9 再会:超犬ダン、戦闘開始 決死の冒険がはじまる

 もう午後一時になろうとしていた。僕は、ふらふらと八幡様を取り巻く森の中をさまよっていた。やがて先祖が植えたと祖母が信じている、槇の木にたどりついた。本当に立派な木だと思った。根元の直径は、二メートル以上ある。

 その脇には、もはや誰からも顧みられることのない小さな祠があった。ここであの母犬は、ダンたちを産み育てたのだ。僕は素直に頭を垂れた。そばの湧き水で、持参していたスルピパドンを胃に流し込んだ。

 身体の芯から、寒さを覚えてきた。風が冷たくて、耐え難いほどになっていた。森全体が、ざわざわと騒いでいて、祭りの喚声を消してしまっていた。

 そそくさと僕は、その場を離れた。早くも眠気に襲われていた。帰途、僕は救護テントに入らせてもらい、三十分ほど眠った。

 家に着くと、もう午後二時をまわっていた。寿司と松茸の吸い物が、待っているはずだ。ただいまと玄関の扉を開くと、祖母の悲鳴まじりの叫びが聞こえた。

「鴻、逃げろ。竪場には絶対に行かさん」

 その直後、リビングから田頭と二人の警備員が現れた。

 同時に血相を変えた祖母が、出てきた。祖母は、柄を切り詰めた長刀を手にして、その切っ先を田頭の喉に向けていた。

 家には祖母が愛用していた長刀があったことは、幼い頃に知っていた。ただ、いつの間にか廃棄されたものと思っていた。先月、祖母が階下でごそごそやっていたのは、それを再び使えるようにするためだったのだ。

 祖母は僕と目が合うと、夜叉のような形相で怒鳴った。

「鴻、ぐずぐずするな。逃げろ」

 僕は反射的に、脱兎の如く駆けだした。相手が、仮面でなくてよかった。仮面であれば、一瞬で首根っこを押さえられていたことだろう。

 警備員も俊敏そうだったが、脱いであったブーツを履くのに手間取ったのだろう。その隙に、僕は、家から二十メートルは離れられた。

 祖母のことが、ひどく気にかかっていた。リンチされているのではないか。あるいは僕に逃げろと叫んだ瞬間、脳の血管が切れたのではないか。

 足取りが鈍った。じりじりと警備員が、追いついてきた。

 僕は、志田の決意を思い出した。いったん逃げ出したのだから、とにかく逃げ切るのだ。力をすべて出し切って、町境を越えるのだ。

「姉ちゃん」

 僕は、呼びかけていた。カナダまで走って行ってでも、姉に会って、祖母と母を助け出すため全力を尽くすんだという思いが、脳内で爆発した。体内に異常な力が、みなぎってきた。

 けれども僕が、誰も知らないような路地裏に入っても、警備員はきちんと追跡してきた。訓練されているのだろう。僕は、自分の逃げ方について自問自答していた。

 路地裏に入っても、出口で待ち伏せされたら一巻の終わりだ。また、もし仮面に加勢されたら、どこをどう逃げようと、町民証を身に付けている限り、それが発信する電波で居場所がわかってしまう。

 僕は、細い溝に足を取られそうになりながら、板塀の間を半身になってすり抜けつつ焦っていた。どこかに町民証を隠さなければならない。

 それを捨てようとは思わなかった。そこには、ほんのわずかだがチャージされたおカネが残っていた。みみっちい考えだと自嘲したが、たとえ一タユウでもあれば、何とかなることだってあるかもしれない。

 警備員は、僕から数メートルのところまで迫ってきていた。僕は、広い道に出た。待ち伏せを恐れていたが、杞憂ではなかった。左右から合わせて十人以上の警備員が、僕めがけて殺到してきた。飛びつかれたら、おしまいだ。

 道には、だんじりが連なり、ふんどし姿で酩酊し殺気立った男たちが密集していた。その間を抜けるのは、至難の業と思えた。

 僕は、意を決して、すでに相当なスピードを出しているだんじりの下に頭から滑り込んだ。

 だんじりは、重さ一トン以上あって、木製の車輪がついている。うまく抜けられなければ、骨を砕かれ、下手をすればあの世行きだ。僕の背中に、だんじりの底から飛び出た金具の先が突き刺さった。服は破れ、皮膚は少し裂けた。

