杏仁池の悪夢(きょうにんいけのあくむ)

甲斐空(カイ・クウ)

序 野口鴻(のぐち・こう)の長男の手記

 二〇八九年、一月最後の土曜日のこと。東京は大雪でした。

 新宿駅の古びた地下道の壁際には、何百人ものホームレスたちが、白い息を吐きながら無言で横たわっています。私たち夫婦は、その前をうつむいて足早に通り過ぎました。

 午前六時、私たちは品川駅で、弟、妹と落ち合い、博多行のリニア新幹線に乗りました。車中、私は妻の顰蹙を買いながら、ウィスキーのロックを三杯、味わいました。これは父親譲りの悪習です。

 トンネル続きで風景を楽しむことはできませんが、一時間半で岡山駅に到着し、そこで在来線に乗り換え二十分余り。私たちは、岡山県の南端にある児島市に着きました。

 そこでもデジタル広告が、くどくどと二十二世紀まで残り何日とアピールしていました。私は、だから何なのだ、まだ十年以上あるじゃないかと悪態をつきたくなりました。


 児島でも北風が吹いていました。空気は硬いガラスのような感じでしたが、陽の光は春を思わせていて、空は青く澄んでいました。

 瀬戸内海は荒れ気味でしたが、きらきらと眩しく、まるで瑠璃を敷き詰めているようでした。陸の上には烏が、海の上には鴎が飛び回っていました。

 父が入院している海辺の病院は、駅から歩いて五分のところです。川沿いの道を黙々と歩むと、さまざまなことが頭を過りました。

 私は児島市の隣にある、繊維産業の盛んな琴浦町ことうらちょうに生まれ、その地で高校卒業まで過ごしました。

 生家は、ここから徒歩だと一時間ばかりのところにあります。路地裏の小さな家に、かつて私は祖母、両親、弟、妹とともに暮らしていました。

 祖母は、私が小学校二年の時に、母は五年前に亡くなりました。母を喪ってから、その家には父がひとりで住んでいたのですが、自宅で動けなくなっているところを、たまたま訪れた人が気づいて下さり、すぐさま病院に搬送されたのです。

 見舞いというより、最後の面会になるかもしれないと覚悟を決めていました。

 会社には、しばらく休ませてほしいと申し出ています。海外にいる子供には、葬式が近いかも知れないよと連絡してあります。


 父は今年七十六歳です。琴浦町で生まれ育ち、大学を卒業後、地元のジーンズメーカーに就職しました。

 父が四十歳の時、勤め先は倒産しました。いろいろなことがあったのでしょう、その過程で父は、鬱病になりました。半年間、ほとんど死人のように臥せっていたのですが、うわ言でたまにダンと聞こえる言葉を口にしていました。

 それが何のことなのか、後日、訊いたことがあります。父は意外そうな表情で、さあ知らないなと答えました。

 病が一応は癒えてから、父は日々、這うような感じで職を探しに出て、しばらくして地元の信販会社に入ることができました。そこで父は、債権回収の担当をしていたそうです。

 ある時、父は高級なステーキ肉を買ってきて、それを自分で焼いてくれました。

 母が、何があったのと不安そうに訊くと、父は報奨金をもらったんだとぶっきらぼうに答えました。母は、ずっと日がな一日、家で服を縫っています。納期が迫っていると、仕事は深夜に及びます。父は、そんな母の苦労に報いるつもりもあったのでしょう。

 その日の夕食は、ことさら楽しいものでした。父はウィスキーを、母はワインをたしなみました。父は機嫌のいい時は、なぜか必ずウィスキーを口にするのです。

 私たちがステーキを食べ終え、両親もかなり顔が赤らんだところで、唐突に父は私たちに訊ねました。

「みんな、将来、何になりたい」

 私は高校一年生でした。堂々とジャーナリストになりたいと答えました。中学二年生の弟は、あっけらかんとCGクリエーターと答えました。小学校五年生の妹は、恥ずかしそうに小声でアナウンサーと答えました。

