7 異変:病に侵された少年は、杏仁池の話を想起する

 翌日、僕は五太夫の従業員二人とチームを編成させられた。両人とも五十歳くらいで、髪の毛は薄く、顔の皮膚はたるんでいて、いかにもうだつの上がらないおじさん、という感じだった。

 名札には、それぞれ朝間あさま山際やまぎわとあった。自己紹介で二人は、あさましい朝間です、窓際の山際ですと笑いづらいことを言うので困った。

 その後、三人で集会所の後片付けをした。朝間と山際は、職場の同僚で本来の業務の打ち合わせをしながら、うまく手を抜いて作業している。さすが人生のベテランだと感心した。

 午後の休憩の折、木陰に三人で座った。冷たいジュースの入ったペットボトルが配られた。朝間は糖尿の気があるので甘味は避けていると言い、山際は午後は酒しか飲まないと言って、二人とも僕にジュースをくれた。

 僕が夢中になってジュースを飲んでいると、二人は小声で話をしだした。僕は、またしても録音する誘惑を抑えられなかった。

 帰宅し、蒲団をかぶって再生した。波の音が邪魔になったが、何とか聞き取れた。

 朝間が、相手の反応を探るかのように切り出した。

「届いたか」

 山際は、わざと驚いたように聞き返した。

「何のこと」

 朝間は、ささやいた。

「例の、メールだ」

 山際は躊躇しつつ、敢えて無関心を装い答えた。

「来たよ、プ・エルトリコからだ」

 朝間が、笑う気配がした。

「変な発音だな。本社横の飲み屋かのことか」

 山際は、大真面目に言う。

「カリブ海の島だ」

 朝間は、怪訝そうだ。

「わしには、トリニダード・ドバコから来た」

 僕は、思わず笑った。トリニダード・トバゴだろう。

 山際は、ますます真面目くさって言った。

「人によってメールの発信元が違うんだな。こりゃ、大がかりだ。陰謀かもしれん」  

 朝間が、からかった。

「いんぼうってお前が言うと、なんかいやらしく聞こえるんだよな」

 山際は、ぶっきらぼうに言った。

「すぐに捨てたけどな」

 朝間は、問い質した。

「でも読んだんだろ」

 山際は、答えた。

「目に入ってきただけだ。でも心配だ。ログは残るからな。勝手に送ってきたんだから、わしの罪にはならんだろうが。そもそも、どうやってセキュリティを突破できたんだろう」

 朝間は嬉しそうに、

「すごい奴なんだよ。送信元でログも消してくれてるって」

 山際は、あくまで疑り深そうだった。

「ログを消せるなんて、ガセだと思うがなあ。とにかく、わしらに何を期待しているんかな。家族を食わせていかなきゃならんのに」

 朝間が、またも軽口を叩いた。

「酒代が、いるだけだろ」

 山際が、嘆息した。

「わしは、主義や理想なんてどうでもいいんだ。目の前にあるのは、わけのわからん現実だけじゃないか。五太夫はカネをくれる。そのカネで、わしは家族を養える。五太夫を倒したら、何かいいことがあるんか」

 朝間は、訥々と言った。

「お前の言い分は、もっともだ。でもな、今がまともとは、口が裂けても言えないだろ」

 山際の呻きが、切なく聞こえた。

「まともじゃないことは、わかっているがな」

 朝間は、絞り出すように言葉を発した。

「わしには難しいことはわからんが、自分の子供が五太夫の奴隷としてあり続けるということは、絶対にやめさせなければならんと思うだけだ」

 僕は、朝間の発言に感動したが、山際にも共感を覚えた。

 その後もひそひそ話は続いたが、結局、メールとは何だったのか。

 それは、このところ相手を選んで、断続的に発信されているらしい。つまり五太夫の幹部や仮面や忠誠心のありすぎる者を避けて、慎重に、セキュリティレベルの変化を測定しながら送られているようだ。

 内容は、十月末の八幡様の秋祭りに合わせて、従業員そろって五太夫グループを退職しようというものだそうだ。

 辞めても町外に出られるわけではなく、町内で起業できるわけでもない。五太夫は、自分以外の企業の存在を許さないのだから。極端に言えば、村八分になった上で飢え死を覚悟せよということだが、メールには、恐れているような事態にはならないとあったという。

