8 秋祭り:不穏な空気が漂う町で、少年は真相に迫る 

「お祖父ちゃん、ごめん」

 僕は今になって、祖父の体験談を事実だと信じるようになった。仔細に検索すると、その頃から、杏仁池に至るルートは封鎖されているようなのだ。今では、誰もそこに行けない。

 僕は、その池について想像を巡らせた。それは、湧水によってできたものだろう。大きな泉である。断崖の偽装された穴から、地下に拡がっているのだろう。深さは、どれほどあるのか見当もつかない。

 海賊船は、五太夫の遊覧船のようなものだろう。桜やつつじや紅葉の季節、あるいは稀に山が雪で覆われた時などに、平安貴族気取りで、五太夫の一行が船上で宴会をしているのではないだろうか。

 巨大な蛇のような生き物については、まったくわからない。


 毎日、朝昼晩とスルピパドンを服用していると、みるみる元気になっていく自分を実感していた。近頃では、高揚感すら覚える。脳が活性化し、頭から飛び出していきそうだった。

 でも楽しくはない。幸福感もない。ただ意味のない前向きな気持ちと誰かの承認を求める意欲だけが、噴出してくる。

 反面、祖母には認知症の症状が、はっきりと出てきた。しばらく前から、ちょっとおかしいなと思うことはあったが、それほど気にはならなかった。けれども、このところ症状は、急激にひどくなっていくのだ。

 簡単な計算ができなかったり、ついさっき起こったことも度忘れしていることが多くなった。

 僕は休学を受け入れたが、実のところ、その場しのぎにしか過ぎなかった。家で服を縫って、一生を終えようとの決意は変わらなかった。だから祖母に教えを乞おうとしたが、どうも無理なようだった。

 十月も末になったある日の夕方、祖母はミシンの前で、床にへたりこんでいた。

「もうだめだ、もうだめだ」

 祖母は呻き続け、それを聞かれまいと噛んだ唇からは、血がにじみ出ていた。僕は、どう対応していいか、わからなかった。それでも祖母は繰り返した。

「私は、もうだめだ」

 僕は耐え難くなってきて、祖母から目をそらしたが、その言葉は逃げ腰の僕に絡みついてきた。

「鴻、どうしたらいいのだろ。お前のお母さん、帰ってこないままだ。私が、お前を守ってやるべきなのに、こんなざまよ」

 僕は、言葉を失っていた。

「ごめんね。私に甲斐性があれば、こんなことにはならなかったわね。皆で楽しく暮らすことが、できたわよね。鴻、お前をいい大学にやって、いい仕事をさせてやりたかったのに」

 僕は、言葉を断ち切る仕草を見せた。

「僕は能無しだから、そんなことはどうでもいいんだ。家で服を縫っていくんだ」

 祖母は、僕の言葉にたいそう衝撃を受け、かえって冷静になったようだった。一呼吸おいて、投げやりに言った。

「服を縫う契約を切られた。電話一本で」

 僕は、絶句した。

「どうして」

「一か月ほど前から、ひどくミスが多くなって」

「そうか」

「もう一タユウも稼げない。でも、いくらか貯金があるわ、これから仕事を探すから、お前は勉強してくれ、ね」

 僕は気が滅入って、どうしようもなくなってきた。

「もう、いいよ」

 祖母の記憶は、急に数秒前に引き戻されたようで、僕を叱責するかのように言った。

「お前は、能無しじゃないよ」

 僕は天井を見上げ、嘆息した。

「どうでもいい、そんなこと」

 祖母は、ぽかんとした顔つきになった。

「何が、どうしたの」

 僕は、いろいろな感情が入り混じって、収拾がつかなくなった。お茶漬けをひとりでかき込むと、自分の部屋でスルピパドンを飲んだ。いつものように眠気に襲われ、そのまま寝入った。

