5 夏休み:ラスボスのルーツをたどり、杏仁池を知る
翌朝、目覚めるとパソコンに学校からメールが来ていた。
冒頭に、たとえ夏休み期間に入っても停学中につき、家の用事以外の外出は差し控えよ、他者との連絡は必要以外は禁止するとある。日々の行動計画を事前に申請し、一日の終わりに結果を報告しなければならない。トイレ以外は、すべて記入せよということだ。
学業課題は、同時に送られてきた。完遂しない場合は、停学処分の延長もあり得るとの脅し文句が添えられていた。加えて特別課題として五太夫家が、琴浦町に為した貢献について、一万字以上でまとめよとあった。
すでに祖母は起床していて、洗濯機が動く音がした。リビングでは、炊飯器から白い湯気が上がっていることだろう。
僕は本日の行動計画を送信すると、階段を下りた。
祖母は関節が硬直しかけているのだが、その日は、とりわけ調子が悪いようだった。僕が顔を見せると、冷蔵庫に体を預けるようにして立っていた。祖母は、強いて笑顔をつくり声をかけてきた。
「鴻、お食べ」
朝食は、油揚げの汁と佃煮だった。僕は、おずおずと祖母に申し出た。
「お祖母ちゃん、僕は家のことをするよ。洗濯とかご飯を炊いたりとか、掃除くらいならできる」
祖母は、わざとらしく厳しい表情になった。
「お前は、勉強をしなくちゃならないよ」
僕は、思わず口答えをしていた。
「勉強なんて、何の役にも立たないよ」
祖母は、ようやく椅子に座ると、噛んで含めるように言った。
「勉強をすれば、偉い人になれるかもしれないよ。お金儲けもできるかもしれないよ」
僕は、いらいらして反論した。
「じゃ、父さんは勉強をしなかったのか。母さんだって昼間、働いて、夜、大学に行ったんだろ。でも今は、このざま。勉強しても、意味がないと思う」
祖母は少しばかり感情を露わにして、キッチンペーパーに走り書きをして、僕に突き付けてきた。そこには、こうあった。
「外に出られないと思っているようだが、それは今だけのこと。こんなことが、いつまでも続くわけがない」
直後、祖母は、それを書いたことを後悔したようだった。それは町の体制の崩壊、つまり五太夫の支配の終焉を指し示しているからだ。
祖母は、何かを知っているのだろうか。僕は、ためらいながら訊いた。
「お祖母ちゃん、それってどういうこと」
祖母の一文は、単なる願望だったようで、何でもないと首を横に振り、ペーパーを慎重に廃棄した。妙な沈黙が、しばし続いた。それは言うべきか、書くべきかという変な葛藤のせいかもしれないと思った。
ものが自由に言えないということが、これほど面倒なことだとは、考えたこともなかった。
祖母は、ようやく口を開き、自らに言い含めるように言葉を発した。
「鴻、私は年をとったし、身体がいうことをきかなくなってきたの。頭も、ぼけてきた感じがする。だけど仕事はしなくちゃならない。ほかに誰もいないのだから。
そのかわり鴻には、大学に行って、少しでもいい暮らしをしてほしいの」
僕は、その言葉の裏を感じ取った。当面は貯えもあるし、祖母も働けるから心配するなというのだ。けれども自分が弱り切り、母が戻って来ないとなると、大変なことになると気に病んでいるのだ。
僕は、努めて明るく言った。
「バイトしようか。家でもできるのが、あるかもしれない」
祖母の視線は、しばらく宙をさまよったが、やがて意を決したように言った。
「停学中は無理でしょ」
祖母は、感情を押し殺して続けた。
「ねえ、これだけは聞いて」
僕は、居住まいを正さざるを得なかった。
「資産もないし高い家柄でもないし、コネもない、スポーツや音楽の天才でもない、大声で他人を脅したり、人の道を平然と外したりすることができない人間は、とにかく勉強して、知識や資格や技術を身に付けるしか生きるすべはないのよ」
