5 見せかけ

 一か月近く迷ってから休暇の申請をしてみると、「なぜもっと早く言わなかったのか」と即刻容れられた。それほど故郷が戦場になったというのは重大事象らしい。


 ユグルと二人、乗合馬車に揺られながら北へ向かう。


 この一か月間で状況は悪化していた。帝国丞相莱雁ライガンは生活物資や食料確保と分配に努め急激な物価上昇を抑えていたが、一方で戦費をあがなうため増税していた。これまで免税されていた宗教施設に対しても臨時課税する法案が可決され、フィストが所属する聖母大聖堂もその対象となったのだ。


「大学だって税金払ってるこのご時世、教会だけ無傷なんて国民感情が許すわけないよ。冠婚葬祭で儲かってんのにさ」

「どれだけ潤ってるのかボクは知らないけどさ、異教徒による冒涜ぼうとくだって主任司教ドルは頭抱えてたよ」


 聖神教は聖者ピジウスを神とする一神教で、世界中で複数の流派と複雑な教書を擁する巨大組織だ。しかしラム大陸の中央に広がる広大なザム砂漠、その南に鎮座する玖留栖クルス帝国本国をはじめ、砂漠以南で聖神教は盛んではない。主任司教が異教徒と言うのはそれである。


 治安が悪化しているので、野宿はせず旅籠はたごを経由しながらの旅程にした。襲撃されることはなかったがニアミスで何度か肝を冷やすこともあり、道すがら聞く噂話は国境近くの交易都市バルノーブがヘルジェンに降伏したとか、不穏な話ばかりだ。


「しんどいな」

 油断ならない旅は想像以上で、五日目の昼、ようやくシュヴァーゲン手前の都市エデルマットに到着した時には疲労困憊だった。


 予定ではすぐ馬を乗り換えて夕方にはシュヴァーゲンに到着するつもりだったが、一泊して翌朝出立することにする。

「なんか粗末な食事だね。ここ、エデルマットだよね」


 ユグルがつついているのはふかした芋にバターと、スカスカの根菜スープだ。エデルマットはこの地域の主邑しゅゆうで、地域の若者が目指す憧れの場所である。当然フィストらのエデルマットへのイメージといえばこんなものではなく、もっと色めいていた。


 今は帝国の補給地だから、物資や食糧はまず帝国兵が持っていく。市民に配給されるのはその後で、行き場のない住民の不満は料理の味にも表れているようだと感じた。

「仕方ないよ。でも思ったよりここは被害を受けてないみたいだな」

「うん。これならシュヴァーゲンも無事かもね」


『ヘルジェンの奴ら、住民にまで容赦なくてな。ほとんどが略奪にあって、殺害されたよ』

 シュヴァーゲンはエデルマットよりもっと国境寄りなのだ。傭兵団長クロムルトガーの言葉は、ユグルには伝えないことにしていた。


 食事を済ませ目抜き通りをブラブラし、日が暮れるとユグルは疲れたと宿に戻っていった。

 一人街を歩きながら、久々のエデルマットは素直に懐かしい。王都の人と店の密度に慣れてしまうと物足りなさはあるが、以前と変わらぬ街並みは波立つ気持ちを受け止めてくれるようだ。


「フィスト?」

 ふいに名を呼ばれる。斜め後ろを振り返ると、女の顔がぱっと笑い、走り寄って来る。こんなところで会えるはずがないから、一瞬誰だか分からなかった。


「来てくれたのねフィスト! 会いたかった…!」

 かつて魅了された何にも汚されぬ大きな瞳、どの角度から見ても綺麗な顎と首筋。彼女は唇を震わせてフィストの胸に飛びつく。


「…リリー、家は? マルク兄は?」

「無いの。もうなんにも無いの。マルクも、お義母さんも、私の家族もみんなみんな殺されたわ」


 フィストの服をぎゅっと掴んでリリーは泣き顔を押し付けた。着ているものはどぎつい色使いで安っぽく、まるで娼婦だ。フィストの知る彼女は裕福な家庭のお嬢さんで、決してこんな服は選ばない。


「私だけ生き残ってしまって、死体の中をさまよったわ。体に染みついた死臭が何日も離れなかった。私も死ねればよかったと何度思ったか…!」

 何も言えなかった。教書の中にそれらしい言葉はたくさんあるはずが、この時は一つも出てこなかった。


 外出時間が限られているからと、手を引き連れられたのは予想通り場末の娼館だった。手に職のないお嬢様が何のツテもなく一人で生計を立てようと思えば、体を売るしかない。


「私、騙されたのよ。こんなこと自分からすすんですることじゃないでしょう? けれど今は、これしか生きていく方法がないの」

 薄い壁の狭い殺風景な部屋。一つの寝台に並んで腰かけると、リリーは色っぽい溜息で自嘲した。


「私のこと軽蔑するわよね?」

「必死に生きてきたんだろ。恥じることない」

「ねえフィスト、助けてちょうだい」


 「そうしてあげたいけど、今のボクじゃキミを買い請ける金もないし、逃亡する手立てもないよ」

 娼婦は商品であり、本人の意志で娼館主の元を抜け出ることは許されないのだ。へんに期待を持たせたくなくて言ったが、リリーは傷ついたような目をした。


「そんなこと言わないで連れ出してよ。…本当はまだ怒ってるのね、私がマルクと結婚したから」

 ふわふわした手が重ねられ、フィストの指の間をなぞる。それから包まれて導かれた先は、高く盛り上がったやわらかな胸だった。上からぎゅっと押しつけられている。


 白い首筋と胸元に目が行く。あぁ、何度となく吸い付いたっけ。手の中に収まりきらない乳房の感触もあの頃のままだ。

 しかしもう何も感じない。いや、湧き上がるのは嫌悪感に近い。軽蔑するのは娼婦になったからではなく、もっと以前からだ。


「ボクは司祭セルだよ、結婚してキミを買い請けることはできない。他を当たってくれ」

 それだけ言うとスッと立ち上がり、小部屋を後にする。


「なによ身内のくせに人でなし! 自分さえ良ければいいのね! あんたの家はみんなそうよ!」

 きんきんした罵声にも振り返らず、急ぎ雑踏の中に身を浸した。


 嫌だった。この後に及んでまだ過去の男に助けを求める浅はかさが。身を落としてなお、体を使えば男が思い通りになると信じて疑わない浅ましさが。いつまでも人を見下し優位に立とうとする無意識のあざとさが。自分さえ良ければいいのはキミも同じじゃないか。


 あぁ、リリーが嫌いだ。大嫌いだ。やっぱりこんなところに来るべきじゃなかった。


「…なにが司祭セルだ」

 苦難の中で懸命に生きるリリーの前で、よくそんな欺瞞ぎまんを吐けたものだ。信仰心などこの体のどこにあるという。司祭セルだと誇りを持ったことが一度でもあったか。


 全て見せかけなのだ。フィストという存在全てが作りものなのだ。

 しかしリリーは、頭の上から爪先まで高みを求め自己愛に浸かりながら、今でも正直だった。望まぬ人生も全力で懸命に生きる女を軽蔑する資格など、自分にあるものか。


 やっぱり変わらない、胸くそ悪いだけの故郷だ。

 寒空の下、フィストは一人当てもなく歩いた。

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