8 夜空に包まれて
長いまつ毛に縁どられた、黒目が大きなジゼルの瞳が揺れる。だがヴェンツェルは逃さない。
「あんた、父親に認められたいんだろう。でも父親は本当は傭兵稼業なんてさせたくなかった。違うかい?」
「アンタに何が———」
「あんたほどの腕がありながら父親に従ってるのは、一人娘として親の期待に添えなかった負い目があるからか?」
ジゼルは言い返せなかった。代わりに瞳に怒りが宿る。
「私も父親とはうまくいってないからね、気持ちはよく分かる。私はもう和解して認めてもらえることなんて一生無いんだけど、それでも父の手から抜け出して後悔はしてない」
真正面からジゼルの瞳を覗き込む。
「あんたは本当にヘルジェンの為に、アドルフの為に戦いたいと思ってるのかい? 傭兵なら誰のために命を使うか、自分で決めたくないか?」
「それとアンタたちと一緒に戦うことと、関係がないだろう」
「あるさ。父親の腕の中にいたらいつまでも認めてなんかもらえないよ。それには勝負を挑むことだ。彼氏のことだって、あんたが選んだ男なんだと認めさせるのが彼の為だ。違うかい?」
「本気でうちの団に勝つつもりなのか? 弱小ブレア軍で?」
「あんたがいてくれたら不可能じゃないよ。私たちはそう評価してるし、過大評価だとは思わない。」
ヴェンツェルは少し間を置いた。背中に汗をかいている。
「私の目的はアドルフを倒して、騙し取られた金を取り返すことだ。20万
今日一番の熱が入る。
「そ、それはそうだな」
「だからアドルフに一泡吹かせてやりたいんだよ。この一戦だけでいいし、契約金はあんたの言値で払ってもいい」
答えを待ち、唇を湿らせる。
ジゼルは自分の手を見つめながら考えていた。
「さっき、傭兵なら誰のために命を使うか自分で決めると言ったな。確かにあたしは雇い主のアドルフに会ったこともない。
「それは正しいよ。ましてあんたの
そして自然に言っていた。
「私は今の雇い主のためなら命を失っても惜しくないと思ってるよ」
顔を上げたのはヨハンだった。その視線を浴びながら、どうして言ってしまったのか自分でも分からない。
「…それは羨ましいな。ファビアン、アンタがあたしに言ってくれたのと同じだ」
ジゼルが横を向くと、彫刻のようなイケメンが微笑んで頷く。
「私は男から言われたことはないんだけど。羨ましいな」
女二人で笑いあう。
「ジゼル、あんたとは雇い主が敵同士でなかったら友達になれたと思うよ」
「同感だ。でも困ったな、傭兵は契約に従うのみだからな」
「シンプルにいこうじゃないか。私があんたに勝ったら私と契約してもらう。負けたら私を煮るなり親父に突き出すなりすればいい。どうだい?」
幕舎の外に出ると、ファビアンが松明を灯す。ヴェンツェルはジャラッと防具を外した。
「このままじゃフェアじゃないからね。私の弱点はここだ。腹周りは骨がないからな」
ファビアンがジゼルの防具を留めていく。こっちは相方と話すこともなく手持ち無沙汰である。
ジゼルは楽に勝てる相手ではないだろう。関節を伸ばしながら集中を高めていく。自分の奥に眠る凶暴性を呼び起こす。すると言いようのない興奮が小刻みに波打つのを感じた。
剣を抜き、構える。一瞬目が合って、二人同時に地面を蹴る。
一打目から互いに全力だった。ヴェンツェルにパワー負けしない筋力、反応の速さ、相手の先を読む経験値。全てが比肩している。
瞬時に二人の世界に入れば、他には何も見えなかった。
こんな時、もう一つの世界が見えるというのは、どんな感覚なのだろう。
『おまえに見える世界と俺に見えている世界が同じとは限らない』
かつてヨハンが言った。神学問答のようだと思ったものだ。
『なあ、おまえにはどんな風に見えてるんだ?』
特訓でコテンパンにされたある日、地面に寝転んだまま聞いた。隣に腰を下ろして、ヨハンは少し考えた。
『時間から解放されたおまえが、先回りして待っていてくれてるような気がする。俺はそこに合わせるだけで、あとは現実がついてくる』
『…相変わらず意味不明なんだけど』
