9 砂漠の蝶
子供たちがキャーッ! と走っていく。後ろから追うのはフェルディナントだ。
五歳の王太子エルンストの走りはだいぶ力強くなった。三歳の弟パウルは転んでもものともせず駆け回り、それについていきたい二歳の妹イルゼが追いつけずに泣き出す。夫はこの娘に甘いのだ。すぐに抱きあげて、よしよしとあやしている。
妊娠生活も四度目となれば、夫婦とも慣れたものである。ふっくらしてきたお腹をさすりながらクリスティーナが向かおうとした時だった。
「奥方様」
天気の良い中庭に不釣り合いな固い声。事実上この国を支配していると言って差し支えない、帝国丞相
クリスティーナの祖国、
「何か」
いつもこうなのだ。フェルディナントが国王となった今も、先に報告を受けるのは自分の方。それは莱雁にとっての主君はあくまでクリスティーナということだ。
「ミロンド公爵より、出兵を拒否すると正式に返信がありました」
つまり、国内全軍を招集したフェルディナントへ反旗を翻す。そういう意味だ。
腰回りがざわっとして、それから背中に嫌な汗を感じた。
ミロンド公爵ナージェンはフェルディナントの従兄弟で、マンフリート派貴族の領袖だ。そしてブレア国一の兵力を有している。ミロンド公が出兵しないとなれば、それに従う諸侯も兵は出さない。
「そんなことがまかり通ると思っているのですか、あの男は」
常に人を小馬鹿にしたような顔を思い出し、怒りを覚える。
反帝国、その為のマンフリート政権擁立を主張している。だが決して領民を思ってではない。終始自分の為にしか動かない人物なのだ。
移送途中のマンフリートが逃亡、敵国ヘルジェンへ亡命した。それがフェルディナントの意思だと知った時、クリスティーナは夫を責め立ててしまった。
マンフリートを帰国させる為に、自己中なミロンド公はもとより彼を推す諸侯は行動を起こすだろう。内乱にするつもりなのか、もし事実を帝国に知られたらどう釈明するのか。
『何より、あなたの命と地位が危ぶまれるのですよ!?』
言ってしまってから、そんなものに夫はとっくに執着していないと気付いた。
「だからといって処罰を与えようものなら、公爵側へ反撃の大義を与えることになります。内乱など、それこそアドルフの思うつぼでありましょう」
それが分かっているからこそ、ミロンド公も強気に出るのだ。
「まず、陛下にご判断を仰ぎます。中で待ちなさい」
「御意」
クリスティーナが近づいて来るのを認め、フェルディナントは子供たちから離れた。ラフな装いで、軽く汗ばんだ額を拭う。
「丞相は何と?」
妃へ先に情報が伝達されることを、面白く思っているはずがない。しかし結婚以来、これについてフェルディナントが不平を表したことは無かった。口にしない事がプライドなのかもしれないと、クリスティーナは思う。
「ミロンド公が正式に出兵を拒否しました。恐らく、多くの諸侯がそちらに流れるでしょう」
「そうか。では私が直接説得に出向こう」
特別驚きもせず、あっさりとフェルディナントは返す。
「ミロンド公の元へですか!? 陛下が御自らなさることではありません!」
「国王が臣下へお願いしに行くなど、言語道断か。そなたの言うことはもっともだが、意表を突くのもありではないか」
「陛下! あなたは父親なのですよ!? みっともない事はなさらないでください」
「…そうだな、そなたにとって私はみっともない夫だな、ずっと」
「いいえ……、申し訳ありません。口が過ぎました。どうかお許しください」
夫婦の間にぎすぎすした沈黙が鎮座する。莱雁は建物から出てこない。
「クリスティーナ、そなたに伝えていないことがある」
「何でしょうか」
「私はこの国を帝国の手から離すつもりだ」
もう一度、クリスティーナの腰回りがざわっとする。
「父王時代から、ずっと帝国の属国としてヘルジェンと望まぬ戦をしてきた。だが私もマンフリートも、もう終わりにしたいのだ。その準備時間をこれまで父が作ってくれ、バッシ伯が口火を切ってくれたのだ思う」
「帝国を敵に回すなど無茶です! それこそ陛下のお命が…! 父が許すはずがありません。必ず制裁を受けます」
クリスティーナの父、
「武力で対抗しようとは思わぬ。ただ、そなたの立場を難しくしてしまうな」
「私のことなど…。私はただ、陛下にはもっとご自分を大切になさって欲しいのです。子供たちの為にも」
「このまま属国として戦いを続けるべきか、脱却すべきどうか、答えは誰も知らないし、どこにもない。だから私も自分を懸けてみたいのだ。みっともない姿かもしれないが」
「ヴェンツェル殿のように、ですか」
フェルディナントが目を丸くする。
「そうかもしれないな」
「間違いありません。ヴェンツェル殿が戦っている。そう思うだけでなぜか私の胸も熱くなるのです。本当に不思議な方。私は大好きです」
「私のことよりもか?」
「ええ、もちろん。駆け落ちしても良いですわ」
「う…。無様な私よりもヴェンツェルの方が男前かもしれないが…」
だんだん声が小さくなる。
クリスティーナが笑うと、先ほどまでのとげとげしい空気が払われた。
「ちちうえ! みてください、つかまえました」
駆け寄ってきたエルンストの手の中には、蝶がいた。水色と黒色の羽が美しい。
「これは珍しい、よく見つけたな」
父に褒められ、世界一ドヤ顔のエルンスト。
「帝国の蝶ですね」
帝国軍とともに大陸を北上してきた蝶は、別名砂漠の涙と呼ばれた。
「ちちうえのいろー!」
「ハハッ、よく分かったなパウル」
笑いながら抱き上げると、わたしも抱っこしてとイルゼが足にしがみつく。
羽化した姿が蝶となるか、蛾となるか、蛹から抜け出す本人には分からない。それでも全身全霊で生まれ変わろうとする姿を、誰が卑下できようか。
蝶は家族の顔の周りをひらひらと舞い、空へ向かって飛んでいく。
子供たちと上を見上げる夫の横顔に、クリスティーナも同じ決意をしたのだった。
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