 しかし、いくら安心しろと言われても、誰にとっても展望は開けないだろう。強大な力が、救ってくれるというのだろうか。

 そこで気になるのが、謎の二人組の存在だ。彼らは、やはり統治軍の人間なのだろう。であるなら、なぜコソ泥のような動きをしなければならないのだろう。僕には、全然わからないのだった。


 休日返上で厳しい作業が続いた。顔は真っ黒を通り越し、腐ったような色になっていた。肉体労働をしている割には、食欲がない。心拍は、ますますおかしくなっていくように感じられた。寝つきがよくないのに、とんでもなく早く目が覚めたりもした。

 本当は体調がすぐれなかったのだが、僕はそのことを意識しないようにした。すべて気の持ちようだと思い込もうとした。

 日々、僕らが作業している傍らを、高校の生徒たちが通り過ぎる。哀れみや蔑みの眼差しが注がれる。あるいは、まるで珍動物を見物するかのような、好奇心に満ちた視線が突き刺さってくる。

 苦笑されることもある。嘲笑されることもある。湯沢君と橋本君には、そうされた。僕は、それほど腹も立たなかった。僕は所詮、その程度の人間だと思わせられるようになっていた。

 早田由希子は、僕に気づくと目を背け、足早に去っていった。これは何よりもきつい仕打ちと感じられた。

 ようやく強制なのか矯正なのか定かでないが、徴用期間が終わった。翌日から三連休だった。

 お彼岸の墓参りには祖母だけ行ってもらい、家で三日間、ごろごろして過ごした。祖母とは、わずかの間に疎遠になった。盗聴をおそれ、自然に会話ができないせいもあったが、僕には、この家を呪う気持ちが芽生えていた。

 祖父と両親は犯罪者扱いで、姉は、僕らを見限るように異国に去った。名もなく貧しい、だからといって美しさのかけらもない。

 僕は国からも町からも、人々からも断ち切られ、その上で見捨てられている。この世界が、明るい混沌か暗黒の秩序かはさておき、蛞蝓なめくじの放つ粘液に取り込まれたように自分を奪われ、悪罵と嘲笑、加えて無知と無恥に苛まれながら、これから生きていかなければならないのだろうか。

 僕も、自分のことはよく知っている。他者に対する悪罵と嘲笑に満ち満ち、頭はからっぽで、恥を知らない人間だ。そんな僕が、これまで真っ当に生きてこられたのも故郷と家族があったからだ。

 その故郷は僕を裏切り、その家族は僕を粉々にしたように思えた。このような思いが祖母に伝わり、関係がぎこちなくなったのだろう。

 連休明け、登校するのが、かつてなく億劫だった。それでも僕は、淡い期待を抱いていた。甘かった。誰も受け入れてはくれないと居直ればよかったのだ。

 教室に入ると、クラス全員、僕を見てせせら笑ったり、ひそひそ話をした。あるいは、考えすぎだったかもしれない。僕は、正常から逸脱しつつあった。けれども僕が、和という輪から排斥されていたのは間違いなかった。

 小テストが頻繁にあったが、まったく回答できなかった。僕が強制労働に服している間に、どの教科も進度を増していた。

 とうとう授業中に、ある教師に罵られることになった。

「野口、お前は勉強に向かないんじゃないか。今すぐ、働いた方がいいんじゃないか」

 意地の悪い哄笑が起きた。僕は、たまらなくなって立ち上がった。

「何をしろというんです」

 廊下には、早くも仮面の姿がちらついたが、入ってはこなかった。美禰も今回は、何もアクションは起こさなかった。

 教師は、にやついて答えた。

「竪場で刑務員なんか、どうだ」

 僕は、椅子に崩れ落ちた。そこには僕の母が囚われている。知っているはずなのに、どうしてそんな酷いことが言えるのだろう。

 その日の僕の様子は、あまりにおかしかったのだろう。夕食の席で、祖母は問い詰めてきた。僕は、教師の言葉を伝えざるを得なかった。意外にも祖母は、明るく答えた。

「刑務員もいいかもしれない、とにかく食べていける」

 僕には、祖母がひどくいい加減に思えた。どうして家族が、ひどい目に遭わされているのに、怒ってすらくれないのか。僕は、本気で腹が立った。祖母は、僕の内心に気づかない振りをして、早々と食事を済ませ服を縫いだした。

