4 期末試験:陥れられた少年は、ラスボスと邂逅する

 何か悪いことが起きそうで気は滅入っていたが、翌日、覚悟を決めて期末試験の初日に登校した。すぐに校長室に呼び出された。校長は、おはようともご愁傷様とも言わず、いきなり訊いてきた。

「お父さんの葬儀の日取りは、決まりましたか」

 僕は、遺骨が返還されていないことを報告し、まだ決まっていませんと答えるしかなかった。

 校長は、唖然とした表情をつくり、吐き捨てた。

「呑気なことだ」

 僕は、あらかじめそのような反応を想定していたので、それほど動揺はしなかった。ただ父が罪人、咎人として扱われていることは、ひしひしと伝わってきた。

 校長は、投げやりな感じで言葉を発した。

「もうすぐ試験が始まりますから、これで終わりにしましょうか」

 教室に入ると、皆の寒々しい視線が、僕を貫くような気がした。

 五太夫美禰は、意地悪そうな含み笑いをしながら、僕を睨みつけた。早田由希子は、下を向いたままだ。

 一時限目は、国語だった。配付された問題を一読して驚いた。「五太夫奉公記」という、明治末期に書かれた五太夫の元幹部の回想録が題材だった。五太夫を礼賛する雰囲気はよくわかったが、ほぼ漢文だった。

 問題は、筆者は五太夫での「奉公」のどこに感銘を受けたのか、二千字以上で記せというものだった。とにかく途中で解読は諦めて、必死で書いたが、千字ほどで時間切れとなった。

 どうして急にこんな問題になったのだろう。正直、頭がくらくらしてきた。

 国語の試験後、校医に呼び出された。休憩は十分しかない。僕は焦っていたが、校医はのんびりしたものだ。

「気分の落ち込みはないですか。意欲の減退は、ありませんか」

 僕は、どの問いにもあると答えた。一昨日、父が亡くなったばかりなのだ。そんなことを訊くなよと思った。もう二時限目が、はじまろうとしていた。僕は、なおも無意味な質問を重ねてこようとする校医を振り切るようにして、教室に戻った。

 途端に、副担任の男性教師の怒声を浴びた。

「馬鹿者、定刻には着席しておくべきだろ。たった五秒でも、遅刻は遅刻だ。試験なんだから、皆に謝れよ。自分はクズだって」

 僕は、それほど衝撃は受けなかった。歯向かおうとも思わなかった。罵られても耐えればいいのだ。僕は、頭を下げ、すいませんでしたと言った。ひとまず、その場は収まった。

 二時限目の試験科目は、総合社会だった。バブル以降の日本経済が、出題されるはずだったが、当ては外れた。メインの問題は、五太夫商事の財務諸表が示され、そこから読み取れる経営課題について記述せよというものだった。

 これも、まったくの新機軸だった。昨日、僕が休んでいる日に、そのような授業が行われたのだろうか。なにせ僕には、企業会計の知識がない。専門用語の意味が理解できず、惨敗だった。

 休憩時間、落ち込んでいたが、僕を罵った男性教師に別室に呼び出された。待っていたのは、露骨なまでに攻撃的な説教だった。

「野口、お前のお祖父さんは、大酒を飲んだ揚句、大阪で轢き逃げされた。お前のお父さんは、会社でしくじって自殺した。気の毒なことだ。でもな、お前にそんなふうになってほしくないんだ。きちんとした人生は、時間厳守が根本だ」

 彼は、一息ついた。

「遅刻は、ひどい罪なんだよ」

 僕の頭は、混乱の極みにあった。初めて聞いたことばかりだ。祖父は酒嫌いではなかったが、体質的にアルコールに弱く、泥酔するほどは飲めなかったと耳にしている。父が、会社で自殺せざるを得ないほどのミスをしたとは、あるわけないと思った。

 僕は、そのことは正直に落ち着いて彼に伝えた。

 副担任の教師は、かなり狼狽した様子だったが、とにかく劣勢に立ってはいけないと思ったのだろう、激昂して見せた。

「口答えをするな、この野郎」

 三時限目の始まりを告げるチャイムが、鳴りだした。僕は教室に急いだ。今度はチャイムが鳴り終わる前に着席できた。事無きかと安心していたら、担任の北川という女性教師に責められた。