 真夜中のこと、僕は窓越しに視線を感じた。僕の部屋は二階なので、そんなことはあり得ないのだが、とにかく目が覚めた。

 モバイルが、かすかに振動していた。メッセージが入っていた。

「グランマに言え。クスリ、のむな。ユーも」

 それが目に入った直後、メッセージは消えた。再び呼び出そうとしたが、痕跡すら残っていなかった。先月の強制労働の時、耳にしたことが思い浮かんだ。闇を駆ける怪人、密やかなメール、僕はどきどきした。

 しかし僕は、祖母に薬を止めろと言わなかったし、僕自身も飲み続けた。

 翌日、祖母は、精魂尽き果てたかのように、自室で横になったままだった

「私がバカだった、バカだった」

 同じ文句を、虚ろな表情で繰り返していた。身体や頭脳が、弱っているせいだけではないように感じられた。何があったのだろう。僕は、それとなく訊ねてみたが、祖母は口を閉ざした。

 僕は体内に、ありあまるエネルギーの蓄積を感じはじめていた。ただ、それをぶつける先はなかった。自分でも、いささか危険な状況だと思った。

 まずは高校を退学することだ。縫製は、祖母以外の人に教えてもらえばいい。そのまま何十年か辛抱しておれば、楽になれるだろう。

 僕の中に、それでいいのかと問い質してくる声があった。それでいいんだと返事をしたが、声は執拗だった。いや、やり残したことがあるだろうと問い詰めてきた。実は僕も、それを否定しがたかった。しかし、やり残したこととは何か、よくわからなかった。ただ、それは決してきれいごとではないと思えた。

 もう余計なことは考えまいと、深呼吸をした。ひとまず十一月になったら退学届けを出そうと決心した。今月末の土日は、八幡様の秋祭りだ。そこを区切りにしようと思った。

 この祭りでは、町の各地区から出発しただんじりが、男どもに引かれ押され、町中を蹂躙するかのように突き進んでいくのだ。だんじりの周りでは、子供らは小走りで竹製の横笛を吹き鳴らし、女たちは精一杯の化粧をして踊りまくる。

 ふんどし一丁の血気盛んな若い衆は、朝から大酒を飲んで、暴れたり喧嘩をはじめる。以前は警官が総動員で警備をしていたが、このところは、ごく少人数の仮面がその任に当たっている。

 フル出動すると仮面の正体がばれてしまうから、という理由であったようだ。この時ばかりは、若い衆が相当な無茶をしてもお目こぼしにされるのだった。

 この二日間は、町外からも多くの露天商がやってきて、境内に続く道端に店を開くことが許される。たこ焼き、いか焼き、ホルモン焼き、牛串、焼鳥、リンゴ飴、綿飴、ヨーヨー風船、お面、なんでもありだ。町中に甘辛いソースとアルコールの匂いが充満する。

 しかし祭りは、今や僕には縁遠いものに思えた。僕は、祭りのある世界にいることを拒絶されたのだ。祭りに行くのは、今回で最後にしようと心に決めていた。

 遠くない過去なのに、何十年も前のことのように思い出された光景があった。

 祭りになると我が家では、ちらし寿司と刺身と季節のキノコの吸い物を作った。父は朝から日本酒を飲み、だんじり引きに加わった。

「さすがにふんどし姿じゃ、寒い」

 父は初老の頃から、黄色の法被を羽織るようになった。

 姉は昔、流行ったというセーラームーンのコスプレをしていくのが常だった。僕は、以前はチョロちゃんの扮装で参加した。おばさんたちから、かわいいねえとお世辞を言われるのが嬉しかった。

 母は昼過ぎからビールを飲んで気合を入れ、隊列に加わった。祖母は年だからと言いつつも、気が付くと、だんじりに乗っていたりした。疲れると家族全員で示し合わせて抜け出し、屋台でおでんを食べたりした。

