8 死神の祈り

 ベルントは一命を取り留めた。弾は貫通していて、太い血管に損傷が無かったのが幸いだという。

「ホントに名医だとは思わなかったよ」

 それほどユグルの手技は手早く見事だった。


 ようやく辿り着いたのはエデルマットの旭日亭という旅籠はたごだ。共に逃げたフィスト、ベルント、ユグルに、ギレスともう二名が合流した。ユグルの同級生でリーダー格のバールの姿はない。


 全員負傷していたので、旅籠で療養して五日目になっていた。床上げしたベルントも一緒に食堂のテーブルについている。


「捕まった奴はみんな殺されたんだってな」

 スフノザ砦の噂はエデルマット中に広まっている。彼らが蜂起し脱走したことで住民が虐待、虐殺されていた事実が明るみになり、ようやくブレア国と帝国軍上層部が介入したという。


 しかし遅すぎた。帝国に反抗した見せしめだとか、次はエデルマットが標的になるとかで大騒ぎになり、街を出る人が後を絶たない。この旅籠も他に客はなく閑散としていた。


「…俺たちだけ生き残っちまってよ」

 と、大男のギレスが鼻をすする。

 蜂起は自分たちの意志。生き残りはわずかで、ほとんどが死んだ。生き残ってしまったことは、彼らの上に罪悪感として重くのしかかる。


 そこへ情報収集に出かけていたユグルが帰ってきた。

「やっぱり、帝国兵が向かってきてる。占領されたら封鎖されるかもしれないし、俺たちも街を出た方がいいよ」


「俺たちは残る。ここで死んでもいい」

「おい、今更何言ってんだよ!」


 涙ながらに頑ななギレスに、ユグルが食ってかかる。

「一度逃げ出しといてやっぱりやめるなんて、そんなバカな話があるか! 最後まで逃げろよ!」


「ずっと外にいたお前らにはわかんねえよ! 故郷と家族が蹂躙じゅうりんされるのを目の前で見せられて、同じ苦しみを味わった同士を殺された。…もう生きる必要なんかねえよ」


 うなだれるギレスは、この五日間ほとんど食べ物を口にしていない。ユグルが拳を震わせる。


「覚悟して逃げ出したんじゃねえのかよ! 生きたいと思うのは人間の本能だ。俺は逃げたことを恥とも罪とも思わない。それ以外に、俺たちに何ができるっていうんだ?」


 そしてユグルの目からも涙が伝う。

「俺は医者だ! 死にたいっていうあんたたちを見過ごすことはできない。薬打って気絶させてでも連れ出してやる!」


 臨床に興味が無く、医学は知識欲の対象でしかなかったはずのユグル。それが自分は医者だと、人を救いたいのだとはっきり訴えた。


 それだけ悔しくてやりきれないのだ。善良なみんなが死んだのに、なぜ自分だけが生き残ってしまったのか。殺された仲間や母や兄たちが一体何をしたというのか。ユグルの涙は決して見せかけではない。


「一旦落ち着こう、ギレスもユグルも」

 フィストは言ったが、既にユグルはしゃくり上げている。


「フィスト兄、聞いて。リリーが死んだよ」

「…え」

 街に帝国兵が迫っていると聞き、ユグルにリリーの様子を探らせたのだ。


「店主に直接聞いたから間違いない。馴染みの客とトラブルになって、絞殺されたって…。一昨日、共同墓所に埋めたって…」

 リリーが。ついこの間まで懸命に生きていたリリーが。


「ハハッ…死ぬ思いで戦争を生き抜いたのに、痴話喧嘩で殺されたって? そんなバカなことがあるか」

 まるで笑い話じゃないか。アルドマン家の嫁が、葬式も挙げてもらえずに共同墓所に放り込まれたって。


 かわいそうなリリー。だが不思議なほど悲しみも、凶行に及んだ男への憤りも感じない。乾いた心でただ現実を受け入れるだけだ。葬儀を執り行う聖職者として幾度となく触れてきた他人の死と同じ。矢で人を射たのと同じだ。


 こんな時でも涙の一粒すら湧いてこない。自分だけなんの苦痛も無しに生き残り、懸命に生きる周りの人たちがどんどん死んでいく。

 ———まるで死神だ。


 泣きじゃくるユグルとギレスに、涙を堪えるベルントと仲間たちに、何をしてやれようか。どんな言葉をかけられようか。


 聖堂の鐘が鳴る。それは午後三時を告げる音だった。

 喜びの時も、悲しみに暮れる時も平和な時もそこにある音色。普段音としてすら認識していなかったフィストの耳に響いて、すっと背筋が伸びる。


「祈ろう」

 フィストは言っていた。


 みたま送りに使う香炉はない。どころか、法衣も教書もロザリオすら持っていない。帝国兵の頭を矢で射た時から、いや、もっと以前からフィストに神はいなかった。


 しかし、弓矢のように真一文字に十字を切る指先には確かに何かが宿っていて、その場にいた者は目を離せなくなった。


「いとし御子は吐息して 糸杉の陰にただひとり 

 あつい涙のしたたりは 硬い岩をも溶かすまで

 小さな声は 天を震わさん」

 

 教書648番、みたま送り。


 普段のフィストからは全く想像できぬ張りのある声。その朗々と太く豊かな波に包み込まれて、全員が聞き入った。涙を拭い、手を組んで目を閉じ、一心に祈る。


「糸杉の枝をかんざしに 咎めなさるな 

 罪はわたしにあるものを 

 その腕に抱く 悲しみは」


 今まで、魂送りなど教会のおごりとしか思っていなかった。勉強して司祭セルになれば異界テングスが見えるようになるわけではないのに、死者へ道標を示す聖職者という存在など、俗世の権威以外の何物でもない。


 ボクは死者の道標なんかじゃない。司祭セルは神の代弁者なんかじゃない。

 どうか、生き残った彼らのことを許してほしい。死者の無念は、悔しさは、恨みは、彼らにではなくボクへ向けて欲しい。


 誰だって許されたいし、願いたい。だから人は教会に行き祈り、懺悔する。

 けれど許しは他者から与えられるものではないのだ。神が語りかけてくることはないし、許しを授けてくれるような奇跡は起こらない。


 だからボクは、神ではなくここに生きる人の代弁者として祈ろう。死者の無念と責めを受けよう。人が人を許せるように。自分が自分を許せるように。


「暁の光に迎え 許しを与えたまえ 

 永遠の安息を 道の先に与えたまえ 

 絶えざる喜びで 照らしたまえ」 


 フィストの額から汗が伝う。骨張った首にはくっきりと筋が立っている。こんなことは初めてだった。

 生者の祈りと死者の無念。間に生きる者として、神のためではなく残された人のために祈りたい。死者のために声の限りに届けたい。どうかこの声を聞いてほしい。


 ———リリー、聞こえてるか。


 歌のようとか海のようと比喩される緩急をつけた独特のリズムは、旅籠から外へと溢れ出し、道行く人すらも足を止めしばし祈りを捧げている。

 誰に向けられたわけではないその祈りは人々のやさしさであり、フィストの声と一つになるのだった。

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