 父は笑顔で、うんうんとうなずきました。

「何を目指すのもいいだろう。でも勉強しなくてはな」

 私たち兄妹は、顔を見合わせました。三人とも成績良好ではありませんでした。このような時に小言を言われるのかと、私たちは白けていました。

 父はその空気を察したようで意外にも、ちょこんと頭を下げました。それが謝罪だったのか懇願だったのか、今でもわかりません。

 しばらくして父は、こう言いました。

「みんなには、広い世界で活躍してほしいんだ」

 それから父は一時間ばかり喋ったのですが、とにかく世の中には金融という仕事があることを、なぜか強調しました。

 そして父は、勉強の仕方について語りました。父は高校を中退した後、独習して大学に進んだらしいのですが、その時のやり方で、いくつかの資格試験に通ったということは、母から聞いていました。

「テキストを読んだら、すぐに問題に取りかかるんだ。問題ごとに正しく答えられたり間違ったりするだろうが、一喜一憂せずに、なぜそうなったのかをテキストに立ち戻って、きちんと理解すること。問題には、本当にできるまで何度でも取り組むんだ」

 私たちは、厭な気分になりました。好きなこと、つまり本を読んだり、映画を見たり、クラブ活動をしたりすることができなくなると思ったのです。

 父は、その反応を予想していたようです。

「ほかのことをしてもいいんだよ。時間はあるじゃないか。帰ってから夕飯までの一時間、寝る前の三十分、これで三問に取り組めるだろ。一日三問なら、年間で千問じゃないか」

 妹が言いました。

「ゲームと同じなの」

 みんな、笑いました。父は満足そうに答えました。

「そうだ、その通り」

 その後、父は、過去の出来事を淡々とした口ぶりで語ってくれました。

 翌日から私たちは、父の言ったとおりに勉強をはじめました。

 故郷を出なければいけない、ここでくすぶっていてはならない、そんな思いが、私たちにふつふつと湧いてきました。というのも昨日、父の祖父母と両親が亡くなったいきさつを聞かされたからです。あまりにも衝撃的でした。

 翌年の夏のある日、父の久々の休日でした。私は父が好きでしたが、父の休日は嫌いでした。父は休日には、惨めなほど沈み込んだ様子を垣間見せることがあったからです。後に母から聞いたところによると、父はたびたび精神安定剤を服用していたそうです。

 しかしその日、父は庭でバーベキューをしようと言い出しました。庭といっても猫の額ほどです。家族五人で車座になれば、窮屈でした。

 バーベキューは、まだ陽が高い午後四時ごろからはじまりました。小さなコンロに炭火を入れ、肉、魚介、野菜、餅など、ありとあらゆる食材を焼きました。皆、汗だくになりましたが、まったく苦にはなりませんでした。

 父は最初はなぜか暗い表情でしたが、次第に心がほぐれてきたのでしょう。またしてもウィスキーを飲みだした途端に饒舌になり、他愛のない話の後、蛸の脚をほおばりながら、ぽつんと言いました。

「親が子にできることは、たったひとつしかない。子が自力で食っていけるようにすることだ」

 弟と妹は、その言葉を憶えていないと言うのですが、私にとっては強く印象に残

っています。それが、一般的に正解かどうかはわかりません。けれどもそれが、父の強い思いだったのでしょう。


 その後、私たち兄妹は大学に進みました。私は京都、弟は台北、妹は東京で、全員が金融を専攻しました。入学すると父から、それぞれにメールが届きました。「ぜひ国際金融士の資格を取るように」というのです。

 私はプログラミングに、弟は語学に、妹は数学に苦しめられつつ、皆、在学中にその資格を得ました。卒業すると私はタイの銀行に、弟はシンガポールの投資会社に、妹はベトナムの損保企業に就職しました。

 私たちは、転勤や転職をしつつ世界中を移動する間に、結婚し子供ができました。私はミャンマー人、弟はマレーシア人、妹はベトナム人と結ばれました。

 弟は、クアラルンプールで挙式しました。両親にとって、そこは最初で最後の海外旅行先となりました。高さ六百メートルを超えるビルが百棟以上も建ち並び、その間を縫ってチューブトレインが行き交っていました。両親は、昔の映画で描かれた世界を目の当たりにして、本当に驚いていました。