 僕は、罠に捕らわれかかった獣のように、身をよじり、金具からは逃れることができた。車輪が、すぐそこまで迫ってきていた。

 僕は、うつ伏せのまま懸命に腕を伸ばし、だんじりの端をつかんだ。力を込めると、一気に身体が引き出された。

 周りの人は、唖然としていた。すぐさま怒鳴られたが、意に介している暇はなかった。僕は立ち上がり、再び走りだした。そこは参道だった。例年どおり露店が連なり、人々は肩を接するように歩き、たむろし騒いでいた、僕は、その間を身体をよじりながら、すり抜けていった。

 警備員たちが、四方からハンターのように迫ってくる気配を感じた。僕には、彼らが見えなかった。しかし彼らにも、僕が見えなかった。いらだった警備員たちは、無理やり人混みをかきわけたのだろう。

 トラブルが、あちこちで起こった。やんちゃな若者たちと喧嘩になり、屋台を倒された商人と格闘になり、女性グループに痴漢扱いされて足止めを食ったりしたようだ。

 混乱に救われて、雑踏をかきわけ、八幡様への坂の入口にある石鳥居にたどり着いた。僕は町民証を、鳥居のてっぺんに抜けて投げ上げた。そこに小石を放り上げて乗せることができれば、幸運に恵まれると言う者があって、僕も小学生の時、熱中したことがある。運動神経は鈍い方だが、コツをつかんだら百発百中になった。

 投げ上げられた町民証は、風に揺らいだが、無事に架木ほこぎの上に至った。

 僕は、そこから脇に逸れ、八幡様を取り巻く林に入った。もはや追手の気配は、感じなかった。僕は、崩れやすい黒い土を踏み固めながら、山を登っていった。枯草が、海から吹きつける風にあおられ、ざわざわと音を立てていた。

 次第に這うように斜面を上がっていくにつれ、背後に視界が開けた。四国の山並みと瀬戸大橋が、くっきりと目に映った。海には、白く輝く船が行き交っていた。あの船に乗れば、どこへでも行ける。乗れないことはわかっていて、そう夢想してしまう自分が情けなかった。

 さらに斜面は険しくなり、僕は木に抱きつきながら身体を上に運んだ。ふと振り返ると、高松港のあたりに空母らしき船が見えた。統治軍のものだろうか。何かが起ころうとしていると漠然と思ったが、深く考える余裕はなかった。

 斜面は、最後は崖になった。木の根をロープがわりに、手のひらを血だらけにして何とか登りきった。午後四時をまわっていた。陽は傾き、風は強まった。動きを止めると、身体は一気に熱を失いそうだった。危険を感じ、僕は歩きだした。

 そこは、くぬぎの林だった。枝が不気味な音を立て、激しく揺れていた。どんぐりが、あちこちに転がっていた。獣道には落葉が分厚く積み上がり、よほど注意深く進まないと、滑ってしまいそうだった。そうなれば右側の急な斜面を、滑落してしまうおそれがあった。

 それでも急がなければならなかった。しばらく歩むと、足元に小さな蛇が現れた。橙色で眼は真っ赤だった。蛇は、僕を用心深く観察していた。こんなに冷えるのに、大丈夫なのか。僕が語りかけると、蛇はのろのろと落葉の中に姿を消した。

 にわかに視界が開けた。くぬぎの木はなくなり、僕の背丈ほどの枯草が、一面に生えている。僕は小走りになったが、突然、地の底から鳶の群れが湧き上がってきて、驚いて脚を止めた。

 そこは、断崖だった。直径数百メートルに及ぶ、崩落地形だった。おそるおそる下をのぞくと、深さは百メートルはあるだろう。その底は、金色のすすきで埋め尽くされていた。

 僕は、祖父の書き残した文章で、この地に帆干谷ほうじのたにという場所があることを知っていた。ここが、それだった。往時は、ここまで海だったという。南北朝時代に、ここに本拠を置いた児島高徳が、自軍の舟の帆を干したことが、地名の由来だという。

 僕は崖の端を避け、草むらを進んだ。

 少しすると、白っぽい砂に覆われた舗装道路が目に入った。ぎりぎり大型トラックが、すれ違える幅だ。

 その道は、なだらかな勾配で、ゆるやかに曲がりながら仙隋山の中腹を巻くようにして、町の東端にある産廃処理場に続いていた。僕のいる側は、急斜面で密林のようだった。そこを突破するのは、不可能に思えた。しかし引き返すことは、選択できなかった。

