7 孤狼の爪
冬の闇は足が速い。黒々とした林が茂る道で視界に馬車を捕らえた時、辺りは既に暗くなっていた。
「敵は十五人。馬車ごと奪い返すぞ」
疾駆したまま馬上でヨハンが抜剣すると、ヴェンツェルも続く。すると向こうで銃声が響く。「この暗がりでどこ見て撃ってるんだ、弾と火薬の無駄遣いだな」と、金に苦労しているヴェンツェルが呟いた。
馬車の周りを走る十名ほどの傭兵たちが反転し向かってくる。ヨハンが進路をずらさずにすれ違いざま刃を振るうと、二人が崩れ落ちた。
ヴェンツェルも剣を振るうが、同じようにはいかない。受け止められ、しかも敵の方がパワーがあり、バランスを崩した。
そこへ剣が振り下ろされる。狙いは防具の無いヴェンツェルの肩。しかし刃は体に入っていかず弾き返す。目を見張ったのは敵だけでなく、ヨハンもだった。
「なっ…! なんだこいつ!」
何かの間違いだともう一度同じ攻撃をしてくるが、二回も受けてやるほどお人好しではない。次は剣で打ち返し、体に刃を突き立てたのはヴェンツェルの方だった。
「おまえの方こそ、その鋼鉄の体を破るにはどうしたらいいんだ?」
「あんたと違って弱点はあるさ」
なるほど、腹にだけ防具を巻いているわけだ。
再び前を見据えると、ヨハンはひらりと馬から飛び下りた。
視覚に
急停止したヴェンツェルが見たのは、ひと続きに流れる動作で四人の敵が次々と止めを刺されていくところだった。まるで音すらも静止したような一瞬。
「これがあんたにしか見えない
「いいから、早く馬車を」
言われて、慌ててヴェンツェルが馬を駆り離れていく。
ヨハンの刃がギラリと閃き、濃厚な血の匂いが充満していく。
戦場では、相手の息の根を止めるのは一瞬でやることにしている。それは今でも敬愛する、最初に雇ってくれた
だが束の間の安らぎを永遠に奪われた今のヨハンには、躊躇する理由など何も無かった。思うがままの殺戮に身を浸し、気が済むまで苦痛を味あわせる。
善良以外の何者でもないエッダが殺されたのだ。苦しんで死んだのだ。恐い思いをして、助けを求めただろう。
許す余地などどこにもない。それ以上の苦しみを与えなければ気が済まない。
折り重なる死人を見下ろすと、ふいにどろりと濃密な空気が重たくまとわりついた。
「
俺を、その舌で絡め捕ろうとしている。足が沈み込んで動かない。ずっと侵入を拒み続けてきた極彩色の暗い森が、その口を開いている。親きょうだいを失ったあの時と同じ、両手よりも大きな花が甘美な香りで誘い、掻き切られ抉り出されたこの胸に癒しの手を伸ばす。
なぜ、どうしてエッダが、俺の親きょうだいが殺されなければならなかったのか。誰に問うこともできないその答えが、暗い森の先で待っている気がする。
すると植物が足に絡みつてきて、ずぶずぶと引き込まれていく。黒い葉が足に生い茂り、上肢へと向かってくる。心地よくて目を閉じた。このまま連れて行ってほしい。
「ヨハンッッ!!」
声がした。何かを叫んでいる、うるさい奴だ。
仕方なく少しだけ目を開けると、こちらに迫ってきているものが見えた。ゆっくりと流れて来るのは銃弾か。だがどうにかしようという気は起こらない。このまま一直線に体を貫いて、たくさんたくさん血が流れ出ればこの胸の痛みも終わるだろうか———
だが、弾丸よりも先に体がぐらりとして、固い地面に肩を打つ。体に巻きついた植物は砂になって消え、重たい空気が煙のように散開して
「…ヴェンツェル!」
代わりに銃弾を受けたのは、ヴェンツェルの体だった。
発砲した男の姿を視認すると、体の中が瞬時に沸騰したようになる。怒りが全身から立ち上るのが自分でも分かる。立ち上がったヨハンの姿に、男は一目散に逃げだした。
「逃がすか」
この手で殺してやる。
だが駆けだそうとしたところを、後ろから引っ張られた。
「…ッ、子供たちはみんな無事だ。だからもうこれ以上やめろ…っ!」
血の匂いに染まったヨハンの服の裾を掴んで離さない。自分が死ぬかどうかの時に、こいつ何をしてる。
「動くな、撃たれたんだろ———」
「私なら平気だ! それよりこんなあんたをっ…、血に染まったあんたの姿を子供たちに見せたくない…! だからもうやめてくれ」
改造手術により強化され増加した骨がバキバキに詰まっている体だというが、銃弾が直撃したのだ。
しかし眉間は険しいものの話す口調はしっかりしているし、撃たれたにしては出血が少なすぎる。これから死ぬ人にはまず見えない。
「…人間か?」
「お互い様だ」
即答で歯を見せて笑う。おまえ、今笑えるような状態じゃないだろうに。
すると虚空へ向かう嵐のような感情が、ふっと風が止んで鎮まるのを感じた。
「子供たちはみんな無事だよ。恐がってるから、あんたの顔を見せて安心させてやってくれ」
笑い顔を見せながら、しかし痛みに呻いて撃たれた胸をつかむ。体は強化されても痛覚まではそうはいかないようだ。
「つかまれ」
肩を担いでゆっくり立ち上がる。馬車の檻からは数名の子供が顔を出してのぞいているが、一人が駆け出すと後から後から続いてくる。
「ヨハぁぁン! 怖かったよおぉ!」
「うえぇーえぇん!」