「一分前に着席という決まりでしょう」

 副担任に意味もなく、呼び止められていたのだ。またしても無茶な言い分だと感じたが、僕は何も言いたくなかった。

 三時限目は、外国語の試験だった。英語、中国語、スペイン語の中からひとつを選択して受ける。問題用紙、答案用紙、リスニング用の機器が配付された。

 僕は仰天した。僕は英語を履修しているのに、スペイン語の一式が机の上にあるのだ。スペイン語なんてセニョール、セニョリータしか知らない。

 僕は配付間違いと信じ込んで、挙手をした。

「先生、スペイン語のセットが来ました」

 北川は、予測していたようで、平然と、しかも眠たそうに答えた。

「あなたは、それでいいの」

「でも僕は、英語を取っているんです」

 北川は、のんびりとした口調だが、言い放った。

「学習って、自ら進んでするものじゃないかしら。野口君がスペイン語を勉強していないのは、あなたの勝手、あなたの責任」

 僕は、遅まきながら気づいた。これまでの試験は、僕専用に作られ、僕だけに配られたものだったのだ。

 全身がかっと熱くなり、おびただしい汗が噴き出てきた。

 北川は、勝ち誇ったように言った。

「試験を受ける気がないなら、出て行ってもいいのよ」

 僕は、荒々しく席を立った。クラス全員の眼差しが、僕に注がれた。僕の席は教室の中ほどだったが、背中にも視線が突き刺さってきたのを感じた。僕に対する同情は、皆無のように思えた。

 僕の斜め前の席にいる早田由希子は、ひたすら下を向いていたが、心の救いにはならなかった。

 五太夫美禰の濁った声が、教室に響き渡った。

「先生、試験の時間がなくなってしまいます。早くなんとかしてください」

 北川は、うろたえきって、反射的に教卓脇のボタンを押した。何秒もしない内に、二人の仮面が教室に躍り込んできた。仮面は、学校の治安維持のため常駐している。

「何が、あったのです」

 北川は応答を躊躇していたが、美禰が僕を指さし、仮面に命じた。

「そこの人を出して。試験妨害よ」

 僕は、仮面に両腕をねじり上げられて、廊下に引きずり出された。

 美禰が、けたたましく笑いながら、大声を張り上げていた。

「まるで野犬狩りにあった野良犬みたいね。でも犬って、あんなに汗をかかないよね。みっともないよね」

 爆笑が、僕の心を萎えさせた。僕は、汗っかきの野良犬なのだと刻印を押されたような気がした。

 僕は、仮面に校庭の片隅に連れていかれた。そこはブロック塀と倉庫で囲まれていて、校外からの目は届かない。

 いきなり、ひとりの仮面に背後から羽交い絞めにされた。直後、もうひとりの仮面の拳が、意外なほどゆっくりと顔面に迫ってきた。それは左目の下に当たった。

 僕は、仮面の強化服の威力を思い知った。仮面にとっては軽く触れたくらいの感じなのだろうが、左目は一瞬にして見えなくなり、鼻血があふれ出た。血は喉に流れ込み、その金属的な味に全身から力が一気に抜けた。

 次の一撃は、みぞおちに入った。たちまち胃液が食道を駆け上ってきて、血と混じりあって口から噴き出た。仮面は、蔑むように言った。

「汚ねえ奴だ」

 羽交い絞めは解かれ、僕は地面に崩れ落ちた。なおも僕を殴った仮面は容赦してくれず、横たわった僕のこめかみに右足を乗せて、いつでも頭を砕くことができるぞと言わんばかりに睨み下ろすのだった。

 僕を羽交い絞めにしていた仮面が、グローブを外し、僕の全身を点検した。感嘆したように、もうひとりに言った。

「お前、すごいな。骨折していない。手加減上手だな」

「ありがとうございます。先輩」

 先輩と呼ばれた仮面は、ひざまずき僕に語りかけてきた。

「本当にお前の一家は、どうしようもない奴らばかりだ。無能のくせにさ。五太夫さんから給料をもらって、生活してきたわけだろう。要するに五太夫さんにたかってきたわけだ」

 その仮面は、うきうきした口調で続けた。

「なのに、お前の祖父さんは企業機密をライバルに売り渡そうとした。轢き逃げされて当然だ。天罰だよ」

 その言葉は、雑音のように耳に達した。心は、何も聞くまいとしていた。しかし仮面の言葉は、容赦なく鼓膜を震動させた。

「そこでお前の親父は、クビになって町外追放されてもよかったんだが、五太夫さんの温情で雇ってもらっていたんだぞ。なのに、なのに会社のカネを使い込んだんだ。横領だよ、横領」