祖母の声は、しまいには震えていた。それは、真っ当な世の中ではないとわかっていて、孫にそれに追従せよと言わざるを得ない口惜しさの表れだった。
僕は、反論したかった。いくら勉強をしても、資産や家柄やコネを持っていたり、大声を出すことができたり、人の道を平然と踏み外せる人間には、かなわないのだと。けれども口には出せなかった。
祖母は、ぽつんと言った。
「でも鴻、お前の言い分はわかりました。掃除はしてちょうだい。昼ごはんだけは、作って。お願い」
僕は、いざ、そう言われると困った。
「偉そうに言ったけど、ラーメンと焼きそばくらいしか作れない。カレーは、なんとかできると思う。まずは料理の勉強をするよ」
祖母は微笑んだ。
「私は、ラーメンや焼きそばで十分。ご飯と漬物だけでもいいわ」
「じゃ、今日の昼は、ご飯と梅干とインスタントの味噌汁だけで、いいかな」
祖母は、おどけて言った。
「上等、上等。夜は、麻婆豆腐を作ってあげる」
それから祖母は、真剣な眼差しになってミシンに向かった。彼女は、そのコトコトという音と半世紀以上を共にしてきたのだ。
自分の無力さが、どうしようもないほど胸に沁みた。自室に戻ると、僕は祖父と父、そして母と姉に向けて、心の中で手を合わせた。母と姉は存命しているが、もはやこの世の人ではない気がしてきたのだ。
僕は、ひどく禁欲的な毎日を過ごした。朝は六時に起床し、朝食後は掃除をする。その頃には、祖母は仕事を始めている。
僕は、学業の課題の取り組む。その上に、おそらく罰として与えられた特別課題、五太夫家と琴浦町についてのレポート作成にも勤しむ。昼前の近所のスーパーに行く。祖母の注文に従って、食材や日用品を買いそろえる。帰ると、正午に間に合うように簡単な料理を作る。
祖母は、何でもおいしい、おいしいと言って食べてくれ、すぐにミシンに向かう。そんな毎日が続いた。
僕は、町内ネットで調べるにつれ、五太夫家に興味を持つようになった。
五太夫家は、菅原道真の側近であった白太夫こと味酒安行の子孫だという。道真の大宰府配流の折、一行はこの地に立ち寄った。その際、白太夫は地元の女性と懇ろになり、産まれた子が五太夫家の始祖だという。
嘘に決まっていたが、こういう嘘はあってもいいかなと思った。なお白太夫と味酒安行の読みは、僕のなかではシロダユウとマサケノヤスユキだ。
時は下り、鎌倉時代のこと。この地の、大昔は小島だった
それ以来、五太夫は、琴浦の盟主として君臨することになった。時代は移り変わったが、五太夫は、あらゆる手練手管を用いて、しぶとく生き残った。
江戸時代には、五太夫は大庄屋となり塩田を開発し、棉の栽培を始め、ついには繊維産業を興す。真田紐、足袋にはじまり学生服と軍服、次いでジーンズとスポーツウェア、作業服に手を伸ばし、市場を席巻することになる。それらを世界中に売りさばくために五太夫商事が、設立された。
五太夫は、関連する染色分野にも進出する。それは国内有数の化学企業、五太夫ケミカルとなる。また炭素繊維分野にも手を広げ、五太夫カーボンは世界中の先端機器で使用されている。
現在、五太夫一族とその配下は、日本の政界、官界、学界にそれとなく食い込んでいて、五太夫家を維持するため、ありとあらゆる工作をしているようだ。
その本家は、仙隋山頂にある。麓の五太夫本社からその真下まで、二車線のトンネルが貫通している。そこから山頂まで、車ごと高速エレベーターで上がれるということだ。かつては山頂まで道が通じていたそうだが、今では意図的に封鎖されているという。
