒々しい岩肌がむきだしだった。水が滲みだし滴りおちてくるが、それを受けて排出する仕掛けが施されていた。

 奥の壁の前には、パネルが立てられ、厚手の布が張られてあった。それは、僕にとっては奇妙に感じられる模様で、一面、覆われていた。

 僕は、それを見て言った。

「あの壁、ミドリムシだらけ」

 男は、首を傾げた。

「ミドリムシ。それは何ですか」

「グリーン・バグではないよな。そう、ユーグレナ」

 男は、笑い転げた。

「ちょっと似ていますが、あれはペイズリーというのです」

 男は、それについて簡潔に説明してくれた。彼は何でも知っていて、しかもそれをわかりやすく他人に説明できる優れた能力を持っていると感じた。

 男は上着のポケットから小型の水筒を取り出して、口を湿らせた。目配せをして、いたずっらっぽく言うのだった。

「これは水ではない。ウィスキーです。任務に就いている間は、飲酒はノーですが、私はオーケーです」

 僕は、笑顔が出せるようになっていた。

「ウィスキーはいいですよ。疲れている時は、気付け薬になります。眠り薬にもなります。寒い時は、身体を温めてくれます。食欲がない時は、胃を刺戟してくれます。歯磨きやうがい、消毒にも使えます」

 そこで彼は、再び目配せをした。

「うまくやれば燃料にもなります。でも飲み過ぎると、頭がおかしくなります。ボーイは飲んだらだめ」

 そう言いながら、男は水筒の口を僕の鼻先に近づけた。甘さの混じった、きつい匂いが、僕の神経に突き刺さってきた。僕は、顔をしかめた。男は、にやっとした。僕は、なぜかほっとした。男は水筒をしまうと静かに言った。

「ボーイ、あなたは恐れに満たされているが、平穏さを保ちなさい。もちろん地震やサイクロンや寒さや猛獣は、恐れないといけない。けれども、あなたの恐れは、人間のつくった社会を恐れることでもたらされていますね」

 男は続けた。

「これは実際には、恐れる必要はない。恐れとは耐えなければならないという思いによって、もたらされる。行き場がないと信じ込まされるから、恐ろしさを感じるのです」

 男は、僕の眼を見据えた。

「ボーイ、人間は闘ったり逃げたりすることができる。とにかく道はあるのだから、恐れを捨てなさい」

 男は、とにかく僕を和ませようとしていた。

「私の母国で生まれた人は、ありとあらゆる存在は、その重さが等しいと説きました。ボーイ、あなたと私は、対等なのですよ。だから、私のことも恐れなくていいのです。さて、ひとまず食事にしましょう」

 僕は、トイレに行きたいと申し出た。男は、部屋の隅を指さした。そこの木製の扉を開けると、古墳の石室のような空間が広がっていた。トイレの脇には、簡易なシャワー室があり、その横には発電機が設置されていたが故障しているようだった。

 岩屋に戻ると男は、僕の背や手の傷を消毒してくれた。手には、薄い樹脂の手袋を着けさせた。

「鬱陶しいでしょうが、明日中は、はずさないで。治癒機能、抜群です。おっと、食べる前に質問、いいですか。あのモンスター・ドッグは、何なのです」

 僕は、ためらいながらもダンのことを話した。かつてのことが懐かしく思い出され、声は詰まりがちになった。

「そのドッグが、あれだと言うのですね」

「ダンと心の中で呼びかけると、ちゃんと反応してくれました」

 ビシュヌは、感慨深そうだった。

「ここは、ワンダーランドですね。私は、あのシーンを見ていて、自分の目か頭がおかしくなったと心配になりました」

 男は、僕が語った内容を否定しなかった。本当にありがたく思えた。

 絨毯の上には、クッキーと乾燥チーズが並べられていた。夕食のメニューとは言い難かったが、男の淹れてくれた紅茶を飲みながら、僕はがつがつと食べた。

 男は、食事をしながら自然な感じで、自己紹介をした。

「私の名前は、ビシュヌ・パンです。ネパール生まれです。グルカ兵です。今はニュージーランド軍にいて、統治軍のメンバーです。これからは、ビシュヌと呼んでください」

 僕は、その時、はじめてグルカ兵という存在を知った。

 僕も自己紹介をしようとしたが、ビシュヌはその必要はないと遮った。

「コウ、あなたのことは知っています。家の屋根にも上がったこともあります。不法侵入ですが、許してください。クスリを飲むな、とメッセージを送りました」

 縁遠い人間が、なぜ僕のことを知っているのか、怪訝に思えた。それに加えて次々と疑問が湧きだしてきて、ビシュヌを質問攻めにしていた。

 ビシュヌは、にこやかに答えてくれた。端正な口振りだった。

「私は、あなたのシスターのパートナー、つまりコールとは友だちなのです。私の育ての親はインドの貿易会社に勤めていて、日本に赴任していました。私は、十五歳まで日本に住んでいました。クリケットのクラブでコールと知り合いました」