 妹の披露宴は、琴浦の実家の近所にある二十世紀そのままの宴会場で開かれました。新郎は母国から観光がてら、一族郎党五十人ばかりを伴って来ると聞いて、両親は急ぎ、同じ程度の数の親族をかき集めました。本当に親族だったのかどうか、今でもわかりません。

 後に母に訊きました。両親は見栄を張る人ではありませんでした。なのに、なぜ無理をしたのかと。母は答えました。

「貧相な会場だったから、せめて賑わかしだけはしようと思ってね」

 宴は最初は厳粛な雰囲気でしたが、酒がまわると、皆、歌ったり踊ったりで祭りのようになってきました。愉快な思い出です。

 今、弟はムンバイで投資コンサルタントをしています。妹は夫の転勤に伴い、ワルシャワで語学教師をしています。


 十数年前のことですが、父は真冬のある日、山奥の個人宅に取り立てに赴きました。すると、そこの家族らに取り囲まれて監禁されたのです。

 父は、後日、言いました。

「油断していたんだ。一人で行ったのがまずかった。とにかく身長二メートル、体重百キロもあるような連中が六人も出てきた」

 そのうちのひとりに、軽くはたかれただけで父の顔は腫れあがり、肋骨が折れたそうです。意識朦朧となった父は、縄で縛られ座敷に転ばされました。寒さと痛みは耐え難く、父はそのまま気を失ったそうです。

 それから数時間後、夕刻に父の同僚が、そこを訪れました。会社のマニュアルによると、外出した従業員と三時間以上、連絡が取れない場合、不測の事態を想定して確認に赴くことになっていたそうです。父は、リスキーな業務に就いていたのでしょう。

 さて父の同僚が、その家に着いた時、障子戸は破られ、ガラス戸は割れ、家具は転倒し、家中に物が散乱し、広い庭のあちこちに人が倒れていたそうです。相撲取りのような方々が、揃いも揃ってダウンしていたのですから、よほどのことです。

 同僚の方の通報で、すぐに警察が来ました。父は、何も知らないで通したそうです。失神していたので当然です。父は普通の体格で格闘技経験もなく、武器も持たず、そのうえ縛られていたので何もできるはずはありません。

 お兄さん方は、犬にやられた、馬に蹴飛ばされた、熊に放り投げられたと口々にわめいていましたが、警察は取り合わなかったそうです。

 私は、当時、たまたま広島にいました。母から報せを受け入院先に駆け付けた時、父は、なぜか幸福そうな表情で眠っていました。その時、父はまたしてもダンとうわ言を発したような気がしました。

 父は、その事件をきっかけに勤務していた信販会社を辞めました。ちょうど六十歳でした。わずかばかりの年金支給まで十五年もあります。

 父は、近くのスーパーでアルバイトをしながら、六十代後半で一冊の本を著しました。「琴浦町の歴史」という、父らしい味も素っ気もない題名の郷土史です。有史前から二〇二〇年に至るまでの、私たちの故郷の歴史が淡々と記されています。学術的な価値はわかりませんが、もはや今後、書かれることのないであろう書物です。興味のある方は、ネットでも閲覧できますので、どうかご一読ください。

 私は、父に訊ねました。

「二〇二〇年から後のことは書かないの」

 父の視線は宙をさまよい、ややあって喉の奥から絞り出すような声で、呻くように言いました。

「悲惨なことを書くのは、とても難しいんだ」

 私は、軽い気持ちで問いを発したことを後悔しました。

 その頃、私たち一族は、二年に一度ほど、冬季休暇を利用して志賀高原や蔵王など日本のスノーリゾートに集まっていました。世界中の多くの国には雪がありませんし、雪はあっても山がありません。ですから両親の孫たちにとっても、本当に楽しかったことでしょう。