 僕を踏みにじっていた仮面が、せせら笑った。

「先輩、こんな馬鹿に横領なんて言葉は、わからんでしょう」

 僕の脳は、困惑のあまり破裂しそうだった。祖父が企業機密を売ろうとしていたこと、父が会社のカネを使い込んだこと、それらは初耳だった。先ほどの副担任の話とも矛盾している。一体、何が本当のことなのだろう。

 先輩と呼ばれた仮面は、言葉を続けた。

「お前の母ちゃんは、使い込みのことを知らなかったと供述しているそうだ。そりゃそうかも。知っていたら、貧乏暮らしを抜け出して、少しはまともに暮らしているよな」

 二人の仮面は、声を上げて笑った。僕は、悔しいとも悲しいとも名付け難い感情で満たされた。それは、怒りですらなかった。虚しさ、諦観というのが、ごく近いような気がした。

 涙が、おびただしく溢れた。これから涙とともに生きなければならないのだろうか。暗い予感が、身体の隅々に行きわたった。

 僕を踏みにじっていた仮面が、珍しいものを見たような口調で言った。

「あれ、こいつ、泣いてますよ」

 鼻血と鼻水と胃液の混じりあった粘っこいものが、喉を刺戟し続けるので、僕はひどく咳き込んだ。お構いなしに先輩と呼ばれた仮面は、しゃべるのだった。だんだん感情が蒸発して、コールセンターの自動音声のような不気味さが、露わになってくるのだった。

「お前の親父の使い込みを家族が知らなかったということになると、では、カネはどこに行ったんだということになる。おそらく闇賭博か、愛人か、風俗に流れたんだろうね。高松に密航船で行って、カジノやソープで大盤振る舞いしたんじゃないのか」

 もう一人が、それを継いだ。

「お前は、そういう不埒な遺伝子を受け継いでいるんだ。だから試験妨害なんて、恥知らずなことをしたんだ」


 つい先日まで夏は来るのかと案じられたが、やはり夏は来た。それも一気に来た。

 気温は、三十五度を超えていたことだろう。汗が目に入ってきて、痛みとともに視界がかすんできた。同時に僕の意識は、遠のいていった。この様子を見て、学校で死人が出たらさすがに問題だと、仮面は判断したのだろう。

 僕は無理やり立たされ、医務室に放り込まれた。ベッドではなく、床にシーツを敷いて横たえられた。そこは冷房は効いていなかったが、床は冷たかった。少し生き返った感じがした。

 高齢の不愛想な女性保険師が、僕の上半身を裸にし、雑巾のようなタオルで血や胃液や汗や涙をごしごしと拭き取った。それから適当に消毒薬を塗りたくるのだった。その行為は、職業意識や親切心に基づくものではないことは明らかだった。

 なぜなら彼女は、どうしようもない生徒だと僕を小声で罵りながら、いわばクリーニングをしていたからである。

 チャイムの音が聞えた。三時限目の試験が、終わったのだ。これで生徒は帰宅ということになる。僕も帰りたかった。けれども体力は残っていたが、気力は尽きた感じで起き上がることは、できそうになかった。

 突然、おそらく先ほどの二人連れの仮面がやって来て、強制的に立たされた。そのまま両脇を支えられ、校長室に連れて行かれた。

 それほど広くない部屋で校長、副校長、学年主任、担任、副担任、事務長、そして生徒会長の五太夫美禰が、それぞれ硬かったり嘲るようだったり、さまざまな表情で立っている。

 普段、校長が使用しているイタリア製の椅子には、五十歳くらいの男が、悠然と腰を下ろしていた。

 その男には見覚えがあった。美禰の父親であり、この町の最高にして絶対的な権力者、五太夫グループの総帥である五太夫司城ごだゆうしじょうだった。

 彼は小柄で、若々しいというより、子供がそのまま大人になったような感じだった。全体にぬめっとしていて、目と目の間がいくぶん離れていて、まるでおたまじゃくしのような印象を受けた。

 意外にもクロスボウの名手で、世界大会での優勝歴もあるという。

 司城という名は、至上、あるいは史上最高に通じる。彼は、幼い頃から、自分は至高の存在であると信じさせられて育ったのだろう。それなりに品はある。しかし、どこかチンピラのような雰囲気もするのだった。

