4 弟の誘い

 インク壺にペン先をつけて引き抜いた時、引っかかった。

「おーっとっぉ!?」

 すっとんきょうな声で倒れたインク壺を受け止めるランコム。間一髪、下にあるのはまさに今ランコムが書き上げたばかりの死亡届だ。


「あ、悪いね」

「あ、じゃねえよ! 俺を殺してぇのかゴルアァ!? ぬああアァん?」

 その顔と巻き舌の怒声は完全に司祭セルどころかカタギですらない。


 死亡届は料金によって記載内容が異なる。ランコムが書き上げたのは最も高額なやつで、故人が産まれてから死ぬまでの出来事を親族から聴取し、びっしりと記載した力作だ。墓石にも刻まれるだろう。


 今日一日で何枚書き上げただろうか。ペンを持つ握力がおぼつかない程真面目に取り組んでいる。が、その実フィストはうわの空だった。

 傭兵団長クロムルトガーの話を聞いてから、ふわついてしまっている。


 シュヴァーゲン一帯は一度ヘルジェンに落とされたものの、その後帝国が奪い返し、現在は帝国の補給地として支配下にあるという。


 偶然出会った傭兵から故郷の名を聞かされるとは一体どんな思し召しだろうと、毎日夜明けから日没まで働きながら思う。これが、良い時も悪い時も使える聖職者の万能符”神のお導き”というやつか。


 そんな風にふわついていると、扉を開けた修道士に呼ばれた。

司祭セルフィスト、弟さんが見えています」


「ユグルが?」

 王都にいることは知っているが、互いに会おうとしたことなど今までない。


 インクで汚れた手を洗って大聖堂に向かうと、入り口近くで手を挙げるひょろっとした男の姿。弟のユグルで間違いない。

「どうしたんだ」

「へへ、フィスト兄どうしてるかなって」


 長兄に、そして母によく似た丸顔に浅くえくぼを浮かべる。

 ユグルは医学部だ。とっくに卒業単位は取得しているが、まだ大学に残って研究を続けている。バイトで生活費は稼いでいるらしいが、学費は実家負担である。


「なにがへへ、だよ。眠れてないし、研究も手につかないんだろ。女にフラれた? ちゃんと飯食ってんの?」

「…どうして分かったの?」


「医者じゃなくてもその顔見れば一発だよ」

 色つやが無い肌に目の下のクマ、剃り残しが目立つ髭。

「さすがフィスト兄。でもフラれたんじゃなくてさ、ダルトン兄が死んだよ」


 三男ダルトンは士官学校出のブレア軍将校だ。面倒見がよく、すぐ下の弟フィスト、ユグルと三人でよく遊び、勉強を教えてくれた。

 戦死まで含めて軍人の職務なのだと言えばそれまでだが、瞬時には割り切れなかった。


「遺体は戦場に埋められて、顔を見ることもできないんだけどさ。遺品だけ預かって、家の片づけしてきた」

 ユグルは形見の将校バッジを見せた。


 故郷が戦場になり家と家族を失う可能性を考えたダルトンは、王都にいる末の弟を引き取り人に指名したらしい。当時フィストはまだ故郷の教区にいたし、次男エミールは帝国に留学中だ。


「もう帰れないってわかってたんだろうな。ものを捨てられないあのダルトン兄が、家の中スッカラカンでさ」

「…言ってくれれば一緒に行ったのに」


「うん。だからさ、一緒にシュヴァーゲンに帰ってくれないかな」

 それは故郷の名だった。


「もう家も家族も無くなってるかもしれないだろ。一人で行くのは怖いんだよ。ダルトン兄が死んだって聞かされた時、俺なんか立ってられなかったけどフィスト兄は平気な顔してるもんな。神様がそばにいる人はすごいよね」


 怖いと、ユグルは素直に吐露してきた。それが昔から変わらぬ、この弟が人から可愛がられる長所だ。

「気持ちは分かるけど、見ての通り週7で働いてるんだよ。ボクだけの都合で決められないし」


 ユグルが一緒に行ってくれるならまたとない絶好のチャンスだ。だのに、これだけふわついているのに、どうしてもっともらしい理由をつけて断ってしまうのか自分でも理解できない。


「変わらないね、フィスト兄は。いつも他人のこと優先で」

「え?」

「なりたくもない聖職者になってくれたのは俺の為なのにさ」


「別に…。他になりたいものなんて無いし後悔してないよ。ユグルこそ人の命を救う仕事じゃないか」

 ユグルは首を横に振る。


「医者になろうと思ったのはさ、人を助けたいとか命を救いたいとかじゃないんだよね。人の体が何でできてるのかとか、病はどこから来るのかとか、そういうのを知りたいんだ」

 それで臨床はせず、未だに大学に残って研究に勤しんでいるわけだ。


「半年くらい前にさ、フィスト兄の大学で国外追放された教授いたじゃん。名前何だっけ」

「バルタザールだろ?」


 各大学の頂点は神学部である。医学や法学が台頭し始めてはいるが、それはまだ変わらない。司祭セルになるには国家試験があるが、医師や法律家にはないのが証拠だ。


 バルタザール教授は神や精霊を否定し、人の手で不老不死を得ようと自らの教え子に人体改造を施したため、異端者として国外追放された。母校では大きなニュースになったが、卒業して何年も経つフィストにはさして興味を引く内容ではなかった。


「そうそう、バルタザールに近いかも。そういうの追い求めちゃうの、なんか分かるんだよね」

「それ聖職者の前でいう? 異端にするよ」


「だから医者になったのは人のためじゃなく自分のためなんだよ。俺たち兄弟みんなそうじゃん。でも人のために告解聞いて、葬式上げて、ミサやってるのフィスト兄だけだよ」


 要するに、一家揃って他人に関心が無い。自分が一番大切。自分さえ良ければいい。フィストとて自身も例外ではないと思っている。他人の告解を聞いても何とも思わない。適当な言葉を教書から引用して、終わった瞬間には聞いた内容もろとも忘れている。


「じゃ聞くけど、ボクにどんな他の道があったと思う?」

「フィスト兄は弓が好きだからな、ハンターとか」

「そんなワイルドじゃないよ」


「じゃ傭兵団長クロム

傭兵団長クロム? 軍人じゃなくて?」


「うん。ダルトン兄みたいな逞しい将校じゃないし、一兵卒ってガラでもないだろ。だから傭兵団長」

 思い浮かべるのは傭兵団長クロムルトガーの、一寸の畏れもない剣筋だ。


 雑談の後、最後に「休暇のこと考えてみてよ」と言い残し、ユグルは去って行った。


 ———フィスト兄は平気な顔してるもんな。神様がそばにいる人はすごいよね。


 神サマなんかじゃない。リリーと長兄の結婚式以来、心のどこかに残っていた扉はとうに閉じて沈んでしまったのだ。もう自分から開くことはできない。

 出世にも恋愛にも、そして人間というものに興味が持てなくなった。だからひたすらやじりを削っている。


 どうせシュヴァーゲンに行ったところで何も感じないだろう。それが怖かった。

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