 僕は思い切って、道に出た。山には、監視カメラは設置されていないと聞いていた。それを信じるしかなかった。僕はガードレールのある反対側に行き、下をうかがった。

 三十メートルほどの深さの、広大な窪地だった。採石場の跡地のようだった。底には太陽光発電のパネルが敷き詰められ、その隙間には灌木が生え、横向きに幹と枝を伸ばしていた。

 僕は息を整えると、上り方面に駆けだした。当然、道を行くのは危ういとわかっていた。早めに脇に逸れるつもりだった。

 それにしても自分の中に、エネルギーが残っているのが不思議だった。クスリを飲むなという、あのメッセージが脳裏をよぎった。しかし、いくら力が余っていても、このまま何事もないとは信じることはできなかった。

 不安は、すぐさま現実になった。何秒もしないうちに、右側の木立の中から仮面が現れた、五人もいた。全員がスタンガンではなく、拳銃を構えて。

「止まれ」

 くぐもった声が、あたりに響いた。僕は、止まらざるを得なかった。あまりに空しい奮闘だったと、僕は絶望していた。

 仮面は、すばやく僕を取り囲んだ。しかし飛び掛かってはこなかった。しばし、いじってやろうという意図が伝わってきた。僕は腰砕けになりそうだったが、やっとの思いで立っていた。

 仮面の溜息まじりの声が、耳に達した。

「田頭氏から通報があってね。忙しい時に、我々の手を煩わさないようにしてくれないかな。そうでなくても問題児なんだから」

 いつもながら、もったいぶった言い方だった。

 僕はうなだれて、手を後ろで組んだ。仮面の手が僕にかかろうとした。その時、帆干谷から突風が吹きあがってきた。何事かと不安をかきたてるような風だった。木立も草むらも、飛んでいきそうな勢いで震えていた。葉っぱや草や折れた枝が、僕たちを襲った。足元からは砂が巻きあがり、あたりは吹雪のような様相になった。仮面も動きを止めた。

 同時に谷側の藪が、ざわざわと大きく揺れた。仮面も腰が引けたようだ。熊でも現れるのかと、身構えている者もいた。

 藪から、よいしょとばかりに出てきたのは、黒光りした犬だった。柴犬を二まわりほど、大きくした感じだ。

 耳は尖っていて、ぴんと立っていた。尻尾もぴんと立って、刀のように空気を裂くかの如く振られていた。胸は、ことさら厚かった。肺活量が、ものすごいのだろう。全身が、柔軟性のある鋼で構成されているような印象を受けた。

 それでもロボットという感じではない。あくまで生き物らしかった。眼は茶色で、おどけた眼差しだった。

 犬は笑顔のような表情で、ごめんなすってという恭順の態度で近づいてきた。狼にも熊にも似ていますが、あくまで犬でございますと言いたそうだった。

 何だ、こいつはと仮面は、対応に迷っている様子だった。

 犬は仮面の傍まで来ると、音を立てて、大袈裟に身体をぶるぶるっと震わせた。付着していた笹の切れ端が、見事に宙に舞った。その後、中腰になって後ろ脚で喉のあたりを激しく掻きはじめた。かゆいんです、と誇大に訴えていた。

 僕には、その犬の正体がわかった。ダンだ、久々に出会えた。生きていたのかと叫びそうになった。僕は、心の中でダンと呼びかけた。ダンも、瞳をきらきら輝かせて、ひそかに挨拶をしてくれた。

 ダンは首筋を掻き終えると、嬉しそうに尻尾を振りながら、ひとりの仮面のブーツを匂ったかと思うと、いきなり後ろ脚を上げておしっこをかけた。その仮面はダンを蹴飛ばそうとしたが、ダンは素早く道の端まで跳躍して、難を逃れた。

 そこでさらに落ち着き払って、腰を据え糞をした。かなり力んでいて、放屁の音が聞えた。僕は、犬もおならをするのかと変な感銘を受けた。

 仮面らは困惑の体で、協議しているようだった。

「町の糞害防止条例に違反するのではないか」

「これは飼犬ではないし、そもそも、あの条例は犬ではなく、飼い主を処罰するものだ」

 たぶん、そんな話をしていたのだろう。

 ダンは用を足すと、大きな口を開け、荒い息を吐きながら、仮面めがけて気持ちよさそうに後ろ足で糞を蹴り散らした。

 この気の抜けた攻撃で、仮面の陣形は乱れた。リーダーらしき仮面の命令一下、拳銃がダンに向けられ発砲がはじまった。僕は、悲鳴を上げた。懐かしい友が、千切れの肉片になる光景は見たくなかった。