五太夫家は、衛星写真で捉えられていた。周囲を鬱蒼とした森林で覆われた、昔風の日本家屋が見て取れた。脇には、ヘリポートがあり、同時に数機は離発着できそうだ。一見、居宅は大きくないが、実は本体は、その地下にあるらしい。そのことは、五太夫家に招かれたことのある俳人の随想で知った。
それによると五層に及ぶ地下邸宅で、三十人ほどが、数年は生活できる設備と備蓄があるという。水は地下深くから汲みあげ、じゃが芋と野菜と卵、そして電力は自給できる。高級な酒が数万本あり、飲み放題だったとか。
表に現れている家屋は断崖の上にあったが、そこから西側に少し下ったところに鈍い光りが見えた。池のようだ。杏の種の形をしている。それは、
その名は、どこかで聞いた覚えがあるが、その時は思い出せなかった。
間違いなくログは追跡されているので、危険な感じはしたが、町内ネットでの検索であり、特別課題の下調べをしていましたと言えば、文句はつけられないだろうと思った。
僕は、ありきたりの課題はさっさと済ませ、特別課題のレポート作成に日々、没頭した。
お盆が迫ってきた。祖母は、その間だけは休むと言った。どうせ五太夫も休みで、発注は来ない。
旧暦の迎え日の前日だった。早朝、祖母と共に墓掃除に行こうとすると、二人連れの仮面が玄関先に現れた。僕たちは身構えたが、先方はおっとりと手を振った。ひとりが皮肉っぽく訊いてきた。
「宿題は、進んでいるかな」
僕は、強いて堂々と答えた。
「はい、順調です」
「これから行動計画にあった墓参りだね」
「そうです」
学校に送った行動計画は、当然ながら仮面にも共有されていたのだ。
祖母は憤りを悟られないように、わざとのんびりした口調で言った。
「あなた方も、一緒にどうですか」
仮面は、表情を緩めたような気がした。
「もちろん、お付き合いしますよ」
僕は、水で満たした容器と熊手を持った。祖母は、お花を手押し車の籠に入れた。祖母は、手押し車がないと出歩くことができない。
仮面を伴い、歩くこと十分あまりで墓所に着いた。すぐさま祖母と僕は、黙々と落葉を掃き出し、草を抜いた。仮面は、その様子にある種の感銘は受けたようである。どちらの仮面の発したものかは定かでないが、申し出があった。
「何かお手伝いしましょうか」
祖母は、よろめきながら墓前に花を手向けつつ答えた。
「よろしいです。それより息子の葬式をしてやりたいのですが」
二人の仮面は、顔を見合わせた。またしてもどちらの声か判然としないが、珍しいことに返事が返ってきた。
「お気持ちは、よくわかります。上の許可待ちです」
祖母の身体は、わずかに震えた。
「そうですか」
居心地が悪くなったのか、仮面は、敬礼をすると逃げるように立ち去った。
祖母は、皮肉まじりに独り言を口にした。
「優しい仮面もいるものだね」
帰り道、祖母と僕は無言だった。家に入ると祖母は、ひどく疲れた様子で、そのまま自分の部屋で横になった。僕は、ままごとのような食事を作ったが、祖母は昼も夜も喉を通らないと言って、水だけを飲み、えんえんと眠った。
お盆の間中、祖母はそんな風だった。
祖母は死んではいない、生きている。けれども、ささやかな望みすら奪われた人間は、この世にないと同然だと僕は知った。
お盆が明け、祖母は再びミシンに向かった。その雰囲気は、もはやロボットのようだった。どこからか五太夫司城の声が、聞こえたような気がした。働け、死ぬまで働け、いや死んでも働け、五太夫のために。
その頃から
田頭は、祖母を車に乗せ出かけることもあった。ある時、帰宅したばかりの祖母に訊いた。
「どこに行ってたの」
祖母は僕と目を合わせようとせず、答えた。
「役場と銀行よ」
僕は、不審の念を抱いたが、口にはしなかった。
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