 ビシュヌは、懐かしさをあらわにしていた。僕は、姉が幸福に暮らしていることを確信できた。

「国に帰ると、私は軍のスクールに入り、イングランドで軍人になりました。その時、コールもロンドン大学で学んでいました。ずっと仲良くしていました。ところで寒くありませんか」

「ええ、ちょっと」

 彼は、真っ黒なウィンドブレーカーを羽織らせてくれた。薄いのに、ひどく暖かかった。

「ここには暖房がないので、ちょっとつらいだろうが、これさえあれば大丈夫。体温を完璧に閉じ込めてくれます。暑くなれば、放熱してくれる」

 ビシュヌは、続けた。

「あなたのシスターから得た情報を、コールは私に伝えてくれました。私は、それを統治軍の上層部に報告しました。彼らは、最初、信じられない様子でした」

 話が広がってきて、僕には何のことやら理解が難しくなっていた。僕の当惑ぶりをビシュヌは、察してくれた。

「順を追って話しましょう。シスターとコールのウェディング・パーティの後、あなたのパパは、彼女に自分の調査結果と推理を伝えたのです」

 それは、おおむね志田の言ったとおりだったが、もっと広範囲に及んでいた。

 五太夫が化学兵器を製造し、それを世界中のテロリスト、内戦国家に売りさばいていたのは、志田の言うとおりだった。それに加え禁止薬物にも手をだし、さらにはフェイク暗号通貨の運用で暴利をむさぼっていたという。

 日本の上層部の一部も、それに関与していたとビシュヌは暗い表情になった。

「ゴッド・アー・ユーのせいで世界中で何百万もの人が、命を落としたり、ひどく健康を害したり、資産を失ったりしました。それらが明かるみになれば、経済制裁どころか日本に軍事侵攻する国が、現れるかもしれない。日本政府どころか、我々統治軍も最も恐れる事態となります」

 したがって何が起こったか、はっきりとわからないうちに、一気に片を付ける必要があるとビシュヌは力を込めた。

「あなたのグランパは、ゴッド・アー・ユーのプランに感づいてしまった。でも政治家や役人の一部もぐるだから、大阪まで出向いてスイスのメディアに告発しようとした。それで殺害されたのです。直接、手を下した者は不明ですが、背後にゴッド・アー・ユーがいたのは明白です」

 僕は、ひどく冷静になっていた。

「あなたのパパは、自分のパパの死について探りました。そのため組織のキー・パーソンを目指した」

 僕は、絶句した。あのバイクで通勤していた父が、そのような人物だったなんて思いもよらなかった。

「あなたのパパは、地位は高くないが、さまざまな情報のかけらを受け取れる立場にいました。どんなに些細なことでも、受け取る人が敏感なら、そこから重大な事実にたどり着くことができます」

 ビシュヌは、姿勢を正した。

「ここから、コウにとって、つらい話になります。パパは、ゴッド・アー・ユーの犯罪に気づいた。そして自分のパパの死んだ原因もわかった。それを公開する準備にも取りかかっていたかもしれません。でも検索ヒストリーの解析から、ゴッド・アー・ユーにばれてしまった。だから命を奪われたのです」

 僕の呼吸は、さすがに乱れた。祖父と同じく、やはり父も殺されたのだ。もし祖母や母が、この場にいたら、どんな反応をするだろうと思った。僕には不思議と、彼女らが取り乱すとは想像できなかった。むしろ確信を得られて、毅然とした態度になったに違いないと思えた。

 姉のことが心配になってきた。ビシュヌは、それを見透かした。

「シスターのことは、安心しなさい。カナダ連邦警察が、完璧にガードしています」

 ビシュヌは、僕を励ますように言った。

「コウも、うすうす察していたことでしょう。ですから、敢えて事実を言いました。コウは、大人になろうとしている。大人とは、どれほど望ましくない事実でも、それを受け止めて、そこを出発点として考え、行動できる人のことだと思います」

