6 凍る夕日
落葉してほとんど枝だけになった木が茂る森は一見死んだようで、しかし目と耳をよくすませば生き物の息遣いを感じることができた。こちらは息を殺して、死んだように待つのだ。
冬山に慣れているどころかむしろ好んで一人サバイバルするヨハンに対して、寒くて歯が鳴りそうなヴェンツエルはずっと不機嫌だった。
「寒い。こんな状態であと何日もなんてもう発狂しそうだ。寒いし。寒い」
毛皮を被り、藪に潜み、口にするのは最低限の水と携帯食だけ。その一瞬のためだけに時を忘れて待つ。
「もう無理だ。やっぱり私には向いてない!」
この三日間で何度聞かされただろう。うざったいので交代で休みを取り極力顔を合わせないようにしているが、いい加減にしてほしい。
「
けれども、寒さの中ただじっと待つというのはヴェンツェルには耐え難いようだ。
その時、銃声が二発響く。仲間の誰かだろう。
「近いな」
方向を定めるとヴェンツェルは迷わず駆け出した。よほど走りたかったと見える。
嬉々として前を行くヴェンツェル、その先では仲間のハンターが三頭のヤンガルに襲われている。
ヤンガルとは中型犬サイズの四つ足に翼を持たせたような獣で、性格は極めて凶暴だ。食べ物が少なくなる冬は村里まで下りて来て子供や家畜を狙うため、サルーガ村では討伐のためハンターや傭兵が毎年集められている。獰猛だが羽の下の肉は旨味が強く、羽毛は高値で取引されるので、獲物としてはおいしい。
ハンターの腕に食らいついて離さないヤンガルを、ヴェンツェルは素手で二発、三発と殴る。ギャン! と悲鳴を上げたところを引きはがした。
すぐさまもう一頭が牙を見せて滑空するが、ヨハンが鞘に納めたままの剣で脳天を打つ。ヤンガルは動かなくなった。
残りの一頭が旋回して一直線に飛んできたところにヴェンツェルが飛びかかり、羽根を掴んでぶん殴る。鋭い牙と爪で反撃されるが、すかさず仕留めた。
「いやすまねぇな。油断したよ」
「傷を見せろ」
ヨハンは手早く確認する。痛みに震える腕を取ると、かなり酷い。大きく引き裂かれた皮膚に細く鋭利な牙が刺さったまま残っている。
傷口を洗い、応急処置をしながら言った。
「すぐ医者に見せた方がいい。腕がなくなるぞ」
「そうする。ヤンガルはお前さんたちにやるよ。この腕じゃ運べねえからな。お前さん、素手で立ち向かうたぁなかなかのもんだったぞ」
「ヤンガルを傷つけたら値段が下がるだろう? 私の拳は鉄より硬いんだ」
「驚っどろいた! しかも女かい! ビンタなんかされたら脳みそ飛び出るな!」
「試してみるかい?」
ハンターは苦笑いで礼と別れを告げた。
「私たちも下山するんだろう?」
新鮮なうちにこれを売らなければならない。ニコニコしながらヴェンツェルは三頭の獲物を縛って背負った。
ヤンガルにはそれぞれ縄張りがあるから、同じ場所でこれ以上捕獲するのは難しいだろう。
「山に入って三日で目当てを捕獲できたんだから、かなり上出来だ」
「え、三日もかかったのに? これで上出来? 一体いくら儲かるんだ? 土木工事のバイトの方が効率良いんじゃないか?」
うざい。油断して余計なことを言ってしまった俺が馬鹿だった。
返事をせずに荷物を取りに雨除けへ戻り、黙ったまま下山を始めた時だ。
「
遠くから一頭、こちらを見据えている。
「商隊を襲ってきたのよりも随分大きいな」
「おまえが戦ったのは雌で、あれは雄だ」
翠狼の雄は群れない。雌がボスとなり、仔やきょうだいと群れを成し、狩と子育てをする。父親となった雄はつかず離れずのところから群れを見守るだけだ。
雌よりも青みがかり、より鮮やかな深緑色の美しい毛並み。毛は雌よりも長く、体格は二倍近くある。
「きれいだな。あれは捕まえられないのか?」
「三日どころか、一ヶ月かけて山ごと包囲することになるだろうな」
「へぇ! まるで戦争だな」
「行こう」
二人が立ち去るまで、翠狼はじっと見ていた。
村までは徒歩で三時間程度だ。夕方には到着するだろう。乾燥ソーセージを半分ずつ分けて、この山に棲む動物の話をしながら山道を歩く。
すると、声とは別に何かがかすかに聞こえる。遠くで響いているそれが鐘の音と分かるまで少し時間を要したが、正午を告げる音色とは明らかに違う。
最寄りの教会といえばクロードのところだ。壊れたように鳴り続ける音は警鐘で、ヨハンの顔がこわばる。
言葉を交わすことなく、二人は同時に駆け出した。
村に着くと焦げたような臭いがして、教会の前にはたくさんの人が集まっていた。皆、痛々しいものを見る顔つきで、悪い予感に息が苦しくなる。
「クロード! エッダ!」
ヨハンが叫ぶが、椅子や祈祷台が破壊された聖堂には誰もいない。裏庭に回ると、座り込んだクロードの隣にエッダが倒れていた。
「ヨハン…! 良かった気付いてくれたか」
「クロード! 何があったんだ」
駆け寄ったヨハンの顔が固まる。
横たわったエッダの腹部には、大きな出血跡があった。
「そんな…エッダ…」
触れても反応がない。
「すまない、私が足を折られて動けなかったから、エッダが子供たちを守ろ…」
唇を噛んだクロードは最後まで言うことができなかった。
「子供たちは!?」
ヴェンツェルも身を乗り出す。
「全員さらわれた」
「やったのは傭兵団か。執拗にターニャを狙っている。エッダはターニャの身代わりに…雇ったのは食堂の店主だな」
傷口からエッダの記憶を読んだのだろう。ヴェンツェルは息を飲んだ。
ヨハンはエッダの頰に触れる。
「ごめんエッダ。こんな死に方させてごめん。子供たちは俺が助けるから、安心して」
そして一度だけエッダの胸に顔を埋めると、クロードの肩を抱えた。
「クロードも手当てしないと」
「私はいいからすぐ追ってくれ。家畜用の檻を引いた馬車で、西の門から出て行った」
「わかった」
「私も、私にも手伝わせてくれ! あんたの足手まといにはならない。こんなことになったのは私のせいだ。私のやり方が中途半端だったから…!」
おまえのせいじゃない。そう言えれば良かったのだが、誰かを責めたい気持ちが突き上げるのをヨハンは自覚した。
「あなたのした事は正しいのだから、どうか自分を責めないでほしい。でもヨハンを助けてくれるなら頼むよ」
代わりにクロードが言ってくれた。
ヨハンが頷くと、二人はすぐに馬を借りて西門を飛び出す。
夕日が目に痛い。世界は何も映らず、ただオレンジ色だった。
惨殺された産みの母のことは記憶を封じたようにほとんど覚えていない。孤児院を転々としたが、母と呼べるのはエッダだけだった。
このまま底知れぬ
「ヨハン、子供たちは私が命に代えても救う。約束する」
だから今は、共に戦う相手がいてくれてよかった。どうしようもない悲しみと憎しみと怒りでいっぱいの体を、ヴェンツェルの声が導いてくれる。
雄が戦うのは、縄張りを荒らされた時のみ———。
夕日に向かって二人は駆けた。
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