君に会えた

 赤子の泣き声でマンフリートは目を覚ました。馬車に揺られながらすっかり眠っていたようだ。

「そろそろお腹が空く時間ね」

 目的地にはもう少しで到着するが、マンフリートは馬車を停めるよう命じた。


 泣く子をあやす妻イシュタルの隣で乳母が取り出すのは哺乳瓶という見慣れぬ形状のものだ。

 イシュタルは母乳の出が良くない。乳母の乳を吸う我が子を離れたところで眺めるイシュタルの姿に、軍事顧問で発明家のバルタザールが開発したのがこれだった。


『母乳に含まれる成分を他の食材で代用したよ。いろいろ掛け合わせて栽培してね。あっためるだけでいいから手軽だろ。『鋼鉄のヴェンツェル』を超えるアタシの叡智の結晶さ。だからもうそんな顔すんじゃないよ』


 しかも、これならマンフリートでも授乳することができる。初めて与えた時には我が子の愛おしさに震えるほどで、母親というのは授乳のたびにこんな幸せを噛みしめているのかと心底羨ましく思った。


 それを妻に伝えたところ、「こっちは眠くても疲れていても昼夜関係なしの三時間おきに授乳なのよ」と超絶不機嫌な顔で刺された。


 悪気など一片もなくとも、産後の女性は被害的に受け止めるものだから発言には気をつけなされと、腹心の爺ことゴーラルに耳打ちされる。夫の主張などしてはいけないらしい。


「兄が亡くなってから、もうすぐ二年になるのね」

 すっかり飲み終えた息子アレクサンダーの背中を叩いてゲップをさせながら、イシュタルの言葉には重みがあった。


 兄王アドルフが戦死したバルフ平原の戦いより二年———。今日はブレア国との和平条約調印式だ。


 元々、マンフリートの祖国ブレア国とは友好的な関係だった。しかし大陸の南方から攻め上がって来た玖留栖クルス帝国がブレア国を属国にしたことで、ヘルジェン王国の命運は一変したのだ。


 アドルフが戦死した日、ガロンが持ち帰った遺体にすがり付いてイシュタルは泣いた。一晩中泣き明かした。

 しかし夜が明けると化粧をして、女王の顔になった。それから働きづくめだったのだ。妊娠が発覚したのはそんな折である。


『妹と子を成したら結婚させてやる』

 生前そう告げた非常にうざったい小舅は、詳細な遺言を残していた。すなわち、全国民の前で求婚せよと。


 かくして王城のバルコニーで国民に見守られながら、マンフリートはひざまづいて婚約指輪を捧げた。おかげで国中が祝宴ムードに包まれ、敵国王子に寝取られたなどと言う者はいない。


 更に産まれた王子が『煉海クオリアの王』アドルフの生き写しとくれば、もうマンフリート王配万歳だ。


「早いものだな」

「『鋼鉄のヴェンツェル』に、あなたは会ったことがあるのでしょう?」

 イシュタルが兄の仇の名を口にしたのは初めてだった。


「ああ。そなたは恨んでいるだろうな」

「兄は戦場で死ぬことを望んでいました。ヴェンツェルという傭兵のことは仇と恨む気持ちはありますが、感謝するような気持もあります。不思議ですが」

「男なのか女なのか敵なのか味方なのか、とにかく他に見ないような奴だったな」


「戦後は行方知れずのようですね」

「ガロンに探させればよいだろう?」


 イシュタルは答えずに、スープに浸したパンをアレクサンダーの口に入れた。小さな手を伸ばして、もっとちょうだいと必死だ。

 見た目はイシュタルというかアドルフそっくりなのだが、全体の雰囲気は自分ではなく、なんとなくフェルディナントに似ていると思う。


 共に調印式に臨むブレア国王フェルディナントは、マンフリートの双子の兄だ。


「あなた、フェルディナント陛下ときちんと話をなさってください。この機会を逃したらきっと後悔します」


 分かってはいるが気が進まない。

 幼い頃は何をするにも一緒だったのに、身長が伸びて声が変わった頃から互いに避けるようになっていた。そしてマンフリートは敵国ヘルジェンに加担し、クーデターを起こそうとさえした。