 そのようなことも、二度とないのだろう。僕は、訣別という二文字の重みを知った。

 祭りの前日、祖母は意外にも、しゃきっとしていた。

「寿司は作るわよ」

 僕は手助けを申し出たが、祖母は断わってきた。

「いい、これが最後だから」

 僕はその言葉を聞かなかった振りをして、二階に上がった。

 その日の僕の服装は、高校の体操服だった。無地の濃紺のジャージ上下という、華やいだ日にはそぐわないものだった。


 午前十一時過ぎだった。玄関の上がり框で、祖母は誰かと話をしている様子だった。僕は気になって、階段の途中まで下りたところで、祖母は甲高い声を発した。

「田頭さん、私は直樹の遺骨を返してくれる、英子さんを釈放してくれると、あんたが約束してくれたから、貯えを差し出したんですよ」

 祖母は、その男の甘言にたぶらかされたのだと、これまでのことが理解できた。

 田頭は、のらりくらりと言う。

「何事もすぐには、できないんですよ。貴志子さん、わしの一言くらいで、五太夫さんの担当がすぐに、はい、わかりましたって言うわけないでしょう。手続きというものがある」

 祖母は、激昂した口振りだった。

「あなたは、五太夫の元重役で、地区の役員もされている。だから、あなたのおっしゃることを信じたんです。なのに、これじゃ詐欺じゃないですか」

 田頭は、追い詰められるほど落ち着いてくるタイプらしかった。

「まあまあ、貴志子さん、落ち着いて。あんたは全財産を盗られたと言うが、息子さんの葬式代は残しているはずでは」

「当たり前でしょ」

 田頭は、攻勢に立った。

「ですから、一文無しじゃないんですよ。今すぐ、お孫さんが飢えて死ぬとか、あり得ないでしょ。葬式代として持っているカネで、何か月かは暮らせるでしょ。だいたい大袈裟におっしゃっているわりには、寿司だって作っているんでしょ」

 田頭は、鼻をひくつかせたのだろう。

「あれ、松茸の匂いがするね」

 祖母は、毅然と答えた。

「そう、今年は松茸の吸い物を作りました」

 田頭は、怒ったような口調になった。

「そりゃ、贅沢ってもんですよ。うちなんか、しめじの吸い物だよ」

 祖母は、懇願するように言った。

「私は、もう永くない。今年が、最後の祭りになるかも。孫は、松茸なんか口にしたことはないはずです。ちょっと無理をしたくらい、何が悪いんですか。自分のおカネで買ったんですよ。自分で稼いで貯めたカネで買ったんですよ。たった一本だけ、小さな松茸」

 田頭は、辟易したような口調になった。

「まあまあ、貴志子さん。そんなに思い詰めなくていいですよ。ところで先日の念書の件ですが」

 祖母は、怪訝そうだ。

「念書、それは何ですか」

「現物はここに。貴志子さん、あんたの署名、捺印がある」

 祖母は、小さな悲鳴を上げたようだ。

「確かに私の字です。でもあの時、こんな文言はなかったと思います。単なる領収書だったはず。鴻の身柄を渡すなんて、とんでもない」

 田頭は猫なで声になったが、内容は脅しだった。

「ねえ、貴志子さん。あんたは、お孫さんを幸せにしたくないの。この家にいても一生、くすぶるだけでしょ。鴻君は体格もいいし、地頭は悪くない。ただ忠誠心が不足しているんだよ。そこは、あんたらの育て方が、ちょっと悪かったかな。ま、忠誠心さえ注入してもらえば、人並みにやっていけるさ」