 イッキ前、家族そろって倉敷のショッピングモールに行ったことがある。国中に不穏な空気が満ちていたが、自由にどこにでも行けた、懐かしい時代だ。そこのフードコートの片隅で食事をしながら、父は言った。

「司城は、自分が法だと信じているんだよ」

 中学に上がったばかりの僕に、そのような意味がわかるはずもないが、お構いなく父は続けた。祖母も母も姉も、父の唐突な発言にたじろいでいた。五太夫の悪口は言うなと命じた父だが、よほど腹に据えかねたことがあったのだろう。

「あいつはね、どれほど好き勝手をして、どれほど判断を誤り、結果としてどれほど人が苦しんだり悲しんだりしても、あるいは会社が損をしても、自分は悪くない、自分には責任はない」

 父は、そこで声を落としたが、強い口調でなおも続けた。

「悪いのは実行した奴だ、自分は指示命令などしていない、実行した奴が独断でしたのであり、そいつが無能だから失敗したのだとためらいなく言え、しかもそれを誰からもどこからも非難もされず批判もされないのは、世界中であいつくらいのものだろう」

 僕は父が遺した言葉を、胸の内で反芻していた。司城の指示待ちなのか、誰も何も言おうとしない。時間だけが、過ぎていった。

 ようやく司城が、「まだですかあ」とばかりに校長に目配せした。

 校長は、焦って口を開いた。再び自動音声のような言い方を聞くことになった。

「野口鴻、君を本日から八月二十五日、つまり二学期の始業日の前日まで停学処分とします。ただし日々の行動報告をすること。メールで事務長さん宛に送ってください。フォーマットは明日朝には、送信しておきます」

 校長は、一息つき続けた。

「夏休みの学業の課題は、北川先生から近日中に送信していただきます。また別途、特別課題を与えるので必ず完遂すること。以上」

 美禰が、慈悲深そうに言った。

「良かったね、野口君。期末試験は零点だけど、退学にはならないし、停学といっても夏休み期間だから問題なしじゃない。でも進級には差し支える、かもね」

 担任の北川は、美禰を横目で見て、かすかに溜息をついたような気がした。さすがに良心がいたんだのだろうか。

 校長は司城に、これでよろしいでしょうかと言いたそうに、顔を向けた。司城は、迷惑そうな素振りを示した。

「私は部外者ですよ。今日は、娘を迎えに寄っただけですから」

 美禰は、校長に甘えるように言った。

「先生、帰ってよろしいでしょうか」

 校長は、直立不動で応じた。

「気が付きませんで、失礼しました。もちろん、よろしいですとも。試験期間中に、このようなことにお付き合いいただき、まことに申し訳ございませんでした」

 司城は、大人たいじんさを装いながら立ち上がり、校長に軽く一礼した後、白々しく言った。

「では、これで。前途ある少年に対して、温情あふれるご処分を下されたことに感銘いたしました」

 五太夫親子が去った直後、そこにいた全員が、文字通り肩の荷を下ろしたかのように姿勢を崩し、大きく息を吐きだした。臭いが部屋に充満したような気がして、僕は吐き気を覚えた。


 僕は、そのまま放免された。祖母に、どう説明しようかと考えながら、人目につかない路地を選んで、遠回りしつつ休憩しながら、ゆっくりゆっくり歩いた。

 日盛りは、死臭と狂気に満ちているような気がした。その上に夏は、秋の寂しさと冬の重々しさを予告しているように感じられた。

 帰路、出会った人たちは僕を見ると目を見開き、逃げるように通り過ぎていった。僕は、保健室の鏡で自分の姿を知っていた。顔は青く腫れあがり、白いシャツは血だらけになっていたのだ。

 すでに午後四時になろうとしていた。ようやく帰宅し玄関に入ると、無気味なほど、ひんやりとしていた。ただいまと言ったが、祖母の気配は感じられない。悪い予感がして、急いで靴を脱いだ。

 祖母は、リビングの床で横になっていた。まるで息絶えているかのようだった。おそるおそる身体を揺すると、祖母は目を開け、上半身だけ起こした。その途端、祖母は小さく悲鳴を上げた。