 茶色の猿を間近で見ながら、ウィンタースポーツに興じた後、温泉に入り、すき焼きやお寿司や珍しい郷土料理を食べて、ぐっすり眠るのです。

 料理には、松茸が入っていることもありました。その際、父は一礼をして食すのです。私たちは奇異に思いつつも、父に理由を質すことができませんでした。なお松茸は、私たちの配偶者や子供たちにとっては、決して好評な食材ではありませんでした。

 どのリゾートにも日本人の客はまばらです。来られるはずがありません。多くの国民は、年収五千ドル以下で、年間三千時間も働いているのです。

 父は、家族との歓談の合間に誰にも気づかれないように複雑な表情を見せることがありました。それは、この上ない苦痛と懐旧の念が入り混じったものに思えました。人はただ生きるために生まれてきたのではない、と父は言いたそうでした。

 母が不運な事故で亡くなると、時を同じくして皆、よりいっそう多忙になりました。私たちの子供らも、学業の都合で世界中に散らばりましたので、その行事も途切れました。

 直に会えなくなっても、父はニューイヤーには、孫たちに必ず贈り物をしてくれています。浮世絵の画集やら、「平家物語」や「太平記」といった日本古来の叙事詩などです。父は、郷土愛に満ちた人でした。それらの画集や文学には、私たちの故郷が、ほんのわずかですが姿を現します。

 父の孫たち、つまり私たちの子供たちは、口をそろえて言います。グランパは、このようなメッセージを伝えたかったのだろうと。世界中で闘って、たとえ敗北者となっても、お前たちを受け止める場所はあると。大丈夫だ、心配するな。


 ベッドに横たわる父は、意外に安らかな顔で眠っています。頬がこけ、鼻が異常に高く見えます。母が亡くなってから、父は食事をほとんど摂らず、書き物に没頭していたようです。

 妹が、父の額の汗をタオルで拭きました。父は静かに目を開け、私たちの姿を認めると嬉しそうに言いました。

「元気か。どうしている」

 私は答えました。

「みんな、元気だよ」

 父は笑顔で応じてくれました。しばらくして、照れ隠しのように呟きました。

「テレビを」

 ちょうど正午でした。ニュースは、昨年の日本のGDPがモーリタニアに抜かれたと伝えています。

 父はため息をつき、深い感情のこもった口調で言いました。

「この病院には高校の時、入院したことがある。お前たちのひい祖母ちゃんが死んだのも、ここなんだよ」

 私たちは、そのことは聞かされていませんでした。

 父は誰に向かってでもなく、呟くように言葉を発しました。

「もう一度、山を歩いてみたい。どこに行っても墓がある。ちょっとだけ挨拶をしたい」

 父は寂しそうに微笑むと目を閉じ、二度と開けることはありませんでした。死は呆気ないものです。

 その時、不思議な感覚に囚われました。病室の壁も天井も蒸発したように消え、一面、少しくすんだ白色の世界のただ中に、私たちはいるのです。そこは淡い光に満ち、無限のかなたにまで広がっているようでした。

 茫然としていると、突然、犬の悲痛な遠吠えが聞えました。ワオーン、ワオーン。病室は防音ですから、外の音が聞こえることはありません。気のせいかと思いましたが、その場にいた弟も妹も確かに聞いたと答えました。


 三日後、父の葬儀は仏式にて執り行われました。一族全員が、世界中から駆けつけてきました。近場の小さなホテルは、数日間、私たちが貸し切ったかたちになりました。

 皆が揃うのも、これが最後かもしれません。父は、私たちが最後に会えるようにするために亡くなったのかもしれないと、不謹慎ですが、そんな思いがしました。

 葬儀の翌日の昼下がり、父の姉と私たち兄妹は配偶者だけとともに、実家に集まりました。たたずまいは、子供の頃と変わりません。一階の板張りのリビングルームの片隅には、母のミシンがありました。