 しかしフェルディナントはそれを処断しなかった。まるで帝国抜きの二国間で和平を結ぶこの時を見据えていたかのように———。


「いや、見据えていたのはフェルデだけじゃない」

 それは他でもない、アドルフだ。


 二十代独身だった妹を『政略結婚に使うつもりはない。嫁の貰い手に困っているのだ』とか言いながら、本当は本人が好いた相手と結婚させたかったのだろう。女王の婚姻を国民から祝福されるものにするため、わざわざ求婚パフォーマンスをさせたのも作戦だ。


 再び馬車が走り出す。既にブレア国側は会場のシュヴィ城に到着しているようだ。


 調印は外務大臣ではなく元首間で行いたいと、それがフェルディナントが示した条件だった。そのためにイシュタルの出産を待ったほどで、調印式をブレアとヘルジェンの新しい歴史の始まりにしたいという強い思いに、イシュタルも賛同した。


 支度を整え定刻になると、二人は腕を組んで調印の間へ向かう。さほど広くない部屋の反対側の入り口から、ブレア国王夫妻が現れた。

 にこやかな表情にマンフリートと同じ水色の瞳で、フェルディナントは握手を求めた。


「お会いできて光栄です、イシュタル女王陛下。ご出産おめでとうございます」

「此度のお計らい、何から何まで痛み入ります。陛下のお気持ちは大変嬉しく存じます」


「一つ提案ですが、私たちは義兄妹きょうだいでもあります。堅苦しいのは抜きにしませぬか」

「陛下がそう仰るのでしたら、喜んで」

 フェルディナントは安心したように微笑むと、マンフリートを向いた。


「息災そうだな。これほどお美しい方を奥方に、子宝にも恵まれるとはこの幸せ者が」

 忘れていたわけではないが、イシュタルは芸術品のような美女である。ついでに兄のアドルフも超絶イケメンで、未だにぶろまいどの売り上げは右肩上がりなのだ。


「クリスティーナこそ変わらないな。四人産んだとは思えないよ」

「あら、嬉しい」

 顔をくしゃっとさせて屈託なく笑うフェルディナントの妻クリスティーナは瑞々しい小麦色の肌の、玖留栖クルス帝国皇族の娘だ。


 イシュタルが緊張していた。和平なのだからもう敵味方も勝者敗者もないのだが、自分だけが敗者のように感じたのかもしれない。席に着くまでの間マンフリートがそっと手を握ると、イシュタルは手を添わせた。


 調印式は、これもフェルディナントの計らいで簡素化されすぐに終わった。晩餐会までには時間があるので、軽食と飲み物で和やかな談話となる。場をリードするのはクリスティーナだ。


「女王陛下は育児をご自分でなさっていると聞きましたが、子育てをしながらの公務は大変でしょうね」

「ええ。けれど子供と離れている方が落ち着かず逆に周りに迷惑をかけてしまうので、執務室で一緒に過ごすことにしています」


「重臣のゴーラルなど、すっかり子守じいさんだからな。甘やかしてばかりで」

 もちろん今回も同行している。それはもうかわいくてかわいくて食べてしまいたいほどで、いかめしい人相まで変わってしまった。


「母乳の出があまり良くなくて…。母としてこんなこともできないのかと情けなくなります」

 えっ、とマンフリートはイシュタルを向いた。彼女が初対面の相手に自分の弱みを晒すなど、今までなら考えられなかったのだ。


「思いつめることはありませんわ。私も体調が優れない時期があって、ほとんど乳母の乳で育った子もいますけれど、四人とも皆元気に育ってくれてそれで十分だと思っています」

 クリスティーナは続ける。


「出産の時はどうでした?」

「難産で、五十時間かかりました」


「まあっ! イシュタル陛下、少し外を歩きません? たまには女同士で話してスッキリしましょう」

「ぜひ。相談させてほしいことがたくさんあります」


 イシュタルは嬉しそうに立ち上がる。同じく立ち上がったクリスティーナはマンフリートと目が合うと、一瞬ウィンクしたように見えた。どうやら考えていることはイシュタルと同じのようだ。