 祖母が祭りの若い衆なら、きっと掴みかかっていたことだろう。

「どうせ汚いことをさせるか、どこかに売り飛ばすんでしょ」

 田頭は、呆れたようだった。

「妄想はよしてください、貴志子さん。古代、中世じゃないんだから」

 祖母は、必死で食い下がろうとしていた。

「それに、鴻に忠誠心がないなんて侮辱です。本当に町のことを思っているんですから」

 田頭は、あくびをしたようだ。

「物分かりが悪いんじゃないの。五太夫さんに対する、ロイヤリティですよ」

「町と五太夫は、違うじゃないですか」

「貴志子さん、あんたな、聞いた風なことを抜かすが、あんたが野口家じゃないのか」

「私は、野口という家の従業員です」

 田頭は、はあっと大きな声を出した。

「家って企業なんですか。じゃ、家族って労働組合なの。変なことを言うね。家が企業なら、何を生産しているんです」

「過去に学び、将来を拓く人、です」

「学習塾のキャッチ・コピーかいな。降圧剤で、頭がおかしくなったんじゃないですか。わしには、理解できん。とにかく明日が期限です。それまでに鴻君を預けてほしい」

 祖母は、毒づいた。

「人さらい、ですか」

 田頭は、うんざりしたようだ。

「わしは奴隷商人ではない。丁寧に説明しますよ。実は五太夫さんの、ある部署で人が足りないんですよ」

 祖母は、首をひねったようだ。

「人手不足なんて、ないでしょ」

「ところが住み込みとなると、なかなか集められないものでしてね」

「どこに連れていくんです」

「近場ですよ」

 僕は近場という言葉から、墓場を連想した。祖母の疑念は、ますます膨らんだようだった。

「田頭さん、私には、まったく腑に落ちないわけです。人が集まらないからって、孫を高校中退までさせて、そこに行かせるわけですか。まだ子供ですよ。きつい仕事なんかできませんよ」

 田頭は、一呼吸置いた。

「いいですか、貴志子さん。何か誤解されてるようだが、鴻君に就職先を紹介しようとしているんですよ。そこは安定しているし、待遇もいい。今のまま鴻君が職に就こうとしても、最低ランクの職しかないかもしれない。なんとか生きていけるだけの給料で、一生、地べたを這いずりまわる虫のように仕事をするんですよ」

 祖母が、ひっと悲鳴を上げた。僕も息が詰まった。確かに田頭の言うとおりだった。仮に家で服を縫えたとしても、いくらにもならないことは承知していた。

 しかし祖母は、屈しようとしなかった。

「ねえ、田頭さん。その就職先とやらについて、詳しく教えてくださいな。あなたは五太夫さんの大幹部でいらしたんだから、肝心なところが曖昧では、募集なんかできないでしょう」

 田頭は持ち上げられて、上機嫌になったようだ。

「では、口外無用でお願いしますよ。竪場島の化学プラントです」

「あそこに工場なんか、ありましたか」

「西の端に刑務所があるのは、知ってますよね」

 僕の胃は、きりきりと痛んだ。そこには、母が囚われている。

「そしてですね、島の東の端には、海に面して、別荘のような研究施設がある」

 祖母は、少し安堵したようだ。

「そこで働けと」

 しかし祖母の淡い期待は、裏切られた。

「いや、その地下に工場があるんです」

 祖母は、できる限り話を引き延ばし、核心に迫ろうという戦法をとった。田頭は、プライドさえくすぐってやれば、口が軽くなる人間だった。認知症の気があるとは、信じられない追及ぶりだった。祖母は、僕を守るという一点に、残る能力を集中させることができたのだろう。

「ねえ、田頭さん、あなたは偉かったから、その工場のこともよくご存知なんでしょ」

 田頭は、まんざらでもなさそうに答えた。

「わしは担当外だったから、詳細は知らないんですよ。ただ、そこで企業機密の最先端の化学製品が開発されているとは聞かされていたよ」

「いったい何を」

「だから新製品ですよ。新しい染料とか、色が変えられるジーンズとか」

「その程度のものを開発するために、秘密の工場なんて必要ですか」

「要るか要らないかは、経営の判断です。わしらが、口をはさむことじゃない。繰り返しになるが、そこの待遇は抜群ですよ。年収は本社のエリート並みで、豪勢な三食付き、しかも無料」