 母は毎日、朝から晩まで、それで服を縫っていたのです。染料の匂いが、今もあたりに立ち込めているような気がしました。

 そのミシンは、埃をかぶっていませんでした。母が亡くなった後、父が、こまめに拭いていたのでしょう。

 リビングルームの隣に、両親の寝室があります。畳敷きの部屋です。母の死後、新調した仏壇がありました。その真ん中に父の仮の位牌を置き、皆で一礼しました。帰依する宗教は違えど、死者を悼む気持ちは同じです。

 父は半年ほど前、私たちにメールを送信していました。自分が死んだら、仏壇に不思議なものがあるから見よというのです。

 父は続けます。「それは価値があるものかもしれない。もし、そうだとすれば売ればいい。売却益は、皆で話し合った上、いくらかは自分たちが得て、残りは故郷のために使ってほしい」

 なぜ故郷のためになのか。父は、預言者のように断言します。

「南海トラフ地震の発生が迫っている。琴浦も災厄から逃れることはできない。このあたりの震度は六強、高さ七メートルの津波に襲われる。町は壊滅するだろう。復興のために売却益は使ってくれ」

 私は、父が著した「琴浦町の歴史」を思い出していました。そこには、かつて琴浦に総願寺という巨大な寺があったことが書かれています。創建は西暦七百年ごろで当時の海岸に面し、三キロ四方もの敷地を有していたといいます。

 ところが、寺は忽然と歴史から消えます。現在、残っているのは一二〇三年に建立された、表面がすり減った石塔だけです。

 父は、総願寺は一三六一年の正平地震によって壊滅したと主張します。太平洋で発生した津波が、幅の狭い瀬戸内海に押し寄せてきて、本州と四国、そして島々との間で複雑に反射を重ねながら、高さを増す現象が起こったというのです。

 それはともかく私は口にこそしませんでしたが、思ったものです。父さん、気持ちはわかるが、たとえ百万ドルあったとしても、どうにもならないよと。


 仏壇の台輪が、隠し戸棚となっていました。そこには、ワイヤレス・メモリーと古びた鹿革製の小さな巾着袋と、濃い緑色のバインダー、そして小さく畳まれた、ぼろぼろの黒い軍用とおぼしきウィンドブレーカーがありました。

 巾着袋は黄土色ですが、どこか血の色に染まっているようにも映りました。その中には、ゴルフボールほどの大きさの、白く輝く玉がありました。

 異様な感じが、伝わってきました。玉を手にした妹が言いました。

「きちんと研磨していないダイヤモンドじゃないの」

 弟は、笑いながら言いました。

「それはないよ。父さんも母さんも買えるわけない」

 妹はモバイルの鑑定アプリを開け、スキャナーにその玉をかざしました。ディスプレイには、本物の可能性が高い、現状での推定価格一五〇〇万ドルと表示されています。

 私たちは息をのみましたが、同時に表情は曇りました。両親が、犯罪に関与したのではないかという疑念が生じたのです。

 バインダーには、千年はもちそうな紙に永久インクでしたためられた文書がありました。

 弟が、重々しくそれを読み上げました。おおよそ、以下の内容でした。

「これはノグチ・コウが、拾得物として、現在、琴浦町の治安維持担当である当職に届け出てきた物件である。(注;野犬がノグチ・コウのもとに、咥えて持ってきたそうである)しかしながら国内および町内の法的な混乱を鑑みると、本来の所有者をスムースに捜し出すことは困難である。したがって関係部門とその責任者の了承のもと、ノグチ・コウに保管を命ずることとした」

 弟は、息を継ぎました。緊張してきたようです。なおノグチ・コウとは父のことです。

「ノグチ・コウの死去した時点で、本来の所有者によって所有権に関する一切の申し立てが行われていない場合、この物件の扱いは、彼の法定相続人あるいは法定代理人に委任されることとする。二〇三〇年十二月二十五日 統治軍軍曹 ビシュヌ・パン」

 これを書いたのは、南アジア系の軍人のようです。

 弟は早速、ビシュヌ・パンなる人物を検索しました。確かに当時、統治軍の一員として、この地にいた人物のようです。軍を辞めた後、カザフスタンのヌルスルタンで警備会社を立ち上げ、多くの人に惜しまれつつ先年、亡くなったということです。