ヨハンは困った顔をした。彼なりに考えて言葉を選んだつもりだったのだろう。ヴェンツェルが手を伸ばすと、それをぐっと掴んで引き起こした。
『待ってくれてるような優しい世界なら、私も見てみたいもんだ』
先回りしたジゼルの姿は見えない。けれど、来ると感じた通りの場所にジゼルの剣が降りてくる。
ヴェンツェルはその切っ先を跳ね飛ばすと、空いた肩を鋭く突いた。ジゼルの肩当てに穴が開く。
衝撃によろめいたジゼルは後退するが、まだ諦めない。もう一度剣を握り直して、攻めてくる。狙うはヴェンツェルの左脇腹。スピードに乗った鋭い突きだ。
さっきまでの感覚は消え、防戦一方になる。
『左脇が甘い! マンフリートに突かれただろう。何度同じ事言わせるつもりだ』
ヨハンの声が蘇る。記憶に新しい傷跡を特訓中に叩かれて悶絶した。おかげで延髄に染み込んでいるので、大振りにならないようすぐに脇を締める。
そしてジゼルの剣を受け止めるうちに、再び同じ感覚が蘇る。ここという所にジゼルの剣。まるでパズルをはめていくようにヴェンツェルの体が無駄なく舞い、背後から水平に首に向けて剣を凪ぐ。
「ジゼル!」
その時突進してきた勢いを、ヴェンツェルは受けることにした。
「…ファビアン、やめろ!」
ジゼルを守ろうとしたファビアンの剣は、ヴェンツェルの太腿に突き刺さっていた。引き抜くとみるみるうちにズボンが血で染まる。
痛みに噛み付くように、ヴェンツェルは目に力を入れた。
「私と契約してほしい」
「…アンタと共に戦おう。決して裏切りはしない。ファビアンと、仲間の命に懸けて」
ジゼルは強く頷いた。
腹に巻いていたサラシを傷口に強く巻きつけ、応急処置する。
営地を出ると、ヴェンツェルはヨハンに声をかけた。
「ジゼルは信用できるか? おまえへの意地で言ったんじゃないか」
「今幸せな女が、俺に意地張る必要ないだろう」
「それもそうだな。おまえよりいい男だったもんな」
さぞ複雑な心境だろうな。ヴェンツェルはまた笑いを噛み殺した。
「そんなにジゼルのこと言いたくなかったのか」
「おまえだってイーヴのことを俺に話さなかったじゃないか」
「…なんだ、何を怒ってるのかと思ったら、そういうことだったのか。だっておまえは私の記憶を読めるじゃないか」
「だからって、ちゃんと話すもんだろう」
そういって、ヨハンはズンズン歩いて行ってしまう。追いかけようとして、太腿がズキンと痛む。
強化された骨がバキバキに詰まっている体だ。刃を弾くほど丈夫なので深手ではないが、痛みの耐性まで強化されているわけではない。針で指を刺しただけでも痛いのだ。
脚を押さえて痛みに一人耐えていると、
「…ほら」
戻って来たヨハンが中腰に背中を向ける。
背中におんぶされ、髪と首筋からヨハンの匂いを間近に感じた。
自分から依頼した特訓だが、三ヶ月以上毎日手加減なしにボコられて続けている。真剣にやっていると本当に憎らしく思えてくるものだ。うんざりする程しつこく立ち向かって来られるヨハンの方も同じだと思う。
だからこんな風に安心するのは久しぶりだった。
「強くなれたかな」
「ほんの少しな」
「アドルフに勝てるかな」
「まだ敵わないだろうな」
ひたすら反復。繰り返しの中から新しい境地が見えるまで。そんな特訓を今のうちに、出来るだけ続けなければならない。
もうすぐヨハンとの契約は終わる。そうしたらまた彼は他へ流れるのだろう。
「おまえにもイーヴにも、私はずっと甘えてしまっていた」
怪我をしたらいつも手当をしてくれた。それが当たり前になっていたが、これからはもう少し戦い方を改めなければならない。
「おまえに救われたのは命だけじゃないと、俺は思ってる。イーヴもきっとそうだったろう」
揺られる背中は、孤独でありながらそれを恐れていない。うなじに額と鼻先をつけて、ほんの少し腕に力を込めた。
「私にそんな強さは無いけど、少しはおまえの世界に近づけたのかな」
もうすぐ夜が明ける。闇色の空が群青色に変わっていく。
ヴェンツェルの髪色と同じ夜空に包まれて、今は世界に二人きりだった。
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