 ますます家の空気は、澱んできた。僕は、早々に寝床にもぐり込んだ。明日も学校に行って、陰湿な攻撃を浴びなければならないのか。そのような状態が、これから死ぬまで続くのか。

 途端に、息が詰まったように感じられた。神経が、断たれたような気がした。自分が粉砕され、砂粒と化して吹き飛ばされていく、あるいは泥となって川に流されていく感覚が、全身を満たした。

 涙が、あとからあとから溢れ出てきた。その夜、僕は、ほとんど一睡もできなかった。

 起き上がっても、朝という気がしなかった。永遠に続く夜のように思えた。朝食も喉を通らなかった。祖母は、ただ無言でおろおろしていた。

 のろのろと外に出ると、異様な世界が広がっていた。その日は曇っていたが、僕の眼に映るすべてから、色が失せていた。庭の花や草、土、雲間から洩れるかすかな陽の光、それらは黒ではなく白ではなく、灰色でもなかった。

 ただ無色という荒涼が、視界全体を覆っていた。

 さすがに脳内に異変が起きていることを悟ったが、とにかく操り人形のように学校に向かった。脚に力が入らず、時にどこを通っているのか、わからなくなった。

 徒歩や自転車で登校する生徒たちに、次々に追い越された。皆、おおっぴらに僕を罵っていった。

「とろとろしやがって」

「アホじゃないのか」

「車に轢かれてしまえよ」

「野口らしいや」

「犯罪一家か」

「人間のクズだな」

「町の面汚し」

「生きているのが奇跡って、先生が言ってた」

「じゃ、死んだら」

「死ぬパワーがない。パーだから」

 ハハハハ、ぎゃははは。

 僕は、やっとのことで教室にたどり着いた。皆、きちんと着席していた。始業のチャイムが鳴り始め、僕は慌てて席に座った。

 僕は夢遊病者のように、授業をこなした。何の色も感じられないままだった。僕は狼狽して、周りを見回したり、天を仰いだり、小さな叫び声をあげたりと、些細だが奇妙な行動を取り続けた。

 昼食時、いったん学食に行くが、まったく食欲はなかった。僕は、片隅で水を飲んだ。

 女生徒の一団が、呆れたように僕を見ていた。

「バカ野口よ」

「何も食べてないよね。生活、厳しいのかな」

「お父さんは自殺、お母さんはムショ入りだって」

「お祖母ちゃんが、稼いでいるって」

「老人虐待、じゃないの」

「本当に学校を辞めて、仕事をした方がいいよね」

「さすが野口」

「気持ち悪い」

 放課後、僕は生徒会室に呼び出された。美禰はいなかったが、執行委員の湯沢君と橋本君らに取り囲まれた。その中には、早田由希子もいた。

 湯沢君が、いやに深刻そうに言う。

「野口君、こんなことは言いたくないんだけどね。真面目にやる気がないんなら、学校に来なくていいと思うんだ」

 橋本君が、たたみかけてきた。

「そうそう、学校だけが人生じゃないんだし」

 おそらく誰かに言うように仕向けられた言葉を、僕はぼんやりと受け止めていた。頭の中は朦朧としていて、情報処理ができなかった。僕が暴発した時のために、またしても室外には二人の仮面が待機していたが、僕は心配ご無用ですよと声をかけたかった。