 しかしダンは、信じられないことに銃弾を避けきった。まるで瞬間移動をしているような動きだった。さらに信じがたいことに、その直後、馬のような大きさになった。

 まばたきする間もなく、二人の仮面は体当たりされ、ガードレールを大きく越えて姿を消した。同時にひとりを後ろ脚で蹴り飛ばしたかと思うと、さらにひとりの頭部を咥えて、ぶんぶん振り回したあげく、軽々と空中に放り出した。

 噴射装置を作動させることができないまま、四人の仮面は窪地の底に落ちていった。太陽光発電のパネルが、次々に盛大に壊れる音が聞えた。

 残るひとりは、避難のため噴射装置を作動させたが、そいつ目がけてダンは、助走もなく浮かぶように舞い上がった。数メートルの高さに達すると、大きく口を開け、その胴体に噛みついた。がしっという硬いものが砕かれる音がして、仮面は背中から道路に叩きつけられた。

 ダンは、澄ました様子で、そのかたわらにふわっと着地した。

 その仮面は、普通なら即死ものだが、強化服のおかげで意識はあったようだ。立ち上がろうとしたが、その時、噴射装置が誤作動したのか、仮面はまるで糸の切れた凧のように宙を漂うと、近くの松の木のてっぺんに引っかかった。不安定な姿勢で仮面は、執念深くも自動小銃を構えようとした。

「ダン、逃げよう」

 僕はうろたえたが、ダンは動じなかった。ダンは安らかそうに息をしながら、のんびりと無様な姿の仮面を眺めていた。すぐに大きな破裂音が聞えた。銃が暴発したのだ。仮面はのけぞった格好で、ぴくりともせず木の枝からぶら下がっていた。

「ダン」

 思わず叫んだが、もうダンはその場から去っていた。僕は、再び上りの道を駆けはじめた。自分では全力疾走していたつもりだが、実のところ、もはやよろよろと歩いていただけだった。

 頭の中は、渦を巻いていた。五人の仮面は、死んだのだろうか。仮面は忌むべき憎い存在だが、個々の仮面に恨みをもつべきではないと思った。志田のことが、ほどく気がかりになっていた。

 仮面といえども職務上、仕方なくやっていることなのだ。仮面にも家族がいる。仮面にも生活があり、人生がある。

 ただ人間には、意思があるとも思った。抗って然るべきではないのか。何も命を賭して反逆せよというのではない。やり過ごしたり、かわしたり、逃げたりもできるのだ。

 いや、まずは自分のことを心配すべき時だった。このままでは公務執行妨害罪どころか、傷害罪や殺人罪に問われるかもしれないと僕は、おののいた。それは犬が勝手にしたことです、で済むわけがなかった。

 だいたい犬が巨大化すること自体、誰にも本気で受けとってもらえないだろう。肉親ですら、お前、おかしいんじゃないかと呆れるだろう。結局、僕が仮面たちを手ひどい目に遭わせたということになろう。

 これでは、町を出られたとしても一般的な犯罪者だ。僕は、あの場で捕らえられた方がよかったのではないかと思えた。しかし、それでは祖母やダンを裏切ることになる。  

 ただ僕の両脚は、逡巡とは無関係に身体を前に進めていた。

 町境を越えるんだ。外に出られたら泥水をすすり、残飯をあさり、捨てられた襤褸をまとい、寺か神社の軒下で眠って力を蓄え、姉と連絡を取るんだ。そして祖母と母を救い、父の弔いをするんだ。

 すでに午後五時になろうとしていた。山間のせいもあり、あたりは真っ暗になっていた。道幅は急に狭まり、トラック一台分しかなかった。知らない間に窪地は過ぎていて、左側は山、右側は帆干谷の真上だった。地面が断ち切られたような角度の斜面に、木が群がり生えて、ざわついていた。

 暗黒と化した谷から途切れなく、強い風が、冥界の声のような音とともに吹きつけてくるのだった。薄着の僕には、ひどくこたえた。

 十メートルほど先の山側のちょっとした空き地に、白い平屋が見えた。五メートル四方もないような小屋に近い、北欧調の家だった。こちらを向いた面には、大きなガラス戸があった。木立さえなければ、絶景を楽しむことができるだろう。

 その家の周辺にだけ貧弱な灯りがあって、ガラス越しに屋内が見て取れた。テーブルと椅子が散乱していたが、とにかく休息できそうだった。

 僕は誘われるかのように、その家に向かった。

 

  

 


 






 

 

 




   

 




 

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