7 震える弓弦

 裏門が開くと、堰き止められていた水が一斉に流れるように虜囚たちが飛び出し、獣道を割って進む。背後からオレンジ色の無数の篝火かがりびが追ってくる様は、目がいくつもある巨大な怪物が迫るようだ。


 本来、宗主国の帝国は敵ではないはずだった。しかし掠奪さえ容認せねばならず、歯向かえばこうして事実ごと潰される。

「望まぬ戦に駆り出された結果がこれだ。国王は何一つ分かっちゃいない」

 同じ方向へ走るベルントは吐き捨てるようだった。


 属国にならなければ、小さなブレア国は帝国の前に完膚なきまで叩きのめされる。勝ち目のない帝国と戦うか、それとも属国となりヘルジェン王国と戦うか。どちらもブレア国にとっては望まぬ選択だった。

 厳しい選択を迫られたブレア王は帝国へ無条件で降伏し、属国としてヘルジェンとの戦を始めたのだ。

 

 フィストは関心がなかった。聖職者の自分が徴兵されることはないし、家族の死やリリーが身を落としたことを知ってなお、心に変化はない。だからこそ思う。


「そうかな。こんな状況でも、きっと帝国に屈さず活路を拓く方法があるから考えようって、猶予を作ったんじゃないかな」

 そう考えれば、国王の選択も決して悪いだけのものではない。


 そんなフィストをベルントは鼻息で吹き消すようだったが、二人で殿しんがりについて弓を引く。


 黒い装備の帝国軍は篝火に照らされ、闇に浮かぶようだ。が、それにしてもシルエットまではっきりと見える。自分の視力が異常に良いのは自覚していたが、ここまで夜目がきくとは思っていなかった。


 天気は快晴、僅かな向かい風。弓を引き絞る。狙いを定める。

 使い込まれた弓には代々受け継がれた癖があるもので、こいつは跳ねっ返りの強い男勝りな奴だ。


 さあ、撃ってみるがいい。お前がどれほどのものか試してやろう。よく磨き込まれた木面の流麗な艶で挑発される。

「見た目は女、中身は男か。気に入ったよ」


 弓と、フィストの呼吸が重なる。まるで自分の腕の延長のような感触。指を離れた矢は思い描いた通りの軌道で飛んでいく。寸分の狂いもない。狙撃手にしか味わえぬ、いつまでも見ていたい一瞬。痺れるような快感とともに、矢は帝国兵の頭から首へ降りていった。


 ぐずぐずするな、さあ次だと、ぴんと張った弓弦が震える。こいつはまるで傭兵だ。

「畏れを知らない傭兵だね」


 フィストの指は流れるように次の矢をつがえ、二射、三射と放つ。弓と矢、風とが一体化した完璧な狙撃。狙われた者は逃げる術もなく、恐怖におののく間も無く、永遠に意識を失うのみ。


「すげえな。これであんた兵士じゃなくて司祭セルなんだろ」

 隣で弓を放つベルントが思わず感嘆するほどの命中だ。

「ボクは遠くがよく見えるんだよ。キミこそ、食事を運んできた奴を仕留める手際は見事だったな」


「訓練はどれも真面目にやったんだぜ。親きょうだいを守りたくて徴兵に応じたのに、戦場から脱走して故郷に戻ってみたら家族は全滅してたけどな」

「今役立ってるんだからいいじゃない」


 撃っては走り、また撃つ。また走る。しかし確実に倒しているはずが、追っ手は逆に増えていた。


「ぐあっ…ああぁっ!!」

 走るベルントが背に銃弾を受け、転倒する。右肩からじわりと赤が広がる。

「しっかりしろ」

 フィストはベルントを支え起こして走り続ける。


「痛い…痛いな。これ死ぬんじゃないか」

「キミは運が良いよ、ボクの弟は名医だからね。そこまで連れて行ってやるから持ち堪えろよ」

 痛みと出血で震えながらベルントは笑った。


「なあ、俺が死んだら、みたま送りしてくれるか。この世とあの世の間で迷子になるのは嫌だ」

「ヤダよ。ボクだって死ぬかもしれないし」

「あんたも司祭セルのくせに不運だな。行いが悪かったのか?」

「真面目に働いてるはずなんだけどねぇ」


 銃声は止まず、すぐ横を矢がかすめていく。これが殿しんがりの役目だ。ユグルは、バールは、他の皆はもう逃げただろうか。


「あっ…! グゥッ…」

 今度はフィストが足を撃たれた。ふくらはぎがいうことをきかず、肩を貸したベルントともども斜面に転がる。

 背後に帝国兵が、死が迫る。


「はは…、死後の世界———異界テングスは本当に極楽浄土なのかな。こんな世界のこんな時代に生まれちまってさ、異界に行ったら思うように暮らせんのかな」

 ベルントの声がやけに軽快に聞こえる。


 司祭セルは死者の道標であっても異界を見ることはできない。異界は人が想像するような、甘く美しく緩い世界なのだろうか。


 よく磨かれた堅い木の感触が爪に当たり、はっとさせられる。弓の冷たさに頬を打たれた気がした。体を起こしざま、上半身だけで弓弦を引き絞り放つ。間一髪、目の前で剣を振りかぶる帝国兵の眉間を矢羽根が貫く。


「ここはまだ異界テングスじゃない。行くよ」

 この足では走れない。それでも足搔きたいのだ。ベルントの体を肩に担ぎ、激痛に呻きながら立ち上がる。


「もういいって…。俺のこと置いてけよ」

「逃げるよ。最後まで」

 前に進むが、下り斜面の傾斜がきつい。おまけに夜露で濡れていて、足を滑らせてしまった。


「うわあぁっっ!」

「フィスト兄!」

 ユグルの声がする。バカ、なんで逃げずにこっちへ向かってくるんだ。


 ベルント共々、斜面を転がり落ちていく。止まろうとしても掴めるものなどなく、爪と口に土が入るばかりだ。

 こんな風に転がってる間に岩なんかに頭を打ち付けたり、首の骨ゴキッっていったりしてさぁ———


 地獄に落ちるのはこんな感覚だろうか。地獄の味は血と泥臭いものだろうか。

 しかし待ってもその時は訪れず、やっと勢いが止まるとそこは、静かな窪地だった。


「フィスト兄! 生きてる?」

 上から滑り降りてきたユグルが、すぐに駆け寄る。

「ギリギリね。…ベルントは?」


 さほど離れていない場所に倒れているのを発見して、ユグルはすぐに手当する。

「大丈夫! 生きてるよ!」


 フィストはほっと息をついた。

 ユグルが手早く応急処置を済ませるのを見ながら、肩に担いだ弓が体から離れなかったことに気づく。あれだけ転がったのに不思議と汚れや損傷は一つもなく、次の獲物を今か今かと待ちきれずに胎動しているようだ。


 矢筒はどこかに転がってしまい、弓だけでは手負のベルントと共に逃げるには邪魔なだけだ。しかし捨てようとは思わない。


「死神エルデの武器か。いいね」

 聖神教徒なら忌語として口にすることすらはばかる名。聖者ピジウスの命を毒矢で奪ったという死神の名と共に、フィストは弓を担ぎ直した。

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