第174幕 記憶の齟齬

 くずはの様子がおかしいと思い始めて七日が過ぎ、ある決意をした。

 一日の鍛錬を終え、汗を流した俺は、意を決してくずはのいる部屋をノックした。


 奥から入ってもいい、という声が聞こえて……思わず俺は喉を鳴らしてゆっくりとドアノブを回し、扉を開いた。


 何か危険な気がする。

 それほどまでに頭の中で誰かが警告しているように思うんだ。


『これ以上進んだら戻れなくなるぞ!』

『進むなら……覚悟を決めろ』


 それは兄貴に魔方陣を掛けてもらうまで、一切感じたことのなかった感覚。

 頭の中で誰かが囁くその声は、本能が理性に訴えかけているのかもしれない。


 くずはへの質問に、それほどの危険が潜んでいるのであれば、俺は進まなければならないだろう。

 だって、勇者会合から今まで……俺はずっと彼女を守りたくて戦ってきた。


 上手くいかなかった事の方が多いし、他は色々と迷いがちの俺だけれど、その気持ちだけは嘘じゃないから。


 改めて覚悟を決めた俺は、部屋の中に入る。

 そこにはやっぱりくずはがいて、彼女はちょうど風呂で濡れた髪を拭いていたところだった。


「あんたね、ちょっとは時間を考えなさいよ」

「わ、悪い」


 こういう風に怒られると、いつものくずはのようにも思える。

 俺の方も風呂上がりのくずはを見るのは初めてだったせいか、後ろ頭を掻きながら適当にその場を濁してしまう。


「で、なに?

 大した事なかったら怒るからね?」


 呆れたようにため息を吐いて、くずはは腰に手を当てて俺に視線を向けてきた。


「くずは……お前さ、最近変じゃないか?」

「変って、何が?」

「前は剣の訓練とか、勇者の能力を使いこなせるようにとか……強くなるのに一生懸命だったじゃないか。

 それなのに、ここに来てからは全くしなくなったろ?」

「そうかな……でも、いいじゃない。

 ここにいたら戦う必要も無いし、アンヒュル――魔人のみんなもいい人たちだから、無理して訓練する必要もないでしょ?」

「それはまあ……そうなんだけれどよ」


 どうにもしっくりこない。

 今のくずはとここに来る前のくずはが……まったく噛み合わない。


 だけれどそれを感じているのは彼女を知っている俺だけで、ラグナスやくずは本人も全く気づいてない。


「それに……もういいの。

 苦しい思いも、辛い思いも……もうしたくない。

 あの時言ってくれたよね? 私がヘルガに負けた時、『俺がくずはを』って」


 嬉しそうに両手を合わせて微笑んでいたけど……くずは、それは違うんだ……。

 俺が言ったのは『俺がお前の分まで』って言葉なんだ。


 それは『守る』って意味も確かに込めていた。

 だけれど、それは弱い心を懸命に隠している彼女の強さを支えてあげたいと思って口にした言葉であって、今の――守ってもらって当然の態度を取っている彼女に対して向けた言葉じゃなかった。


 それをくずは自身がきちんと理解していたからこそ、戦い続けていたはずだ。

 弱さと強さが同居していた彼女に俺は惹かれ、守りたいと願っていた。

 隣で共に道を歩み続けたいと思ったんだ。


「くずは……」

「なに?」

「いや……」


 ――変わってしまった。


「セイル、私たちは他の勇者に狙われて……それでラグナス様たちに助けられたんだよ?

 もう、私たちじゃ届かないところまで来たんだから終わりにしてもいいと思うの。

 魔方陣も、勇者の力も……結局勝てないんだったら、それには何の意味もない。

 これ以上は惨めになるだけ、でしょ?」


 そこにいたのは俺の好きだったくずはじゃなくて……『強がり』を抜き取られた『弱い』彼女の姿だった。


 記憶――思い出さえも書き換えられて。


「そ、そうか」

「それだけ?」

「あ、ああ。邪魔して悪かった」


 めまいがしそうになる身体をどうにか支え、俺はふらふらとくずはの部屋から出ていった。

 彼女はなにか言っているようだったけど、あまりの衝撃的な事実を受け入れられず……そのまま自身の部屋に戻ってしまう。


 ベッドに座り、軋む音を感じながら頭を抱える。

 ……俺は、どうしたらいい?


 くずはがこんな事になっているなんて、全く気づかなかった。

 いつの間にか泥沼のような場所に足がどっぷりと浸かっていて、抜け出せなくなっている。


 隣にあったはずの光は消え、辺りに広がるのは何も残らない真っ暗な闇だけ。


 ……こういう時、兄貴なら――


「いや、『兄貴なら』じゃない。

『俺は』どうするか……それを考えないと……」


 今この場に兄貴はいない。

 そして、本当に頼れる仲間も……。


 一瞬、頭の中にラグナスが思い浮かぶ。

 確かに彼は互いに腕を競い、学んできた友達とも言える存在だ。

 だけど、同時に今は彼に相談すべきではない、という考えが脳裏によぎる。


 それは一番最初に彼を疑ったからだろうか?

 くずはが変わってしまった原因がここにあるからだろうか?


 それはわからない。

 ただ、わかるのは……この場で誰かに頼るわけにはいかない、ということだけだった。


 とりあえずいつもどおりに生活しながら、俺なりに頑張ってみるしかない。

 弱さを隠して強く生きる――そんな彼女を救えるのは、自分以外にありえないのだから。

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