 祖母は、もういいですと言いたそうに話を遮り、丁重に頭を下げた気配がした。

「田頭さん、しつこいようですが、息子の遺骨と嫁は、必ず帰していただけますね」

 田頭は、大人物気取りだったろう。

「もちろんです。わしは、五太夫さんの元幹部です。ウソは申しません。そのかわり、しつこいようだが」

「もう、よろしいです」

 祖母は今度は、はっきりと口にした。

 田頭が去って、しばらくして僕は何も知らない風を装って、階段を下りた。祖母は、玄関マットの上に座り込んだまま、放心していた。僕に気づくと、祖母は慌てて立ち上がろうとした。

「鴻、ごめん。お寿司、まだなの」

「遅くていいよ。ちょっと出かけてくるから」


 空は薄曇りで、この時季にしては冷えていたが、あたり一面に祭りらしい雰囲気が満ち満ちていた。

 広い道には例年どおり、だんじりが連なっていた。小太鼓と笛の音、それに加えて子供らの歓声と大人たちの喚声が交錯して、まるでスタジアムにいるようだった。僕は静けさを好むのだが、この日ばかりは喧騒を楽しむのが常だった。

 不思議なことに仮面の姿が、見えなかった。そのかわり町外から動員されたらしい青い制服の警備員たちが、あちこちに立っていた。

 僕は、こそこそと六個入りのたこ焼きとコーラを買った。それで小遣いは、ほとんど尽きた。人目を避けて僕は、家並みの狭間に異物のように存在している、小さな社の石段に腰かけた。

 低空を蜂の羽ばたきのような音を立て、水陸両用のプロペラ機が過ぎていった。いつもの祭りとは、微妙に違うなと感じた。

 たこ焼きは生焼けで、蛸は爪の先ほどしか入っていなかったが、それでもおいしかった。食べていると、一升瓶と紙コップを手にした、作業服姿の老人がふらふらとやってきて、隣に座った。

 僕は身構えたが、彼に邪気は感じられず、ただの酔っ払いのようだった。瓶の中身は、三分の一程度しか残っていなかった。朝から飲んでいたのだろう。絡まれたらいやだなあと思っていると、老人は、いきなり馴れ馴れしく、僕の眼前に紙コップを突きつけてきた。

「兄さん、飲むか」

 僕は、手を振った。

「まだ高校生なんで」

「ちぇっ、近頃の若い衆は、くそ真面目だな。わしなんか幼稚園の頃から、飲んでいたぞ。真っ赤になって、だんじりに乗って太鼓を叩いていた」

 その後、退散しようとする僕を引き留めるかのように、老人は話題を繰りだしてきた。結構、面白いので僕も付き合ってしまった。

「若い頃、色白の、腰のきゅっと締まった女を好きになった。交際を申し込んだが、断られた。今じゃ振られて良かったと思ってる。この前、その女をたまたま見かけたんだが、全身、脂肪が垂れ垂れで、目鼻も口もよくわからんようになっていた。今の嫁さんと結婚して、良かったと思う。あいつは不細工だが、今でも目鼻は、ちゃんとわかる」