「鴻、どうしたの、その顔は、シャツは」

 僕は返答に困ったが、祖母は執拗に食い下がってくるので、起こったことを話さざるを得なくなった。

「僕にだけ変な問題が配られて、文句を言おうとすると、仮面に殴られ踏みつけにされた。停学になった。期末試験は受けられない」

 祖母は、それを聞くと黙り込んだ。ややあって祖母は、静かに優しく言った。

「昼ごはん、まだよね。お食べ。ごめんね、まともなものは作れなかった」

 食卓には、焼いた魚肉ソーセージと奈良漬けがあった。僕は、どんぶり飯に冷えた麦茶をいっぱい注ぎ、飢えた鮫のように食べた。奈良漬けの辛みが、口の中の傷に染みわたった。

 ようやく椅子に座ることのできた祖母は、僕の様子を見て、済まなさそうでもあるし満足そうでもある。

「夕飯は、いらないよ」

 僕は食べ終えると、言った。祖母はうなずき、真剣な表情になった。

「今日、お母さんに差し入れを持って行ったよ。でも会えなかった」

 僕は、なぜか寒気を覚えた。祖母は続けた。

「お母さんは、竪場送りになったよ」

 そして箸の先を醤油で濡らし、僕の前の空いた皿に書いた。

「さいばんなし」

 竪場こと竪場島は、タテバジマと読む。沖合三キロにある、もともと住民はいない島だ。海面にぽっかり浮かんだ鯨に見えるので、クジラジマと呼ばれることもある。

 僕は行ったことはないが、祖母は結婚したばかりのころ、近所の人と漁船をチャーターして上陸したことがあるという。松の木が群生しており、岩場に囲まれ、徒歩でも一時間もあれば、島を一周できるという。

 景色は抜群らしいが、祖母は暗い島だったと述懐したことがある。というのも大戦前の一時期には、重度の精神病者を隔離する施設があったのだ。その廃墟は、墓場以上の陰鬱さたたえていたという。

 五太夫が町の全権を掌握してからは、そこが改装され刑務所となった。五太夫は犯罪とは、自らに対する反抗と定めた。その結果、微罪どころか何もしなくても、五太夫が罪人だと主張すれば、裁判を経ず、そこに送られるのである。

 また五太夫は、刑務所にも収容率の目標達成を求めていたようだ。強制的に良からぬ労役に就かせるためだったらしい。噂では、釈放された者はいないという。だから実態は、わからないのだった。

 祖母は、話したいことは山のようにある様子だったが、強いて事務的な口調で言った。

「鴻、もう寝なさい。疲れているんだから」

 とうとう祖父が企業機密を売ろうとしていたこと、父が使い込みをしたことについては、祖母に質すことはできなかった。冤罪だと思ったが、そのように信じ切れる自信もなかった。ひとまず衰弱している祖母に、さらに打撃を与えてはならないと思った。

 風呂場で冷たい水を浴びた後、自室の畳の上で横になった。僕の部屋にはエアコンはないが、海からの涼しい風が吹き込んでくる。

 この風が出発したところは、僕の知らない世界、広い世界なんだろうなと思った。風はいいなと風に憧れた。風は、どこにでも行ける。どこまでも行ける。僕はこの町に閉じ込められて、一生を終えるのだろう。一生って、何年だろう。五十年か、百年か。

 とりあえず数十年か。   

 その間、僕は地べたを這いずり回っておれば、やがて楽になれるのだろう。けれども、そんな時間に何の意味があるというのだろう。ならば今、死んでも同じではないか。

 途方もない無力感が、僕を苛む。生きることが苦しみに耐えることなら、人はなぜ、生き続ける必要があるのだろう。

 苦しみを見ないように、感じないようにすることはできる。人でなしになれば、いい。泣きわめく人を踏みつけていけばいいのだ。苦しんでいる人には、すべてあんたのせいだと決めつけて終わりだ。そして、そのような人たちの上に、自分が存在すると確信できれば、自分だけは救われた気分に浸れるだろう。

 しかし、それでは、自身が空しく耐える以上に無意味なことではないか。

 父との思い出が、無限に遠くなった気がした。母や姉が、本当にこの世にいるのかどうかも定かではなくなってきた。

 僕は、自分自身がどろどろに融けていくような気がした。黒い粘った泥濘と化していくような感じだった。

「せめて葬式だけは、早くしてやりたい」

 階下で祖母が独りごちる声が、聞こえてきたような気がする。

 次いで、こんな声も聞こえてきたような気もした。

「お前は、犯罪者の息子だ」

 仮面が、僕に向かって叫んだのだった。

 僕は、いつの間にか眠りに落ちていた。



 

 

 







 


 







 


 





 



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