 その夜、皆で相談した結果、由来はともかく換金しようということになりました。手続きは、私に一任されました。

 数日後、私は横浜のハンナ&アーサー社日本支店を訪れました。業界で最も信頼できる会社です。応対してくれたのは、タンザニア出身のジーンという陽気な女性でしたが、鑑定後、ひどく興奮して言います。

「きちんとカットすれば、三千万ドル以上の価値がありますが、まずはデータを取り出してからにしてください」

 やはり本物だったのです。けれども私は宝石の価値より、データという言葉に興味を惹かれました。

「このダイヤにデータが入っているのですか。何のデータです」

 ジーンは、ささやきました。

「ゴッド・アー・ユーの隠し資産のデータです」

 ゴッド・アー・ユーとは、日本語でごだゆうのことです。漢字では、五太夫と表記します。それは、私の故郷である琴浦町の企業でした。私の曾祖父と祖父は、そこで働いていました。町を独裁的に支配しましたが、呆気なく滅びます。もはや伝説の存在です。

 その後、私は会社勤めのかたわら、弁護士とともに三年にわたり、行政や五太夫家の縁者との煩雑なやりとりに忙殺されました。

 五太夫の隠し資産は、およそ七六〇億ドルでした。その多くは、国庫と五太夫家の縁者に帰属することになりました。

 私たち一族は、その残余を、いわば拾得費として得ました。

 それ以上のことについては、沈黙させてください。ダイヤはある富豪に買い取られ、データは、私たちの両親の母校である児島市立大学に寄贈されたとだけ記しておきます。

 私たち一族は、その得られたマネーの使途について話し合いました。結局、父の遺志に従い、琴浦町のための基金とすることにしました。

 このように申し上げると、まるで私たちは聖人君子のようですが、いくばくかのマネーは自分たちが得たことを告白しておきます。

 ただし父の姉は、一ドルたりとも受け取ろうとしませんでした。

 私たちは琴浦町から基金の運用に携わるよう誘われましたが、お断りしました。既に私たちにとって、故郷は遠くにありて思うものになっていたからです。実家は取り壊すことにしました。その土地は、近くの縫製会社が買い取ってくれることになりました。

 

 その年、二〇九二年の四月は、後半になっても気温が上がらず、朝晩は冬のコートを着ている人も目にしました。私は、ひとりで帰省していました。基金発足のセレモニーに出席するためです。

 セレモニーが終わるとホテルに泊まり、翌日、午前九時前に私は実家に立ち寄りました。来週には、この家は跡形もなくなっているはずです。既に家財道具は、撤去されています。

 仏壇は私が引き取りました。母のミシンは、幸いなことにコレクターが引き取ってくれました。

 がらんどうになった家のリビングルームに立ちつくし、私は子供の頃のことを脈絡なく思い起こしていました。

 家族のこと。飼っていた二十日鼠や亀や金魚のこと、軒下に巣を作っていた燕や、庭の片隅に咲いていた名も知れぬ紫色の花のこと。近所の友達のこと。梅雨時に雨漏りがして大騒ぎしたこと。珍しく雪が積もった日に溝に落ちたこと。春先に大きな青大将が、玄関先で寝ぼけていたこと。夏の青空に、鳶が悠然と飛んでいたこと。

 かつては夕焼けがまぶしく感じられたのが、奇異にすら思えました。近頃では、空が赤いと思うだけなのです。

「さよならだ」

 その言葉を口にした途端、眼に潤いを覚えました。私は驚きました。金融という修羅場にいる私の心に、まだ泉が残っていたのです。

 同時に、足元が定まらない感じがしました。

 実際に家が揺れていたのです。ゆるゆると大地が震えています。

 通常、地震はすぐに収まるもので、屋外に不用意に出れば、かえって危険だと言われます。しかし、その時は違っていました。永遠に揺れは続くかのようでした。

立っていられないほどです。家が、みしみしと音を発しだしました。

 私は硬いスーツケースを頭上に掲げて、家から飛び出しました。その瞬間、瓦が何枚も、その上に落ちて割れる気配がしました。路地に飛び出た直後、家は倒壊しました。

 感慨にふけっている暇はありませんでした。周りの家も、どんどん崩れ去っていきます。電柱が倒れ、電線が宙を舞っています。触れたら感電してしまいます。

 秋祭りの際、だんじりが通る道に出ると、大渋滞の中、多くの老人たちが右往左往しています。地表全体のうねりは、続いています。私は、近くの丘の中腹にある八幡様を目指して一散に駆けました。急勾配の坂を上りきると境内です。