 僕は、笑い転げてしまった。

「なあ、兄さん。今年の祭りは変だろう」

「変て」

「仮面が見えないだろう」

「そうですね」

「五太夫は、町外から警備員を二百人、入れたそうだ」

「じゃ、仮面は何してるんです」

「兄さん、仮面は、五太夫家と本社と町境の警備に駆り出されているという」

 僕は、無邪気そうに訊いた。

「何か、あったんですか」

 老人は酒をあおりながらも、懇切丁寧に説明しようとしていた。

「このところ、かなりの数の町民に妙なメールが来ている、町の外から」

 僕は、知らない振りをするしかなかった。老人は、平然と言ってのけた。

「五太夫なんか辞めちまえ、そうすりゃ奴らも倒れるっていう内容だ」

 僕は、慌ててあたりを見回したが、誰もいなかった。老人は、僕の肩を叩いた。

「恐れるな、兄さん。ここには監視カメラも盗聴器もない。それにわしには、カネがない、将来がない、子供もいない。だから言いたい放題だ」

 僕は、その迫力に圧倒されてしまった。残りのたこ焼きを口に詰め込み、コーラを一気に飲み干した。老人は言った。

「兄さん、酒飲みになれるぞ。頼もしい。これで町の将来は、安泰だ」

「わけ、わかりません」

 老人は、話に戻った。

「さて当然、五太夫もメールのことは知っている。だから近々、何かが起こると警戒している」

「何が起こるんです」

「町の内部で反抗する奴がいても、潰すのは簡単。でも同時に町の外から、パワーが攻めてきたら」

 僕は、先月の堀江と和井田の会話を思い起こしていた。統治軍なら、それこそ戦車を先頭に堂々と来ればいいではないか。

「何のために。手段も変」

「五太夫がとんでもないことに手を染めていて、それは公表を憚られるので、内密に一気に壊滅させないといけないとしたら、どうかな。そのためには、内部と外部から同時に総攻撃しないといけないと思うよ。理由は隠してね」

 老人の顔は真っ赤だったが、真剣な表情だった。彼は、まったくの正気なのだと知れた。

「五太夫は、この二日間が危ないと判断したんだ。町中が、わやわやになるからな」

「じゃ、祭りを中止すればよかったんじゃ」

「兄さん、あんたはまだ若い。祭りは、町民の鬱憤を発散させる場なんだ。それを止めてみろ、エネルギーが変な方向に向かうぞ。こりゃ、博打だよ。五太夫は、祭りの実行を許した。でも仮面を、自分の周りと町境に張りつけないといけない状況だった。それでおおぜいの警備員を、外から入れるしかなかった」

 老人は一升瓶を空にすると、上着のポケットからレジ袋を取り出して、瓶と紙コップを大切そうに入れた。まるで手品のように別のポケットからは、焼酎の小瓶が現れた。

 僕は、ストレートに疑問をぶつけた。そもそも五太夫は、何をしていたのかと。

 老人は、最新の町外の情報を語ってくれた。かなり前から、世界中の内戦やテロで出所不明の化学兵器が使われていたということ。そして今朝、国内で五太夫派と目される政治家、官僚、財界人、研究者が、合わせて数十人、統治軍によって拘束されたということ。

 老人は、虚空を睨みつけて言った。

「五太夫は、染料を作っていた。その過程で、きわめて有毒な物質が生成された。それは取扱いが簡単で、値段が安かった。世界中が、飛びついてきたってわけ」

 にわかには信じがたかった。

「兄さん、この国はたった三十年ほど前までは、先進国と自称し、豊かな国だったんだ」

 僕には、おとぎ話のように思えた。

「とにかく国の経済がだめになっていくにつれ、五太夫グループは債務超過となった。つまり倒産状態になったんだ。それで、化学兵器に手を出したということです。竪場島の地下にプラントがある」

 僕が、行かされようとしているところだ。老人は、無頓着そうに続けた。

「わしの息子は、そこで働かされていたんです。この夏、久々に帰ってきたんだが、身体はぼろぼろのようだった。夕方、ビールを飲んでいると倒れた。救急車が来るまでの間、竪場島のプラントのことを明かして、死んだ」