 ビシュヌは、慈愛に満ちた表情になった。僕は、戦士のそのような貌にたじろいだ。

「でも誤解しないで。現実をまるごと受け容れなさい、ということではありません」

 ビシュヌは、日本語の単語を思い出しながら、訥々と丁寧に話した。

「夢や希望や理想について語ることも、大切だと思います。けれども、考えること、行動すること、すべてが事実に基づかないと無駄です。事実だけが、固い地盤です。その上にしか、家は建ててはいけません」

 僕は、リアリストや理想主義者という言葉を知っていた。ビシュヌに事実と現実と真実との違いについて、質問してみた。彼は、自分は哲学には疎い、自己流の解釈だと前置きした上で答えてくれた。

「事実はすでに起ったこと、現に起こっていることです。誰にも、そうと認識できます。現実とは事実を、人の頭の中で再構成したものです。再構成した人の認識が、事実を曲げているかもしれません。真実とは事実の背後にあると想定されるものですが、それは、何かを真実と主張したい人間の偏った認識でしかない場合が多いです」

 ビシュヌは、静かに続けた。

「だからヒストリーやサイエンスを淡々と学ぶことは、とても大切です」

 ビシュヌの話を、すべて理解できたわけではなかった。けれども自分が、大人になるということに向き合わなければならないということは、痛いほどわかった。

 ふと志田の言葉を思い出した。かつて日本は豊かな国だったが、たった三十年の間に、ここまでになってしまった。今や日本は、統治軍の管理下にある。僕は、ビシュヌに疑問をぶつけた。ビシュヌは、深刻な表情になった。

「それについてレクチャーすると、きりがありません。今や、私たちの方が豊かなんですから。少なくともパワーを持った人たちが、国民を貧しくしてはいけません。貧しさに耐えよと言ってもいけません。貧しさは、すべてあなたの責任だと言ってもいけません。それは、国やガバナンスを否定することです。最後には、自分のパワーすら否定することになります」

 彼は、悲しそうな口調になった。

「あなたの国は、自分で自分を追い込んでいったのです」

 僕は、黙り込むしかなかった。

 ビシュヌは、優しく問いかけてきた。

「今でも、スルピパドンを飲んでいますか」

 僕は、はいと答えた。ただし今は、持っていない。

「スルピパドンは、覚せい剤と同じようなもの。だから元気になる。コウは、それなしにはパワーが出ない感じではありませんか」

 僕は、素直にうなずいた。

「では、もう止めましょう。さいわいスルピパドンには、飲みはじめなら依存性や習慣性は、それほどありません。禁断症状もないはずです。飲み続けると仮面のようになります。あいつらは、それを飲んでいるのですよ。スルピパドンは気力と体力をもたらしてくれますが、半日で途切れます」

 ビシュヌは、僕を真剣に見つめた。

「元の状態に戻るのを恐れて飲み続けると、規律と支配と服従にしか興味を持たず、残虐なことも平気でできる人になります。もっとも自分を、そのようにしたがる人もいますが」

 ビシュヌの最後のフレーズは、皮肉に満ちていた。

「コウが、とても苦しい思いをし、病んだことは知っています。そうなれば休めばいいのです。コレラやペストは別ですけど、たいていの病気は、ゆっくり眠って、おいしいものを食べて、空や山を眺めて鳥の鳴き声を聞いていれば良くなります」

 僕は、ひどく気が楽になった。

「コウ、あなたはスルピパドンを断って、まずは休みなさい。宇宙は、無から生まれたことは知っていますね。パワーも無から生まれるんですよ」


 僕らは、食事を終えた。ビシュヌは、いたずらっぽく訊いてきた。

「おいしかった、ですか」

「ええ」

 ビシュヌは、苦笑いした。

「私は、飽きてしまったのか、まずくてたまりません。仕方なしに食べています」

 僕は、この岩屋が気になっていた。

「ここは、ビシュヌさんが造ったのですか」

 彼は、笑いながら手を振った。

「さすがに私は、ブルドーザーじゃない。ここは六十年ほど前、カタビキ・ツヨシという人が造ったのですよ。核シェルターとしてね。カタビキは、この町の人です。知っていますか」

 僕は、知らないと答えた。ビシュヌは、少し意外そうな表情になった。

「カタビキ・ツヨシは、天才的なファッション・デザイナーでした。ペイズリーの魔術師と呼ばれ、シャネルやディオールに匹敵するという評価を受けたこともあります。ただゴッド・アー・ユーと専属契約を結んだのが、運の尽きでした」

