17 永遠の恋
アンナが避難していた国境沿いの街にもヘルジェンは進軍してきた。
小競り合いであっさりと降伏し、ヘルジェンに占領されたとはいえ静かな毎日である。出入りは制限されたが物資は分配され、困窮しない程度の生活は維持できている。
ひと段落したら必ず迎えに行くから、そこで”おとなしく”待つようにとヴェンツェルは伝えてきていた。
ずっと宿暮らしではあまりにお金がかかるので、よろず屋で下働の住み込みバイトを自力で見つけた。持ち前の明るさと気配りですっかり気に入られ、今日の配達先もヘルジェン軍ひしめく城の厨房だ。
城の入り口では人だかりができている。それも半端な数ではない。
「配達ですけど、何かあったんですか?」
いつもの守衛に尋ねると、なんだか目を輝かせている。
「アドルフ陛下がお越しになるのだ! お前も冥途の土産にお姿を目に焼き付けた方がいいぞ!」
そこで見たのだ。赤地に
ここはブレア国のはずなのに沿道からは割れんばかりの歓声、拍手、花びらまで舞っている。眩しすぎず温かみのある日差しさえ、アドルフを彩るパーツの一つとして違和感なく従えられていた。
まるで貫かれたように、アンナは動くことも声を出すことすらできなかった。馬の臀部が城門に消えてなお、鼓動の高鳴りがいつまでたっても止まらず、苦しくてこのまま死んでしまうのではないかと思った。
「…
今も大事に持っているぶろまいどとは全然違う。なに、あの全身にみなぎる生命力? 覇気っていうの?
「同じ人間と思えない」
もう仕事などうわの空である。思うことはただ一つ。
「もう一度近くで見たい」
なまじ傭兵団で暮らしたわけではない。居ても立ってもいられず危険な計画を練り、もう翌日には実行に移したのだった。
夕方、配達先に忘れ物をしたから取ってくるとだけよろず屋には伝え、顔なじみの守衛にも同じことを言って入れてもらう。
用意したのはメイドの頭飾りと前掛けだった。いつも見ているから、真似て作るのは造作もない。それを着ければ城内をうろつける。
城のようなコンスタンツェの邸宅で暮らしたから、城というものの構造は何となくわかっていた。城主の部屋は最も日当たりが良い南側の塔の上にあるものだ。
下働きの者がいる下層階を抜けると、城内はしんと静まり返っている。戦時中とはいえ国王が入城したのだから、もっと宴が催されていたり人の出入りがあると思っていたが、派手な外見に反しアドルフは静けさを好むのだろうか。それにしても護衛の姿すらない。
『悔しいのはさ、あいつが見掛け倒しじゃないことなんだよ』
半ば愚痴のようにヴェンツェルがこぼしていたのを思い出す。人をはべらせないのは、己に絶対の自信があるからだろうか。
塔の階段を登って、一番立派な扉のドアノブに手をかける。なぜこんなことをしてしまっているのか自分でもわからない。
薄明の時間帯である。部屋の中央で大きな椅子にゆったりと体を預けて、何を考えているのだろうか。主はぼうっとどこかを見ていた。
しかし、あるべきはずの右脚と左腕が無い。ゆっくりと視線がアンナを向く。
「誰だ」
静かに歌うような声。黒い衣の間から、男性とは思えぬ滑らかな肌があらわになっている。武器も防具も身に着けていない。
「ヴェンツェルの妹です」
とっさに答えていた。
「ほう。余を殺しに来たか。今なら余は立ち上がることすらできんぞ」
「いいえ、お側で見ていたいのです」
「…は?」
「陛下ほどお美しい方を初めて見ました。生まれの卑しい私が努力してきたことなど全て無駄だと悟りました。どうかこのまま眺めていたいのです」
身分の高い男を捕まえようなどと息巻いて付け焼き刃で身を固めたところで、醜さと愚かさをより露呈するだけである。
そんなものはこの人の前では何一つ通用しない。持たざる者があがいて努力する姿こそ、見るに耐えないとまで思った。
一方アドルフはぽかんとした表情だ。
「…いくら余のファンクラブ会員のお願いとはいえ、それは聞けぬな」
言いながら、義手義足を手際よく装着していく。
知らなかった。戦場の鬼神に手足が無かったなんて。その体でヴェンツェルに傷を負わせたのだ。
「なぜ、そうまでして戦われるのですか?」
その一挙一動から目を離せなくて、もう魔法にかけられたとしかいえない。
「理由などあるか。余が決めることではない。宿命だ」
最後に留め具を締めて、立ち上がった姿が宵闇に浮かぶ。
「余が自分で決められるのは、死に方だけだ」
全知全能の神のような存在がこんなことを言うものなのか。それはまるで、叶うことのない恋を打ち明けられたようだった。
「死ぬために戦われるのですか」
「さあな。お前の兄はどうかな」
立ち尽くすアンナに近づきながら、アドルフがゆっくりと剣を抜く。深く輝く瞳が
「さて、お前の首を届けたらヴェンツェルは余を殺すか?」
それは見える世界を全て支配する圧倒的な死。今ここで殺されるのだと、受け入れるのみだ。
抵抗する気は起きない。なにもかも、生殺与奪すらも全て捧げたい。
「いいえ。ヴェンツェルが従うのは契約のみです。けれど陛下がお望みなら私は構いません。陛下のお気持ちが晴れるのでしたら、どうぞ」
そして
どのくらい痛いのかなという思いはあるが、不思議と怖くはなかった。たぶん、この人の手なら一瞬だろう。
ほんの十数秒だったのかもしれないし、二、三分は経っていたのかもしれない。剣を鞘に収める音がして、アドルフの靴が視界から消えていった。
顔を上げると、果物が籠に盛られている。
「これを持って去れ。二度とこんなことをしてはならぬ」
そして首からペンダントを外すと、目と鼻の先でアンナと同じ高さにしゃがみこむ。
その香りは
立ち上がったアドルフに見下ろされて、アンナの胸元には暗橙色の宝石が浮かび上がっている。
「これは…?」
「余が今まで死ななかったお守りのようなものだ。命知らずのお前への
ヘルジェン旗にあしらわれた星をかたどったペンダントトップ。でも、これを外してしまったら、この人は———
「ガロン」
すると、何もない暗がりからすぐ隣に人が現れた。目まで真っ黒な布で覆っている。人間なのだろうか? もしかしておばけ?
「送ってやれ」
現れたおばけに押し出されながら、最後の最後まで目を離せなかった。
あんなに焦がれた人と念願かなって会えたのに、どうしてこんなに泣きたいような気持ちになるのだろう。
早く歩けと背中を押される。転がるような早足で城を追い出されると、もう暗い。低い空にオレンジ色の大きな月が浮いている。
おばけが押し付けてきた果物籠の中身はどれも大ぶりな果実で、よろず屋のみんなはきっと喜ぶだろう。
「ねえ、あの人は死に場所を探しているの?」
おばけは感情のない声で返す。
「陛下を死なせなど決してしない。努力したところで無駄骨だと兄に伝えるがいい」
そう言って消えた。
やっぱりおばけなんだ。アドルフ陛下がおばけを従えていても違和感ない。だってあの人自身が闇に溶けて消えそうだったもの。入城した時の眩しいほどの華やかさとは裏腹な、闇に一輪ひっそりと咲く花のようだった。
暗橙色のペンダントを握りしめる。
「死んでほしくないよ…」
けれどそれは叶わぬ願い。月がそう教えた。
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