第196幕 魔方陣実験

 子どもは暗闇に慣れてしまっていたのか、俺が灯している明かりに眩しそうにしているようだった。


 ぼさぼさの青い髪に緑の目。

 肌はボロボロで、痩せこけている。

 だけどそれよりなにより……彼の右腕にはびっしりと魔方陣が描かれていた。


「君は……?」

「さぁ……?」


 誰だと聞いてきた割にはどこか目も虚で、俺を見たり天井を見たりと……頭をこっくりこっくりと揺らしている。


 時折怪しく鳴動する魔方陣がどこか恐ろしい。

 どんな起動式マジックコードなのか、見ただけでは全然わからない。

 少なくとも俺が習ったどの文字とも似ても似つかない。


 そしてそれ以上に、目の前の子どもは何かが零れ落ちていっているような印象を抱いた。


 周囲には他に何もなく、ラグズエルの手がかりといえばこの目の前の子どもだけだった。

 だけど……こんな、あんまりにもみすぼらしい姿をしたこの子に聞くのははばかられた。


「おに……さん。だれ?」

「……俺はセイルって言うんだ。

 君の名前は?」

「アシュ……ロン」

「そうか。アシュロンって言うのか」

「エズディ……ガウ、レア」


 それから子どもは次々と誰かの名前を挙げていく。

 むせながら、呼吸すらも苦しそうに。

 俺は最初、この子が何を言いたいのかわからなかった。


 だけど……視線が右腕に向けられている事に気付いてからは何を伝えたいのかはっきりとわかった。

 この子は一つずつ魔方陣に視線を向けて名前を呟いていた。


 俺は彼が喋り終えるのを見届けると、水の入った袋を取り出し、ゆっくりと飲み口を傾ける。

 最初は遠慮がちに飲んでいたけど、どうやら何かを口に含む体力はあるようだ。

 それから食べ物も……ひとまず魔方陣で火をおこし、作ったスープにパンを浸し柔らかくした簡易的なものを差し出したのだけれど、彼は一切動こうとはしなかった。


 いや、正確には水を流し込むことは出来ても、食事をすることは出来ないってことか。

 そう判断した俺は、せめてスープだけでも飲むように促すのだけれど……彼は頑なにそれを拒否した。


「どうして……」

「ぼくら……もう無理だよ……」


 彼から感じるのは諦め。

 自分は死ぬんだと、生きている意味なんてないという目が全てを物語っていた。

 彼がどんな酷い目に遭っていたのか、俺にはわからない。


「なんで……」

「だって、痛い。苦しい。

 生きてるのって……辛いよ」


 若干投げやりに視線を適当な場所に向ける彼のその姿はどこか痛々しくて……俺は思わず手を掴んでしまった。


「君は……アシュロンはもう自由だ。

 自由になれる。辛かった分、幸せになれる」

「そんなの……無理だよ」


 その諦めた視線が嫌だった。

 何もかも失ったような、まだ幼いはずなのにそんな目をしているこの子を放ってはおけなかったんだ。


「無理じゃない。ここから抜け出せば、お前を縛るものはなにもない」


 だけど彼は何も言わず、ただ黙って顔を伏せているだけだった。

 先程までの表情とは違い、苦しそうに呻く彼の右腕の魔方陣は相変わらず怪しく光っているけれど……その一つが消えていくのが見えた。


 それに比例して、彼の顔には苦悶の表情を浮かべる。


 ……多分、右腕の魔方陣が彼に何らかの悪い影響を与えているのだろう。

 これをなんとかすることは、俺には出来ない。


 切り落せば可能性はあるだろうけど、それをしたら彼にどんな影響が及ぶかわかったものではない。

 思わず拳を強く握って歯ぎしりしてしまう。


 こんなにも幼い子が……諦めたような、悲しい目をしていい訳がない。

 俺が彼ぐらい小さい頃は、もっと明るくて、笑顔で……。


 この子を見ていると、胸が締め付けられる。

 苦しくて、痛くて、絶対にこのままで終わらせていいものじゃない。


「おに、さん……ありがとう」


 彼は儚く笑って、今にも逝きそうなほど消し飛びそうな姿をしていた。

 だから、俺は……絶対に言ってはならない事を口にしてしまった。


「アシュロン、もし……もしその身体を捨てて、生まれ変われるとしたら?

 今ある苦しみも痛みもなくなって……新しい命を得られるのだとしたら……」

「は、はは。そんなことあるわけ――」

「答えろ」


 薄暗い牢獄。

 汗や血……そ例外の悪臭を詰め込んだようなこの世界が彼の居場所だった。

 そして数々の痛みを抱えて今、孤独に生を終えようとしている。


 俺よりも幼い、小さなこの子が……!


「ぼ、ぼく……」

「ここで死んだ仲間たちに申し訳ないなんてことはない。

 その右腕に彼らが宿っているなら、お前が生きている事こそがその弔いになるはずだ」


 綺麗事を言ってるのはわかってる。

 目の前の命だけを助けようとしている俺の想いは全て偽善だと切り捨てられても仕方ないことだろう。

 だけど……それでも、この子を助けたい。


「もし……も、し、生まれ、変われる、なら……」


 ――空を自由に生きたい。


 苦しみながら、なんとか言葉にならない小ささで紡いだ彼は、そのまま気を失ってしまった。

 右腕の魔方陣は半分以上消えてしまって、今もなお鳴動し、点滅を繰り返している。


「……わかった。お前の生命、俺が再び紡ごう」


 彼の本心。それを聞いた俺は決意した。

 今こそ、もう一つの起動式マジックコードを使う時だと。


 もし、俺がやろうとしていることが罪なのなら、その全てを受け入れよう。

 例え誰かに非難されることになったとしても、この子の生命は……俺が救う!

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