3 父の死:母を囚われた少年は、父と見た海を想う

 高校二年になって、二か月あまりが経った。

 面白いことも楽しいこともなくなっていた。成績は中の下で、歴史学者になりたいという望みは、早くも消えていた。五太夫に就職するしかないのだろう、そして死ぬまでそこで働くのだろうという、奇妙な安心感が僕の脳を支配していた。

 高校でも、なんとなく排斥されているような感覚、宙に放り出されたような感じに囚われていた。いつも廊下ですれ違う湯沢君や橋本君とも疎遠になった。つい最近まで一緒に遊んだり、話したりしていた人を、ある日突然、まったくの他者と認識できるのは、なぜなんだろう。

 クラスには、魅力的な女子が多かった。僕は、そのうちの一人、早田由希子はやたゆきこに恋をした。

 由希子は、五太夫本社の幹部のひとり娘だった。彼女は、僕にとってはプリンセス同然だった。背筋がやんわりと伸びていて、切れ長の目がいつも笑みをたたえていた。ショートカットの細い髪の毛が、風に揺れるたびに、ときめきを覚えた。たまに言葉を交わすことがあったが、僕は夢見心地だった。

 彼女は、五太夫美禰ごだゆうみねと一緒にいることが多かった。

 美禰は五太夫グループの総帥の娘だが、令嬢という印象は、全然なかった。出来の悪い人形のようなおかっぱ頭で、ずんぐりとした体型で、いつも不満そうな表情を浮かべていた。常に口汚く他人を責めるばかりか、同級生や後輩に暴力を振るうことも珍しくなかったという。

 しかし教師も生徒も、五太夫に歯向かうことはできないので、見ざる聞かざるの態度を取るしかなかった。

 皆、由希子と美禰が仲良しなのを訝しんだ。父親同士がゴルフ仲間だから、と僕は聞かされた。僕は、父もゴルフをすればいいのにと思った。父の世渡りは、あまりにも不器用だと、少しばかり軽蔑する気持ちが芽生えていた。

 六月も末のある日、僕は放課後、図書室で本の整理をしていた。僕は、図書委員だった。

 司書が急に退職したので、本の配置は混乱を極めていた。僕がきちんとしようよと委員会で発言したら、ではお前がやれということになった。

 理不尽とは感じたが、格別、苦には思わなかった。本に触れるのが、楽しかったのだ。拾い読みをしながらだったので、作業は遅々として進まない。気がつくと夜八時だった。数日かけてやればいいやと思って、僕は校門を出た。

 高校は、高台にある。目の前の瀬戸内海を行き来する船の灯りが、あの世のもののように映った。空気はねっとりしていて、明日の雨を告げていた。

 自宅まで徒歩で十五分ほどだが、尿意を催した。途中に児童公園があり、そこのトイレに入った。

 下を向いて手を洗いだした時、動物の悲痛な鳴き声が、耳に届いたような気がした。驚いて顔を上げると、目の前の汚れた鏡が一瞬、血の色に染まった。そこには苦悶に満ちた人の顔が、くっきりと浮かんでいた。それは、この上なく身近な人だった。僕は動転し、思わず叫んでいた。

「父さん」

 我に返ると、鏡は元のままで、そこには僕が映っているだけだ。僕は言いようのない恐怖に駆られて、トイレを飛び出し走り出した。

 家まであとわずかのところで、巡回中の二人連れの仮面に呼び止められた。仮面は、全身が黒ずくめだ。最新機器が装備されたフルフェイスのヘルメットをかぶり、万全の体温調節機能を備えた強化服で身を包み、下肢は凶器となりうるブーツで固めている。

 凡人でも、その装備があれば、複数のプロの格闘家を相手にしても勝てると強調されていた。さらには武器まで携行しているのだ。

 スタンガンをわざとらしくちらつかせながら、ひとりの仮面は言った。機械的に変声させているため、本当の声はわからない。もしかしたら僕の近所の人かもしれない。仮面の正体は、一般町民には厳重に秘匿されていた。