 僕はデザイナーの名前なんか知らなかったが、この田舎町に、僕と最も縁遠い領域の人がいたということに奇妙な感じを覚えた。

「その契約は、不公平極まるものでした。彼は、騙されたのです。ゴッド・アー・ユーにすべてのアイディアを奪われたのです」

 五太夫は、そのアイディアを世界中の企業に売って儲けたのだという。カタビキには、わずかな報奨金が与えられただけだった。

 ビシュヌは、暗澹たる口調になった。

「カタビキは、ゴッド・アー・ユーとのことで、ひどく人間嫌いになったようです。彼は、その頃、ここの上に小さなアトリエを構えました。さっきコウも見ましたね」

 白い小さな廃屋が、まざまざと脳裏に浮かんできた。ビシュヌによると、その家は今や、五太夫が設置した人工知能によって統御されているという。その四方を許可なく通過する者は、町境を越えたり侵したりするおそれありとして、家が攻撃してくるのだという。

 僕は、白い廃屋が巨大ロボットに変形して襲ってくる光景を想像した。しかしビシュヌによると、さすがにそのようなことはなくて、催涙弾が自動で発砲されるくらいではないかということだった。

「当時、アメリカとソ連が、全面核戦争を起こす可能性は高いと考えられていました、ですから彼は、もともとあった洞窟を利用して、ここを秘密のうちに造ったのです」

 僕は、疑問を呈した。

「自分だけ生き残って、どうするつもりだったのでしょう」

「コウ、本当にそう思います。いくらマネーやパワーを持っていても、たとえば食べ物がなければ、人間は死んでしまいます。食べ物は、天からは降ってきません。それらを私たちが、自分で生産するノウハウも今やありません。誰かが、どこかで作ったものを調達し、決済する手段が必要です」

 ビシュヌは、独白した。

「マネーはモノを得るためだけのモノ、パワーはマネーの配分を決めるだけのモノ」

 僕は、縮みあがった。おカネも権力も、彼は単なるモノだという。けれども僕は、深入りしようとしなかった。それだけの知見がなかった。

 ビシュヌは、本題に戻った。

「カタビキは、精神を害していたのでしょう。最終戦争になればいいと望んでいたそうです。そしてゴッド・アー・ユーも滅びて、自分とパートナーだけが生き残ることを夢見たのでしょう。あくまで想像ですが」

 それが本当なら、ひどくおぞましいことと思えた。けれども、そのような心理を理解することは不可能ではなかった。

 人間は、パワーを持つ者から理不尽過ぎる扱いを受けると、その者だけを憎むのではない。それを許容する国家や社会を憎悪するようになるということは、容易にうなずけた。

 さらに考えをめぐらせた。人を追い詰めても、反撃するとは限らない。けれども追い込まれた人間は、必ず復讐の起点を、どこかに残していく。ピンの先でわずかに突かれた傷口から、菌に感染し命を落とすことがあるが、それは国家や社会でも同じだろう。

 ビシュヌは、声を低めた。

「ここが完成して間もなく、カタビキは自殺します。自分が発表したクロック・ルックという提案が、世間の笑いものになったから」

 それは時計の針をイメージして、片方の袖やズボンの裾が長くて、もう片方が短いという幼稚とも思えるファッションだったという。

「気の毒に。才能が、尽きていたのでしょう」

 

 しばしの沈黙の後、僕はここの入口にあった摩崖仏について質問した。ビシュヌは、感心してくれた。

「コウは、なかなかクールなものに興味があるようですね。七百年前、この地にコジマ・タカノリというソルジャーがいました」

 僕は、そのことは知っていると答えた。ビシュヌは、微笑んだ。

「あの像は、コジマが彫らせたもののようです。ですから、この洞窟の原型は、コジマの手によるものかもしれません。しかし、そのことについての知識は失われてしまっています」

「仏様に何か言うと、扉が開きましたが」

「コロビヤコロビヤ、と言いました。その意味は不明ですが、たぶん失われた地名でしょう。もちろん、この音声応答機能は、コジマではなくカタビキが設定したものですが」

 ビシュヌは、この情報をカタビキの恋人だった女性から聞いたということだ。

「彼女は、もう百十歳をこえていますが、たいへん元気です。今は、ポルトガルのアマドーラにお住まいです。ただカタビキと別れた理由については、口を閉ざしたままだそうです」

 僕は、彼女に対するカタビキの仕打ちのせいかと思ったが、ビシュヌは否定した。

「彼女は、今でも怯えています。おそらく二人の仲は、無理やり引き裂かれたのでしょう、ゴッド・アー・ユーによって」

 もう午後九時だった。ビシュヌは、悪戯っぽく言った。

「シャワーはあるのは、知ってますね。使いますか。温水器は壊れていますが」

 僕は手洗いの時、水の冷たさを痛感していたので断った。それは賢明かもと言ったビシュヌは、水を浴びにいったが、何ともなさそうだった。彼は、部屋に戻るなり、ウィスキーを三口ほど喉を鳴らしながら飲んだ。