「大丈夫、もう大丈夫だ。みんなよく頑張ったな。遅くなってすまなかった」
一人一人を抱きとめて、怪我がないか確かめていく。
「トーゴ、小さい子を守ってくれたんだな。よくやった」
噛み付かんばかりの目で年少の子を庇って立ち向かう姿が、子供たちの記憶から読み取れる。
「あいつら、チビたちだけ連れて逃げようとしたんだ。その時ヴェンツェルが助けてくれてさ。自分より大きな男たちを一人でどんどん殴り倒してって、ほんとにすごかった」
続く言葉をその目が語る。ヨハンはトーゴの頭に手を置いて微笑んだ。
「なれるさ。おまえなら必ず」
「…そうかな?」
「俺にはわかるんだ」
トーゴははにかむように、けれど嬉しそうに笑った。
「ねえ、ヴェンツェルは大丈夫なの? 血が出てるよ?」
割り込んできたターニャが瞳を揺らす。
「平気だよ。このくらいじゃ私はびくともしないさ」
馬車に寄りかかってターニャに向けた顔は笑っているが、額には冷や汗が浮かんでいる。
「早く手当てしなきゃならないな。すぐ帰ろう。トーゴ、手伝ってくれるか」
傷口を圧迫して応急処置だけ済ませると、ヨハンはトーゴと御者台で馬車を走らせた。
教会に帰り着くと、全員を抱きしめたクロードは泣いて感謝した。
「村のみなさんが手伝ってくれたんだよ」
クロードは折られた足に添え木をして車椅子に乗っている。そしてエッダの遺体は清めて棺に納められ、聖堂に安置されていた。
今夜はみんなでエッダのそばに居ようと、クロードと子供たちは聖堂に毛布を持ってくっついている。
「手当するから服を脱げ」
怪我人を連れて狭い部屋に戻ると、ありったけのろうそくやカンテラを灯す。
「いいよ。自分でやる」
「ばか言うな。自分の体から弾を取り出すなんて拷問できるわけないだろう。早くしろ」
寝台に腰かけたまま、ヴェンツェルは口を尖らせた。
「いやだ。こんな近くで見られたくない」
「はあ? そんなこと言ってる場合じゃないだろう」
「断る」
「いいかげんにしろ」
「いやだと言ったらいやだ」
だんだんイライラしてくる。
「おまえだって俺の見ただろう! しかも気絶してる間に!」
ヨハンの傷は太腿の付け根だった。
「あんたのなんか見たって一つも嬉しくない」
「俺だっておまえのなんか見たってこれっぽっちも嬉しくない。軽傷だからと放っておいた傷が後からひどく膿んだり、悪いものが入って手遅れになる事もあるんだ。傭兵なんだから体が資本だろう。傷をなめると後悔するぞ。それとも銃弾入れっぱなしで何日か後に死にたいんなら、迷惑だから今すぐ出ていけ」
「…そうか。わかった」
どの部分に納得したのか不明だが、痛みに顔をしかめながら服を脱いで仰向けになる。傷口は右胸だった。強い酒で手を拭う。
「いくぞ」
傷口から弾を取り出すのは、する方もされる方も苦行である。ヴェンツェルは目をつぶり最初は我慢していたが、徐々に歯の間から悲鳴が漏れてくる。
「いぃあぁぃぃっ…っ! まだなのか!」
「もう少し、あと一回で取れる」
「それさっきも言ってた!」
やっと弾を取り出し縫合が終わった時には、お互いぐったりだった。そして必死で治療したとはいえ思いっきり乳房を掴んでいたことに気付き、紛らわそうと話題を探す。
「敵を素手で倒したらしいな。おまえの拳は本当に鉄より硬いのか」
「子供たちの目の前で、首や腕をはね飛ばすわけにいかないだろう」
ヴェンツエルがゆるゆると突き出してきた拳に拳をぶつける。軽く当てただけなのに、レンガ壁にぶち当たったくらいの抵抗を感じた。
「しかしいくら鋼鉄の拳とはいえ、殴った方だって痛いだろう」
「今の治療の方が最強に痛かったさ」
ヴェンツェルはエッダから借りている小さな
「けどな、私の痛みなんてあんたに比べたら屁でもない。家族を失ったんだ、平気じゃないのはあんたの方だろう。だから銃撃を避けようとしなかった」
はっとする。
あの瞬間、
「ばかか。俺なんかのために身を呈する奴があるか」
「言葉を返すがな、あんたを死なせてたまるか。子供たちも、クロードですらあんたを拠り所にしてる」
「俺がいなければ孤児院は成り立たないからな」
「金の話じゃない! あんたそんなことも分からないのか! 人の心が読めるくせに」
ヨハンは言葉に詰まった。
「どんなに人の血に汚れても、クロードとあの子たちにとってあんたは群れを守る
ジジッとろうそくの芯が燃える音以外、何も聞こえない。穏やかで温かなヴェンツェルの静けさは
「裏切りまみれの非情な獣なんかじゃない。凍える森の中で、たとえ独りでも群れと縄張りを守るために戦う。それが『孤狼のヨハン』だ。他の誰がなにを言おうと私はそう思う」
迷いなく言い切る。
「だから死なせないよ」
ヴェンツェルの手が髪に触れ、腕の中に包まれていた。
それは静かで嘘偽りない、心からのやさしさだ。ヨハンには分かる。
本当は怖いのだ。クロードや子供たちが無条件に必要としてくれるのが怖い。ずっと前に家族を失った時のように何もできないのが怖い。いつか失うと思うと怖い。
けれど裸の胸どころではなく、
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