「逃げるように駆けていたな。何かあったのか」

 少しでも怪しまれたら、すぐに連行されてしまう。僕は、必死で平静を装って答えた。

「何もありません。学校の帰りです」

 もうひとりが、疑い深そうに詰問してきた。

「それにしては、少しばかり遅い時間じゃないか」

「図書委員なので、本の整理をしていました」

「そうか。町民証を見せなさい」

 ひとりが僕を牽制している間に、もうひとりが僕の町民証をセンサーで読み取っている。町民証は、町民全員が外出時の携行を義務付けられていて、不用意にはずしたままにしておくと罪に問われる。それも形式犯ではなく実質犯として、懲役刑になる。

 五太夫は、いつもこうして僕たちを束縛している。

 町民証は、さまざまな証明書としての機能を持たされていて、加えて町内通貨タユウがチャージされたカードでもあった。僕の小遣いは町民証の中だけにある。

それどころか僕の存在も公には、その中にあるだけなのだ。

 仮面は、町民証の検分を終えると僕を解放してくれたが、その間際に気になる一言を発した。

「あの家の子だね」

 あの家、とはどういう意味なのだろう。僕の家を知っているということか。それとも僕の家族を問題視しているということなのか。僕はひどく不安になったが、考えすぎだと自分を納得させた。

 僕は、ようやく帰宅した。季節柄もあるし走ったせいもあるが、その上に仮面の誰何で緊張しきって全身、汗だくだった。

 時刻は、ちょうど午後九時だった。祖母も母も、まだミシンに向かっていた。僕は父の幻影のことも仮面のことも口に出せなかった。

 夕飯はひき肉入りのオムレツともずくの澄まし汁だった。僕は腹いっぱい食べて、二階の狭い自室で宿題を済ませ、蒲団に入った。

 父の帰りは、近頃、特に遅い。たいてい零時過ぎだ。僕は、その時刻に目を覚ました。階下で祖母と母が、騒がしくしている。

 母が二階に上がってきて、ドアの外から声をかけてきた。声は、かぼそくて震えていた。

「お祖母ちゃんと出かけてくるから。心配しなくていいから」

 いったい何があったのだろう。僕は、町内ネットで検索した。それは、その名のごとく町内にしかつながらない。何もアップされていなかった。

 僕は再び、横になった。脳裏に、血の赤の中に現れた父の顔が浮かんだ。

 僕はそのまま、寝入るでもなく目覚めるでもなく、ただうとうとしていた。虚空に投げ出されて、なす術もなく浮遊しているような感じだった。

 早朝五時、モバイルの長い呼出し音で起床せざるを得なくなった。それは、母からだった。画像は封鎖されていて、音声だけが届いた。

 母は嗚咽しながら、父は会社で自殺したと言う。僕は、突然の報せにまともに反応すらできないまま、訊いた。

「いつ」

 日頃はおしゃべりな母だが、時間を節約するためか、それとも何者かに強いられたのか、単語の羅列しか返ってこなかった。

「昨日、晩、八時過ぎ」

 僕の脳裏に昨夜の幻視が、甦ってきた。父は、あの時、自分の命を絶ったのだ。僕は息苦しくなって、どうしていいかわからなくなった。だが問うのは子供っぽく思えて、黙っていた。

 母はいらいらしてきたようで、ひどく焦った口調になった。

「ゆっくり話す時間はないのよ。お祖母さんも私も、いつ帰れるかわからないの。葬式の日取りも決められないなんて。ねえ、学校だけはちゃんと行って。明後日から期末試験でしょ」

 そこで電話は切れた。何者かに無理やり切らされた様子だった。僕は全身が熱っぽくなって、部屋の畳の上にへたりこんだ。

 思わず、声が出た。

「姉ちゃん」

 姉や親戚に連絡を取りたかったが、親権者同伴で町役場を訪れ、許可を取らなくてはならない。絶対に無理なことだった。

 僕は、午前八時に学校に電話した。ディスプレイに学年主任の顔が現れた。いつもにやついているが、それは表情が固定されているだけで、内心を表しているのではないことは、周知の事実だった。

