1 冒険の背景
母が、亡くなった時のことを書いておく。
母はまだ六十六歳だったが、身体はひどく弱っていた。昔の出来事が、ずっと母の身体に祟っているのだ。
十一月の半ば、寝たきりに近かった母は、急に紅葉を見たいとせがんだ。
僕は、母を車の後部座席に乗せ、
母は紅色で埋め尽くされた山々を目にして、きれいだ、きれいだと呟き続けていた。山を下りきる間際、その声が聞えなくなった。僕は暖房を利かせたせいで眠ったのだと、一人合点した。
その時、犬の悲し気な鳴き声が、どこからともなく聞こえてきた。僕は、車を慌てて停めた。
振り返ると、母は満足そうな表情だったが、既にこの世の人ではなかった。
それから慌ただしい時が過ぎて、五十歳を過ぎた頃から時間の感覚が、おかしくなってきた。一秒前のことも何十年も前のことも、同じ重み、厚み、深み、意味をもって迫ってくる。眼の前には、暗い陰がおぼろげに見えるようになった。
記憶と死に挟み撃ちにされて、呆然と立ち尽くすことが、しばしば起こるようになった。過去とは記憶のことでしかなく、未来とは死のことでしかないのかもしれない。
これから書き残すのは、記憶と死についての、自分の少年時代の体験である。
おそらく、これを読む人たちは、僕の頭がおかしくなったと言うだろう。僕は、本当に起こったことだ、信じてほしい、と力なく願うしかない。
以下の冒険譚の時代背景について、蛇足とは思うが、簡潔に述べておく。
二〇二七年、政府財政と民間経済が同時崩壊し、今や国際語となっているイッキが起きた。あまりにも陰惨な暴動が、国を覆いつくした。
まずは暴力団が蜂起し、次にあらゆるセクトのテロリストたちが呼応し、さらには一般国民、ひいては警察や軍の一部までイッキに加わった。
インフラが破壊されたのは、致命的だった。水道も電気もガスも物流も、金融システムさえも止まり、さらには疫病が蔓延する中で、国民は五か月を耐え忍んだ。
イッキには主導者がおらず、指導部もなかった。ただ食っていけなくなった人たち、全財産を失ったり、前途を奪われ自暴自棄になった人たちが、さらに追い詰められて起こした騒擾だった。
国連は、日本政府の要請を受け、統治軍を編成し派遣してきた。統治軍はイッキの鎮圧に成功したが、問題はその後だった。もはや国家を維持するための、広範な仕組みが壊されていた。
その中にあっても、強力な企業の実質的な支配下にあるため、致命的な破壊を免れた自治体があった。そのような全国で五十三の自治体を、統治軍は自らの負担を軽減するため、特別自治区に指定し、独立国のような権限を与えた。
琴浦町もそのひとつだった。この地は、二千年前から製塩と交易で栄えてきた。江戸時代には米本位制となったが、この地は平地と水に乏しいため、まともに水田が作れず経済発展から取り残された。しかし人々は屈せず、棉の栽培をはじめた。そこから繊維産業が興った。
立役者は
時は流れ、今や五太夫は、身体は大きくはないが、強靭な骨格と筋肉を有し、戦闘意欲に満ち溢れている中量級のボクサーのような企業グループになった。
特別自治区の制度ができた途端、五太夫は、琴浦町を一瞬で我が物にした。かねてから計画していたとしか思えないくらいの素早い、鮮やかな手際だった。統治軍に入れ知恵をしたのは、五太夫ではないかという噂が立つほどだった。
その後、町で起こったことを列挙しておく。
まず町長と町議会の全員、町職員の多くが、横領や盗撮などの罪をでっち上げられ、町外に追放された。その人たちは反五太夫どころか、家族の誰かが五太夫グループに勤務していたり、元従業員だったりした。とにかく五太夫の意思より、法令や議決を優先させそうな人間は、最初から排除されたのだ。
新しい町長には、五太夫本社の庶務課長が就任した。議員と町職員は、すべて五太夫グループの従業員が兼務することとなった。
次いで町内の全企業が、五太夫グループに吸収された。町民は、すべて五太夫の指揮命令の下で働くことを強いられた。それに従えない者は、これも町外に追放された。
町内の警察官は、全員、町外に異動させられた。同時に五太夫グループのエリートたちが核となり、警察と軍の権能を有し、治安維持というより五太夫の体制維持を図る組織がつくられた。およそ三百人ほどで、職務を遂行していたようだ。
そのメンバーは、頭脳明晰で体格も良く運動能力に優れていた。中には、訓練役を兼ねて元軍人や元警官もいた。
メンバーは、俗に
仮面は、自動小銃と拳銃、それに加えて手榴弾を常に携行しており、町民が歯向かうことは不可能に思えた。
さらには日本国の通貨は、町内では使用できなくなった。町は新たに、単位をタユウとする電子通貨を発行した。一円が一タユウとされたが、町外では使えない。円との両替は、町の許可が必要とされた。
町民は給与をタユウで受け取り、それを町内で使用せざるを得ない。マネーは五太夫から町民に与えられ、結局は五太夫に還っていくだけである。
町の外との往来は、原則として禁じられた。これも町が許可した仕事と学業と冠婚葬祭以外の理由では、町外に出られず、外からも町に入れない。なお町境には、高さ五メートルの電気柵が設置された。
僕は、このような状況の中、高校に入学した。伝統ある琴浦町立琴浦高等学校は、いつの間にか五太夫祈念琴浦高等学校と改名されていた。
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