 早田由希子は、何も言わなかった。ただ彫像のような美しい顔が、曇っていることはわかった。けれども彼女の真意は、つかめなかった。

 僕は、恋焦がれている女性の前で、かつての友人たちに痛罵され続けた。

 僕は帰宅しても、玄関を入る気が起きなかった。狭い庭の片隅にぺたんと座り嗚咽し、やがて放心した。空には星が見えたが、やはり色はなかった。

 その間、僕のモバイルには、幾度も着信があった。祖母からだったが、出ることはできなかった。話をすることが怖かった。

 午後十時前に、ようやく玄関の戸を開けることができた。祖母は、リビングで立ちつくしたまま、夕食を待ってくれていた。僕は、その足元にうずくまった。

「もう学校を辞める」

 祖母の意識は一瞬、遠のいたようだった。その身体は揺らいだが、何とか姿勢を保った。叱るべきか、なだめるべきか、心情を聞くだけにするか、ひどく迷っている様子だった。

 しばらくして祖母は、床にそろそろと腰を下ろした。盗聴器のことなど、どうでもよくなったらしく、普通に話しかけてきた。

「鴻、私はあなたの親じゃない。そういうことは、お母さんが帰ってきてから、よくよく相談すればいいのよ」

 僕は、いらついた。責任逃れにしか受け取れなかった。

「母さんが帰ってくるなんて、どうしてわかる」

 祖母は、ゆっくりと頭を振った。

「絶対に帰ってくる」

 僕は、気休めはほどほどにしてよと思った。もし遺体になって帰ってきても、それは帰ったことにならないと祖母に言おうとしたが、さすがに口にはできなかった。

 そのかわり僕は、ずるい一言を発した。

「父さんは、帰ってこない」

 祖母は言葉に窮するかと思ったが、静かな表情で言った。

「いや、お前のお父さんは帰ってきているよ」

 遺骨すら返されていないのに、何を言うのかと訝しかった。祖母は、夢見るように続けた。

「お父さんもお祖父さんも、お前とともにいる」

 僕は、耳をふさぎたくなった。二人が、血まみれの亡霊と化して、家中をさまよっている姿が心に浮かんだ。あまりにおぞましく、想像することに耐えられなかった。

「もう、やめてよ」

 祖母は、しかし続けた。

「若い頃は、人間は死んだら完全になくなるものだと信じていたよ。でも今は違う。善い心は、消えたり滅びたりしない。光や土や水に溶け込んで、ここに、ずっとずっと残っていると思うよ」

 僕は、戯言に付き合っている暇はないと思った。祖母を振り切るように、風呂に入った。依然として食欲はなかったので、スポーツドリンクで腹を満たして、部屋にこもった。

 眠りは、途切れ途切れだった。真夜中、祖母が階下でなにやらごそごそやっていた。僕は、それにも腹が立った。

 退学してどうなるのだろうと、改めて考えた。一生、家で服を縫えばいいのだと自分に言い聞かせた。なぜか吹っ切れた気分には、なった。

 翌朝、僕は強い口調で宣言した。

「絶対に退学すると言うからな」

 祖母は、無言だった。

 僕は誰にも会いたくないので、山道を進み、裏口から学校に入った。始業前、廊下で担任の北川を待ち、退学の意思を伝えた。僕が、本当に憔悴して見えたのだろう、彼女の口調は意外に柔らかいものだった。

「そう。これから授業だから、図書室で待っていて。お昼には、話は聞いてあげるから」

 僕が図書室に行くと、すぐに仮面が監視に付いた。時間をつぶそうと、幾冊か手にしたが、写真からも絵からも色は感じられなかった。僕は医者に診てもらうべきだと思ったが、おカネのことが頭を過った。