 今日だけ休ませてくださいと告げると、理由も確認せずに、学年主任は了解しましたと、軽い口調で返してきた。

 僕は、これでは単なるずる休みとして処理されるかもと思い、慌てて父の死を伝えた。彼は、面倒くさそうな言い方になった。

「なに、お父さんが亡くなったんですか。そりゃ、大変だ。お葬式は、いつなの。なに、まだ決まっていないんですか。そりゃ困った。決まったら教えてね。こっちにも都合があるんだから。で、期末試験には出てくるんですね」

 そこで電話は切られた。学年主任は、端くれではあるが五太夫一族だという。このやりとりで五太夫は、人を人とも思わず、その死についても重くは受け止めてはいないのが、よくわかった。

 世の中とはそんなものさと、世間の人たちは言うのだろう。でも、もしそうであるなら。なにゆえ国家や政府は存在するのかを考えてほしいと思った。

 僕は、何に対しても誰に対しても、自分の悲しみを癒してほしいとか、自分を幸福にしてほしいとか求めようとは思わない。だが人の死は、真剣に受け止めてもらいたいと何に対しても誰に対しても訴えたかった。


 僕の朝食は、水道の水だけだった。その頃になると、身体から熱は失せ、むしろ冷えを感じていた。気持ちのせいもあろうが、その年は初夏を過ぎても、気温が上がらなかったことは事実だ。夏は、本当に来るのかと思えた。

 急に強い雨が降りだした。土砂降りの中、朝九時前に突如、仮面が二十人ばかり押しかけてきた。皆、しっかりとしたレインコートを羽織っていた。

 玄関でリーダーらしき仮面に、詰問するように問いかけられた。

「お前が、野口鴻か」

 僕は、からくり人形のように首を縦に振った。

「これから家宅捜索をする」

 その仮面は、令状と称する紙を見せた。そこには町長の署名だけがあった。町内マラソンの表彰状ではあるまいし、無茶だと思ったが、申し立てても無駄であることは明らかだった。

 仮面たちは、玄関で次々とレインコートを乱暴に脱ぎ捨て、僕の脇を黙々と、土足のまま通り過ぎていった。

 ひとまず僕は、レインコートを乾かすように命じられた。ドライヤーで一枚一枚、丹念に水分を取った。

 それが終わると僕は、リビングの床の片隅に監視付きで座らされた。仮面らは、意味なく頻繁に僕を威圧したり軽侮しながら、家中を漁った。

 僕の昼食は、買い置きのカップ麵だった。スープを喉に流し込みながら、思った。父は、いったい何をしたのだろう。まるで極悪人扱いではないか。

 夕刻、捜索という名の蹂躙は終了した。仮面は理由すら伝えず、祖父と父の蔵書をすべて持ち去った。児島高徳や常山城の鶴姫は、僕から奪われたのだ。

「問題がなければ返却する」

 ある仮面は、僕にそう告げたが、それはそのような書物との永遠の別れを覚悟せよという意味であることは、十分に理解できていた。

 夕方になって雨は、ようやく止んだ。僕は、泥だらけになった家中を懸命に掃除していたので、そのことには気づかなかったくらいだ。


 意外にも祖母は、その日遅く、仮面に伴われて帰宅した。憔悴しきっていて、玄関の上がり口で荒い息を吐きながら、しばらく倒れ込んでいた。

 やがて祖母は、僕の手助けを断ると、リビングまで文字通り這っていき、床に座ったまま、僕がコップに注いだ麦茶を二口ほど飲むと、ようやく口を開いた。

「鴻、大丈夫か」

 ようやく背筋が伸びた祖母を椅子に引っ張り上げながら、僕は口ごもりつつ、うんと言った。

 椅子の背に全体重を預けて、祖母はかぼそい声を発した。

「お母さんは、しばらく帰れない。取調べだそうだ。お父さんも帰ってこない」

「父さんが、帰ってこないって」

 僕は、自分の息子が亡くなったのに何を言っているんだろうと、言葉を失った。

 祖母は、ひどく無表情だった。感情を使い果たした、涙も枯れ果てたという感じだった。

「お前のお父さんだと私らが確認すると、すぐに遺体は火葬場に送られた。だけど、お骨は返してくれない」

 祖母は、途切れ途切れに語った。

「葬式は、お骨とお母さんが帰ってから、するしかない。いつになるか、わからないけど絶対にするよ」

 僕は、おずおずと言った。

「姉ちゃんに報せなければ」

 祖母は周囲を見渡すと、しーと口に立てた人差し指を当てた。そして食卓の上にあった、新聞の折込みチラシの切れ端に、ボールペンでうっすらと書いた。「盗聴器があるはず。滅多なことは言うな」