 アドルフが憎んでいた帝国。その娘と妹が子育て談義でにこやかに並んで歩いていく。アドルフが見たらどう思うだろうか。


 部屋にはフェルディナントと二人きり残された。互いに目を合わせようとせず、不自然な咳払いと茶をすする音だけだ。


「…息子を連れてきた。今は寝ているから、後で会ってほしい。お前に似ていると思う」

 まずは一つ伝えることができた。


「お前ではなくおれに?」

 フェルディナントは二人で話す時の砕けた口調になる。

「一番上の子が産まれた時、おれも自分よりお前に似ていると思った。不思議なものだな」


「二つ目だ。行方知れずの『鋼鉄のヴェンツェル』はどうした。帝国が身柄引き渡しを求めていただろう」

「女王とお前にとっては兄王の仇だな。探っているのか?」

「オレも彼女もそんなつもりはない」


「とうに解雇したし、おれも知らぬのだ」

「あれほど重用していたのにか?」

「殴られてケチのばかやろう呼ばわりされたからな」


 嘘だな。

 フェルディナントはあの傭兵に並ならぬ思い入れがあった。これ以上追及はしないが、嘘をつくと鼻先を指でつまむ癖は変わっていない。


 すると隣室から赤子の大きな泣き声が響く。二人は顔を見合わせた。戦闘開始だ。

「母上はお散歩中だからな。アレクサンダー、おまえも男だろう、今は我慢だぞ。痛、いたた」

 抱き上げたマンフリートが気に入らないらしく、容赦なく髪を引っ張り顔を叩いて泣き叫ぶ。


「おむつじゃないのか?」

 フェルディナントに言われて触ってみると確かに濡れているし臭う。再度寝台に寝かせて乳母にバトンタッチしようとすると、「おれがやろう」とブレア国王が新しいおむつとお尻拭きを手にした。


「お前そんなことできるのか?」

「一応四人分替えてきたつもりだ。やり方は万国共通だろう」

 言いながら、衣を脱がせてうんちがついたお尻を拭いていく。その手際の良さに思わず乳母が拍手したほどだ。


「こうして替えている最中にまたオシッコするのだよな。おれは全員にひっかけられたよ」

 乳母がクスクス笑いながら、汚れたおむつを受け取る。


「人生にそう何度もあることじゃないから何事も経験だと、父上もおれたちのおむつを替えていたそうだぞ」

「父上が?」

 ブレア王家が子育てに積極的だったとは初めて知った。


「七か月だと首はもうすわっているよな?」

 マンフリートが頷くと、フェルディナントはまだぐずっている息子を抱き上げる。

「ほうら、よしよし、そうだ、ん、泣き止んだな。いい子だ。そなたの父と同じ匂いがするかな?」


 それから脇の下を両手で支え、高い高いをしてやると、キャッキャと楽しそうな声で満面の笑みになる。

 もう一度優しく揺らしながら腕に抱くと、フェルディナントの目の端から涙が伝った。

「…かわいいな」


 兄のこんな笑い顔は初めてだった。

 互いにずっと川の対岸を進むのだと思っていたが、橋を繋いでくれたのは息子だ。


「会わせてくれて感謝する。この子と我が子が争う姿など見たくはないな」

「…あぁ、そうだな。オレたちは親世代から戦を継承したが、今度は平和を渡したいものだな」

 

 『子を成せ』とあの小舅が言ったのは、ヘルジェン王家の血を絶やさないためだけではない。

「お前が探ろうとしていたアドルフの肚の中とは、こういうことか?」


「だろうな。これだけで終わるとは思えぬが」

 そうしているうちに、またアレクサンダーがぐずり始めた。母親がいない事に気付いたらしい。


「マンフリート、何か食べ物はないか? 腹を満たしてごまかそう」

「任せろ、これだ」

 得意げに取り出すはあの哺乳瓶だ。


 きょとんとしたフェルディナントに授乳スタイルを見せつけてやると、「何だそれは、おれにもやらせてくれ!」と寄ってくる。

 それはまるで幼い頃と同じで、自然にマンフリートは笑えていた。

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