 昼休みになって北川と校長、五太夫美禰が現れた。狭い司書室に移るや否や、北川は、いきなり白々しく訊いてきた。

「野口君、どうして学校を辞めたいなんて言うの」

 僕は、なげやりな気持ちだった。

「能力的に付いていけないので」

 その言葉を心ならずも発した途端、僕の背骨が折れた気がした。同時に涙と鼻水が、溢れ出た。

 美禰が、ぞっとする一言を浴びせてきた。

「自分に能力があると思っていたの」

 さらに彼女は、容赦なく続けた。

「能力がないなら、努力しなさいよ。ねえ、野口君が努力するなら学校にいてもいいんだよ」

 僕は、その言葉の意味をまったく理解できなかった。

 北川は、少しは同情を示して問うてきた。

「辞めてどうするの」

「家で服を縫います」

 美禰が、からからと笑った。

「鼻水のついた服は、ノーグッドよ」

 さすがに校長も苦々しい表情になった。このままいたぶりが続くのは避けようとしたのだろう、早口で提案してきた。

「ここは休学ということで、どうでしょう。最大、来年三月まで」

 美禰は、悪くないねという感じで首を縦に振った。北川も同意した。校長は、手回しよく休学届を用意していた。僕は、早速、記入しながら訊いた。

「保護者の署名は、どうすれば。今、家には祖母しかいません」

 美禰は、にこやかに答えた。

「竪場のお母さんに署名してもらうわ。すぐに手配します」

 僕は呆然となり、そのまま学校を後にした。

 帰宅して祖母に、休学を告げた。祖母は、胸をなでおろしたようだった。

「そう、また元気になれば、行けばいいよ」

 僕は、その日から二日間、ほとんど眠って過ごした。その間、やはり水分しか摂れなかった。

 三日目、ようやく起き上がることができた。祖母は、強いて微笑んだ。

「さあ、病院に行きましょ」

 祖母は手押し車を頼りに、よちよちと歩いた。僕は空気にすがりつくようにして、祖母に付いていった、

 町立病院では、まずは問診を受けた。医師は、何でも話してくれていい、自分には守秘義務があるからと言ったが、僕は額面通りに受け取らなかった。必ず五太夫に筒抜けになるはずだ。僕は、適当にはぐらかして答えた。

 僕は、向精神薬を処方された。祖母は、以前から服用している高血圧の薬を受け取った。本当におカネのことが気がかりだったが、祖母には切り出せなかった。

 薬は、実によく効いた。服用すると眠気を覚え、実際に三十分ほど眠ることがある。けれども、その後は元気が出る。

 翌日、ようやく僕は昼、うどんを食べることができた。かまぼこや葱の色が、はっきりとわかった。僕は思わず、叫んでいた。

「お祖母ちゃん、色が見えるよ、味もする」

 祖母は、満面の笑みを浮かべた。

「そうか、よかった。よく効くね。どんな薬なの」

 処方箋には、スルピパドンとあった。祖母は言った。

「怪獣みたいな名前」

 それは冗談めかしてではなく、不安を覚えたような口ぶりだった。ただ祖母は、医師や薬を疑ってはいけないと信じ込んでいた。現に高血圧の薬は、よく効いていると信仰に近い褒めっぷりだった。

 僕は、町内ネットでスルピパドンを検索した。それによると五太夫メディカルが開発した薬で、鬱状態に極めて有効だということだ。一時に大量に服用すれば、幻覚や気分の異常昂進などの副作用が現れる場合があるが、処方に従えば、まったく問題はないとされていた。

 その時、夏休みに見た仙隋山頂付近の衛星写真を思い出した。山頂の下に池があった。確か杏仁池といった。

 薬の影響だろう、噴き出る水のように、過去の記憶が湧きだしてきた。僕が五歳の時の家族の会話が、生き生きと脳裏に浮かびだしてきた。

 

 二月末のこと、ひどく寒い日だった。父は珍しく早く帰り、夜は鍋を皆で囲んでいた。

 母が何気なく、口にした。近所に住んでいる、徳島から転勤してきた女性から聞いたという。

 それによると、阿波の山奥に人跡未踏のような所があって、そこに広くはないが、気味の悪い緑色をした深そうな池があるという。彼女の祖父が若い頃、たまたまそこを通りかかったそうだ。