 祖母は、その紙をすぐに小さくちぎって捨てると、一息ついて続けた。

「菜緒子のことは気にするでないよ。外国にいて、きっと楽しくやっているんだから。鴻、お前は期末試験のことだけに集中しろって、母さんがしつこいくらい言ってた」

 僕は、ようやく肝心なことを知るべきだと思えるようになっていた。

「父さんは、どうしたの」

 祖母は、肝心な問いには向き合いたくないようで、喉の奥から絞り出すように声を発した。

「鴻、お前も知っているでしょう。お父さんは、毎日、会社に行って、遅くまで仕事をしていた」

 僕は、この期に及んでの、そのようなはぐらかしには我慢できなかった。祖母を睨みつけた。

 祖母は観念したようだ。しばらくして、伏し目がちにぼそぼそと酷い事実を語った。父は、会社のトイレの個室で、自ら頸動脈を切ったというのだ。


 僕の脳裏に、父との乏しい思い出のひとつが、ふっと浮かんだ。八年前の三月半ばの日曜日のことだ。ダンが、我が家に姿を現す二か月前のことだ。

 季節外れの、ひどく暖かい日曜日だった。姉の高校進学が決まり、家族全員、ほっとしていた。

 祖母と母は、納期に間に合わすべく、早朝から服を縫っていた。

 昼前、父は姉と僕に向かって海に行こうと言った。姉は思春期だったので気が進まないようだったが、僕が一緒に行こうよとせがむと、しぶしぶ承諾してくれた。

 昼食用に用意してあったおにぎりを弁当箱に詰め、僕たちは歩いて海に向かった。途中、コンビニに寄った。父は焼酎の水割り、姉はジンジャーエール、僕は桃のジュースを買った。

 ついでにローストチキンとフランクフルト・ソーセージを父に奮発してもらうと、完全にピクニック気分になった。

 しばらく歩くと海が、視界に現れた。少しばかり風があり、さざ波が立っていた。波は陽の光を浴びて、その輝きは水晶のようだった。

 これほどまぶしく美しい海は、その後も見たことがない。空には、鴎が舞っていた。島々や四国の山々に、手を伸ばせば届くように思われた。

 防潮堤に座り、食べたり飲んだりしている内に、父の表情は驚くほど優しくなり、姉はこの上なく饒舌になった。

 姉が、父をからかった。

「ここってお父さんとお母さんが、はじめてデートした場所でしょ。お母さんから聞いたわ」

 父はアルコールのせいだけとは言えないほど、顔が赤らんでいた。

「まあ、そうだが」

 母は、五島列島の福江島の出身だ。高校を卒業すると、この地で五太夫被服に入社し、縫製工場で働いていた。夜は、隣の市の児島市立大学夜間部に通って、そこを卒えると五太夫の子会社のひとつで庶務の仕事をしていた。