 老人は、涙は見せなかったが、しかし泣いていた。

「酒なんか飲ませるんじゃなかった。わしが酒浸りになっているのは、罪滅ぼしだ。酔っぱらって早く死んで、あの世で詫びるんだ、息子に」

「でも奥さんが」

「写真の中の嫁さんは、目鼻口がはっきりわかるが、実物はこの世にいない」

 僕は、息を呑んだ。

「嫁さんは先月、あの世に行った。竪場に行って悪者をやっつけるんだと、台風の夜、舟を出したんだ。息子が死んでから、嫁さんはおかしくなった」

 老人は、肩を落とした。やがて声が、絞り出された。

「なあ、兄さん。わしのことを年寄りだと思っているだろ。いくつに見える」

 僕は肌の具合から察して、七十代と言おうとしたが、その前に彼は答えを言った。

「わしは、まだ五十八だ。もともと機動隊員で、少し前まで仮面だった」

 僕は思わず、浮足立った。彼は、僕の腕をそっとつかむと、穏やかに言った。

「今は仮面じゃない。兄さんのことを密告なんかするものか。酒と愚痴に付き合ってくれたんだから。なあ、わしはひどく老けて見えるだろうが、あんな仮面を年柄年中かぶっていたら、しわだらけになるよ」

 彼は、自分に言い聞かせるように、ゆっくりと言葉を発した。

「わしはすべてを失ったんだが、実は五太夫に対する憎しみはない。あるのは軽蔑だけだな。あんなにいい加減なのに、むごいことを思いつき、人にさせることができるものだ。わしは、仮面である間は、人間ではなかったとつくづく思うよ」

 僕は、彼を信用すべきだと思うようになっていた。

「兄さん、わしの嫁さんも仮面なら救えたはずなんだ。それだけの装備は持ってる。でも見殺しにしやがった。港で嫁さんの亡骸を、粗大ごみのように放り投げて言いやがった。元仮面なら、ちゃんとしろって」

 老人は、焼酎を空けてしまっていた。

「そろそろ行こうか。兄さん、いや野口鴻さん。つまらないことばかり言って、申し訳ない」

 僕は、彼が自分の名前を知っていたことに驚かなかった。改めて僕や家族が、要注意扱いになっていたんだなと理解できた。

 老人は、僕を励ますように言った。

「野口さん、あなたのお祖父さんやお父さんは、立派な方でした。恥じることはありません。ねえ、決して誇りを捨てるんじゃありませんよ。そうすれば、わしのようにならなくて済みます」

 僕は、祖父や父の死について本当のことを教えてほしいと乞うたが、彼も知らないということだった。

「では、これで」

 彼は立ち上がった。その姿勢は、酔っている人のものではなかった。僕も立った。彼は、はっきりとした口調で言った。

「わしは、志田しだという者です」

「しだ、死だ、さん」

「志という字に、田んぼの田で志田です。志を果たして、いつの日にか帰らん」

 僕は、志田に心から感謝の念を覚えた。

 別れ際、志田は苦しそうに語った。

「少し前、わしの家の近くで三毛猫が仔を産んだんです。五、六匹いましたが、二週間くらいでたった一匹しか見えなくなりました。母猫は、そいつをかわいがって、あちこち連れて行ってました」

 僕はダンのことを思い出し、息苦しくなった。

「ある晩、小雨が降っていました。わしの家の玄関先に二匹がいました。わしは、ここは濡れるから、縁の下に行けよと言いたくて、仔猫に手を伸ばしました。すると仔猫は、急に身体を伸ばして爪を指に立ててきました」

 志田は、心の中で慟哭しているようだった。

「わしは思いました。単に自分を守ろうとしただけなのかもしれない。しかし、わしは、その勇敢さに感動しました。それに引き替え、わしは仔猫にも劣るんだと情けなくなった。わしは、自分の嫁さんも息子も守りとおせなかった。わしは、自分の人生を全うするつもりです」

 それだけ言うと、焼酎の空瓶をレジ袋に丁寧に収めた。袋の中の二本の空瓶を、まるでふたつの位牌であるかのように抱きかかえて、志田は去っていった。瓶同士が触れ合う、澄んだ音がかすかに聞こえた。

 僕は、ぼんやりと思った。五太夫と刺し違えて、死ぬ気ではないかと。もし、そうだとしたら無茶苦茶だ。

 けれども僕は、悟っていた。人の全霊を賭した決断には、口をはさめないということを。

    



 


 


 










 

 

















 



 


 




 

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