 ようやく揺れが収まってきました。モバイルが、マグニチュード九.六の地震の発生を告げていました。有史以来、世界最大です。震源は、関東沖から日向灘に至ると推定されるとのこと。太平洋沿岸は高さ三十メートル超級の津波が想定されるので、対象地区の住民は今すぐ避難せよとの悲鳴に似たアナウンスが流れ、すぐに途切れました。

 お宮は無事でした。境内には、二十人ほどしかいません。多くの人々は、近くの小学校に避難したのでしょう。しかし、そこはかつての総願寺の一部です。父の主張を信じるなら、やがて津波に襲われます。

 逃げろと叫びたかったが、どうしようもありません。

 私は、妻や子供らと連絡を取ろうとしましたが、だめでした。父によれば、三時間後に津波が襲来します。それだけあれば、徒歩でも十キロ以上は海から離れることができますが、このあたりの平地はすべて江戸時代以前は海でしたので、津波から逃れることはできません。山に入っても、疲労するだけで、遭難の危険性が増すだけです。

 とりあえず私は、ここに留まろうと決めました。井戸もあるし、トイレもあります。社の軒下では、雨露に濡れることなく寝めます。

 あちこちでサイレンが鳴り響いています。交通事故や火災も、あちこちで起きているようです。いまだに地震の続報はなく、誰とも連絡は取れません。いつの間にか焦りもなくなり、私は脱力した感じで、午前中を過ごしました。

 正午過ぎ、呆然としている最中、海鳴りが聞えました。神社から海まで半キロもありません。恐ろしい光景が、眼に映りました。

 いつも穏やかに輝いている瀬戸内海は黒く濁り、海水が化物のようにうごめきながら、陸をめがけて押し寄せてきます。津波は、あちこちの工業地帯や港を襲った後でしたので、大きな石油タンクや大量の瓦礫、無数の船とともに、黒煙を発して燃えながらやって来ました。

 津波はコンクリートの堤など、ものともせずに乗り越えました。家も工場も商店も呑み込まれていきます。山林も高台の建物も、津波が運んで来た炎によって燃え出しました。空は一気にかすみ、あたりは煙で薄暗くなりました。

 突然、息苦しくなり、頭がくらくらしてきました。津波が有毒物質を運んできたのでしょう。まわりの人たちも、うずくまりだしました。私はスーツケースを置き去って、口と鼻を水で濡らしたハンカチで覆い、さらに高台に這うようにしてたどり着きました。

 そこには、忠魂碑があります。子供の頃、よく遊んだ場所です。

 炎は、この丘の草木にも燃え移りました。青臭い匂いとともに、濃い灰色の煙が視界を奪うほどになってきました。煙は、私の眼や喉や皮膚を通して、神経をいたぶり続けます。

 逃げようと懸命にもがきましたが、無駄な試みでした。とうとう私は、忠魂碑の前に座り込んだまま、動けなくなってしまいました。そこも妙に甘酸っぱい香りが立ち込めだして、安全ではないとわかりましたが、どうしようもありません。