 両親は会社で知り合い、互いの仲間たちで八幡様の夏祭りに出かけた。そこで二人は意図的にはぐれ、この海辺に来たらしい。

 いろいろな会話が続き、その後、姉は言った。

「お父さん、仕事はどうなん」

 父は反射的にあたりを見回した。僕たちのほかに誰もいないことを確認できると、ささやくように言った。

「まあ、いろいろあるよ」

 姉は、無頓着だった。

「五太夫って、それなりの会社なのに、従業員をボロ雑巾のように扱うって、学校の皆が話してる」

 母が出産すると、退職せざるを得なくなったのも、そのせいだ。

 父は慌てて、姉の口をふさぐ仕草をした。

「五太夫の悪口は言わないほうがいい。告げ口をする人間は、どこにでもいる。子供の告げ口で、親がクビになったこともある。気の毒に、一家そろって、ここを出ていったが」

 姉は、憤りをあらわにした。

「ひどいじゃないの。そんな会社になぜ入ったの、なんで今でも勤めているの」

 父は、わざとらしく間延びした口調で答えた。

「お父さんは、この町が好きなんだよ。山もあり海もある。ひどく暑くもなく、寒くもない。災害もほとんどない。田舎なのに、お店もいっぱいある。生活に不便はない」

 姉は僕と違って、ものをはっきりと言える人だった。

「だからって、いやなことを我慢し続けるって変だと思う」

 父は苦笑いした。

「四十を超えると、なかなか再就職が難しいこともあるがな。ところで初老って何歳のことだと思う」

 僕は、威勢よく答えた。

「チョロは三歳だ」

 チョロは当時、人気だったアニメの主人公の鼠のことだ。父も姉も大笑いした。姉は、僕に諭すように言った。

「鴻ちゃん、チョロじゃない。初老だよ、しょろう」

 それからしばらくアニメの話になった。父はチョロより、昔のトムとジェリーの方が面白いと主張した。姉は向きになって、それは古臭い、絶対にチョロの方がいいと声高に言い張った。

 口論もこうなると楽しくて、その間に僕は、父の分のチキンまで食べていた。肉汁がぽたぽた服に垂れて、帰ったら母に説教されるだろうと気が重くなった。

 姉は、ふと我に返って言った。

「初老って、六十歳のことでしょ」

 父は、静かに首を横に振った。

「違う、四十歳のことだ」

 僕は、不安になって訊いた。

「父さんは年寄りなの」

 姉は笑った。父も笑いながら言った。

「今が人生の折り返し地点を、過ぎたところだ。お父さんは、四十歳で心に決めたことがある」

 姉が、からかい半分で問うた。

「へえ、何なの」

 父は、真面目な表情になった。

「お爺ちゃん、つまり自分の親父の死について調べてみたいんだ。だから五太夫を離れられない。琴浦からも出られない」

 それを聞くと、姉は遠くを見つめ、透明な表情で言った。

「お父さん、私は高校を卒業したら、ここを出るね。閉じた世界っていやだ」

 父は強いて、鷹揚さを見せようとしているように思えた。

「それでいい。世界狭しと暴れてくれ。ただ、どんな闘いにも本拠地がいる。それが、ここだ。ここでお父さんが中から穴を開けるから、お前は外から開けてくれ」

 僕は訊いた。

「穴って、何」

 父も姉も、噴き出した。

 時刻は、もうすぐ午後三時になろうとしていた。僕は肉汁で汚れた手を洗おうと、テトラポットで埋め尽くされた海辺に下りた。その時、穏やかな海に一瞬、大きな波が起きて、僕の全身を濡らした。

 沖合には、巨大なタンカーが航行していた。波は、それが起こしたのだ。子供心にも、自分の歩む人生を予見させるような出来事だった


 帰宅した途端、雨が降りだして急に冷えてきた。祖母と母は、依然として機械のように服を縫っていた。

 父は突然、トラブル発生とかで呼び出しを受け、会社に行った。姉は宿題を片付けるため、自室にこもった。

 僕は、服を汚したことをとがめられなくて安堵した。風呂に入ると、早めの夕食だった。焼いたままかりの酢漬けと豆腐の澄まし汁という献立だった。ままかりは、知り合いの漁師にいただいたという。

 その場に当然ながら、父はいなかった。

 その後、アニメのチョロちゃんを観て、ゲームをし九時には寝たと思う。祖母と母は、まだミシンに向かっている。父は、まだ帰らなかった。

 僕にとっての父の記憶とは、実は父が不在だった記憶かもしれない。だから父と共に過ごした、その日のことが、ひどく印象に残っているのだろう。

 そして今、この地に外からも中からも、穴は開けられそうにないのだった。


 





 








 

 




  







 


 

 





 



 

 




 








 

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