 母は、声をひそめた。

「ねえ、池に何がいたと思う」

 父は、乗り気ではなさそうだった。

「河童か」

 姉が、けたたましく叫んだ。

「ゴ、ジ、ラ」

 僕は、姉に反論していた。

「姉ちゃん、そんなもん、いるわけないだろ」

 姉は、むくれた。

「鴻ちゃん、あんたは冗談がわからないの」

 母は、僕たちの口論には構わず言った。

「畳二畳ほどある、大きな魚が浮かんでいたというのよ。鱗は銀色だったって。その人のお祖父さんは、転びながら逃げたって」

 父も興味を示しだした。

「鯉じゃないか。けっこう大きくなるという。それに鯉は、獰猛らしい」

 祖母が、昔を懐かしむかのように静かに語りはじめた。

「お祖父さんが言ってた。仙隋山のてっぺんから、ちょっと下ったところに一反ほどの広さの池があって、行ったことがあるって」

 姉が、訊いた。

「一反て何」

 僕は、姉に教えてあげたつもりだった。

「一反木綿だよ、姉ちゃん」

 姉は、怒った。

「それは妖怪でしょ。今は広さの単位のことを質問してるの」

 その頃の僕に、単位と言われても理解できるはずがない。父が解説してくれた。

「一反は、だいたい縦横とも三十メートルくらいの広さのことだ」

 姉は勝ち誇ったように僕を見たが、僕には、ちんぷんかんぷんだった。

 祖母は、話を再開した。

「その池は、杏仁池というんだそう。昔から池があることはわかっていたけど、五太夫さんの敷地の中なので、ほとんど誰も見たことがないって」

 かつて当家では、五太夫さんと敬称で呼んでいたのだ。

「お祖父さんは、中学の卒業式の後、友だちと行ったって。昔は子供は、他人様の庭に勝手に入って、遊んでいたものだよ」

 父が、ちょっかいを入れた。

「それって、もっと昔のことじゃないの」

 祖母は、それもそうだねと苦笑した後、語り続けたが、次第に真顔になっていった。

 祖父は友人と、鬱蒼とした原生林に覆われた山肌を這いあがり、夕方近くになって、やっと杏仁池にたどり着いた。北から近づいていったのは、正解だった。東と南は三十メートルほどの高さの絶壁で塞がれ、西は下りの急斜面で灌木が密生していた。

 池はほぼ円形で、北側にだけ貧弱な砂地があり、そこには大きくはない岩が、ごろごろしていた。そこに足を踏み入れると、急に黒い雲が太陽を隠し、あたりは暗くなった。風が出てきて、水面は波立ちだした。

 さすがに気味が悪くなってきて、帰ろうとしたその時、突然、音もなく西側の崖に大きな穴が開いた。そこから小ぶりな海賊船が現れた。

 父は、疑り深そうだった。

「おれの父さん、酔ってたんじゃないか」

 祖母は、澄まして答えた。

「私もそう言ったの。すると怒られた。いくらなんでも中学の時から、飲んでないって」

 姉が、せがんだ。

「ねえ、お祖母ちゃん、その後、どうなったの」

 祖母は,怪談話をする落語家のような口調になった。

「船には三、四人、乗っていたそう。お祖父さんらは見つかって、ライフル銃を向けられたって。撃ってはこなかったけど。お祖父さんは、友だちと縺れあうようにして逃げたって」

 帰宅は夜遅くになり、服は土まみれ、手のひらは血だらけだったが、祖父は本当のことは言わなかったそうだ。

 父の眉間にしわが寄っていた。

「そりゃ言えないよな。やばそうな話だから」

 祖母は、さらに声を低めた。

「それだけならいいけど、逃げようと振り向いたら、林の中に変なものを見たんだって」

 母は、けっこう熱くなっていた。

「何を見たんです」

「胴の太さが人の背丈ほどもある蛇、のような生き物」

 皆、ぞっとして顔を見合わせた。父は、ためらいながらも笑い飛ばそうとした。

「蛇は、ないと思うなあ。そんなに太かったら、長さが百メートルくらいあるんじゃないの。ありえないよ」

 祖母は、じれったそうだった。

「だから蛇に似た何かなのよ」

 母が、ためらいがちに訊いた。

「そんな面白い話を、お父さんは、どうして広めなかったんでしょう」

 祖母は、咳ばらいをした。

「一緒に行った友だちが、その晩、近所の人に話したそう。すると明け方、その家から火が出て、一家全員、亡くなったそう」

 父は、深刻な表情になった。

「父さんは、どうして無事だったの」

 祖母は、沈痛な面持ちになった。

「お祖父さんによれば、その友だちが、ひとりで言ったように言ってくれたからじゃないかと」

 祖父は亡くなるまで、折に触れ、ひそかにその友人の墓参をしていたという。

 しかし、この話題も数日後には、祖母以外の者にとっては、祖父の与太話ということで落ち着いた。





 




 

 

 



 


 


 

 





 

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