 忠魂碑が封じ込めた、無念の思いで亡くなった人々が、私を誘い込もうとしているような気がしました。

 私は眠くなってきました。瞼を閉じると、家族や友人たちの姿が浮かびました。

 私は無意識のうちに、父のうわ言で知った名を呟きました。

「ダン」

 その名は、父のメモリーにもありました。父が本当に窮地に陥った時に、必ず救ってくれて存在だそうです。

 父のメモリーには、多くの文書がありました。その中のひとつには、かつて取り立てに行って山奥の家に幽閉された時、ダンが巨漢どもをなぎ倒したという記述がありました。

 私は、それを読んで信じる気になれませんでしたが、父は外連味や小説家的な想像力をまるで持ち合わせていない人でしたので、判断に苦慮していました。

 けれども私は、その場のその瞬間において、その名を口にすべきだと強く思われたのです。二度目は、大声を発しました。

「ダン、助けてくれ」

 突然、濃霧のような煙の中から影が現れました。毛が黒光りしている犬でした。狼のような姿で、馬のような大きさです。熊のような印象も受けます。犬は、この状況なのに楽しそうに小走りで近づいてきます。

 一瞬、身構えましたが、犬の表情は柔和です。私は問いかけました。

「ダン、か」

 犬は、ちょこんとうなずいたように見えました。嬉しそうに近づいてくると、身をかがめ、背中に乗れと勧めました。

 火の手は、そこまで迫ってきています。私は、再び問いかけました。

「大丈夫なのか」

 ダンは心配するな、と言いたそうでした。

 私はダンの背中に這いあがり、ズボンのベルトをその頸に巻いて、手綱としました。ダンは、少々くすぐったいようでしたが、すぐさま勢いよく駆けだしました。


 いつの間にか私は、ふた山ほど越した王子がおうじがだけの頂にある、療養施設の廊下に横たわっていました。ここも避難者でいっぱいです。

 外は薄暗くなっていました。ようやく妻と連絡が取れました。東京も壊滅状態だそうです。沿岸部は津波に洗い流され、至る所で火災が発生しているようです。住んでいるのが内陸の小金井なので、住居も自分も無事だと言っていましたが、水道も電気も止まっているということです。

 その施設で応急処置を受け非常食を分けていただき、ぐっすり眠ると、翌日には体力は回復しました。私は早起きし、四時間かけて歩いて宇野港まで行きました。そこで軍の補給艦に乗せてもらい、仙台に至りました。そこから小刻みな乗り継ぎの連続でしたが、とにかく丸三日かけて自宅にたどり着きました。

 二週間ほどすると、少しは落ち着いてきました。私は保有しているマネーを元手に、故郷で金融業をしたいと妻に告げました。妻は、強く反対しました。しまいには路頭に迷うだけだと。

 冷静に考えれば、そのとおりです。けれども私は、父が苦難を味わっても失わなかった思いを少しでも形にしたかったのです。

 私は、妻を説得しました。まず借金を申し込む人を見極める、それから使途も厳しく確かめる、そして自分が損をするような貸しはしないと。

「人助けをしながら儲けるんだ。儲かれば、どんどん人助けができる」

 私は、真剣に訴え続けました。しまいには妻は納得してくれました。

 私は退職し、会社設立の手続きに奔走しました。琴浦町の海辺は跡形もなく洗い流され、その内陸部は焦土と化しています。わずかに残った人々は、テントやトレイラーで暮らしています。ここが蘇ることができるでしょうか。

 かつてこの地の商人たちは、商機を感知すると、北海道だろうが南洋だろうが、重い反物を担いで、すぐに赴いたそうです。江戸時代、藩が無理難題をつきつけてきても、決して屈することはありませんでした。そのような土地柄なので、私は希望を持っていました。

 先祖の墓は、高台にあったので津波に呑まれることはなく無事でした。ある日、私たち夫婦は、父の姉が亡くなったことを報告しました。すると木々が揺れ、またもや犬の慟哭が耳に達しました。私は妻と、微笑みながら視線を交わしました。


 これから父、野口鴻のぐちこうのメモリーに残されていた文書のひとつを提示します。事実かどうかは、お読みになる方の判断に委ねます。ただベースとなる事象が、実際にあったということは申し上げておきます。

 なお「いらまかす」という方言が現れますが、これは「からかう」という意味です。そして仙隋山せんずいさんの中腹以上には、今でも立ち入りが禁じられていることを付記しておきます。


















 

 


 

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