「さあ、寝ましょう。今日は相棒が、いませんからね」

 ビシュヌが用意してくれた寝袋に、僕は潜りこんだが、相棒と聞いて確かめたい気になった。エージェントは、もうひとり、いるはずだった。

「その人は、どこに」

 ビシュヌの小さな笑い声がした。

「もう喋りすぎるほど喋りましたから、今さら隠してもしようがないですね。高松に行きました。泳いでね」

 僕は、びっくりした。たしかに対岸の高松まで十キロほどだが、潮の流れが激しく、無事に行き着けるとは思えなかった。僕の誤解を察して、ビシュヌは楽しそうになった。

「まさか水着姿で、クロールで行ったと思っていませんか。相棒のピートはジャマイカ生まれなので、冷たい海は苦手なのです。ちゃんと潜水服を着て、水中バイクで行きました。私たちは、あのサイクロンの夜、そうやって高松からこの町に来たのです」

「ピートさんは、何をしに行ったんです」

 ビシュヌは、さすがに言葉を濁した。

「オペレーションの最終調整のために。明日になれば、わかります。もう少しの辛抱です、コウ」

 灯りが消され、真っ暗になった。その中でもビシュヌは、情報収集に勤しんでいるようだった。闇の中で、強い決意を秘めたビシュヌの声が響いた。

「祭りは、中止になったそうです。明日は、朝五時に起きて、山を下ります。バトルですよ。シダという人を救わなければなりません」

 僕は、思わず声を発していた。ビシュヌは、意外だったようだ。

「シダさんを知っているのですか」

 僕は、志田の風貌と祭りでの出会いを伝えた。ビシュヌは、長々と息を吐いた。

「そうですか。間違いなく、同じ人でしょう。シダさんは、家族を喪ってから協力者になってくれました。元仮面ですが、スルピパドンを断ち、善い心だけの人になっていた。彼は、今日の夕方、町に対する重反逆罪で、捕えられました。即刻、裁判なしで死刑ということになりました」

 僕は、言葉を失っていた。そんな罪があるとは知らなかったし、町が安易に町民に死を強いるとは信じがたかった。

「志田さんは、どうなるのです」

「明日の朝、八時にジンバというところで、公開処刑とあります」

 ジンバ、つまりジンバジマとは、祖父祖母島と表記する。本土と竪場島との間にある岩礁で、干潮時のみ姿を現す。その時は本土から、海面上に出現した砂州を通って行き来できる。

 僕は、心配になった。

「たったひとりで行くんですか」

 ビシュヌは、不敵だった。

「そうなるかも。でも大丈夫、このナイフがあれば」

 ビシュヌは大きな湾曲したナイフを、モバイルの画面が発するわずかな光にかざした。それは、凶暴性を秘めていたが、それ以上に素朴な美しさ、純朴な心が伝わってきた。僕は、ダンの尻尾を思い出していた。

 しかし僕の不安は、増すばかりだった。

「仮面は、強化服を着ています。武器も持っています」

 ビシュヌの自信は、揺らぐ気配がなかった。

「心配いりません。あの強化服は旧式です。弱点は、わかっています。それに仮面は、本当のプロではない。どんな武器でも訓練しなければ、プロには通用しません。私は三十人の仮面が相手でも、負けないよ。これ以外の武器も持っていくから、大丈夫」

 ビシュヌは冗談めかして、続けた。

「それに、あのダンが協力してくれたら無敵だと思います」

 彼は、大笑いした。僕もうきうきした気分になって、訊いた。

「明日、僕はどうしたらいいのです」

「私と同じ時刻に目を覚ましてください。そして統治軍の誰かが救出に来るまで、ここで待っていて。食事は、今日の夕食と同じですが、我慢してください」

「どれくらい待てばいいんです」

「長くとも三日」

 抑えていた感情が、言葉となって溢れてきた。

「祖母のことが、心配なんです」

 ビシュヌは、なだめるように言った。

「さすがに老人には、手荒いことはしないでしょう」

 その直後、僕は強いてトイレに行って、おそるおそる鏡を見た。そこには、僕の顔が映っているだけだった。血みどろの祖母の姿はなく、僕は祖母は生きていると単純に信じられた。

 再び寝袋の温もりに抱かれると、気持ちが和らいだせいか、すぐに眠りこんでしまった。













 






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