12 煉海

 神話の時代に、英雄ヘルジェンが邪悪な巨人を打ち倒した煉海クオリアは、水面が燃え盛る炎に覆われた海だという。


 酷薄な女のような顔をしながら、妖艶な野性が匂い立つ。それとは裏腹に黒く暗い純粋さと凶暴性を瞳の奥に宿している様は、まるで煉海そのものだった。突きつけられた刃の先まで、覇気に満ち満ちている。


 全身がはりつけにされたようにヴェンツェルは動けなかった。

 敵わない。今のままでは、どんな抵抗をしても死ぬ。


「一つ聞こう。マンフリートの誘いを断ったそうだな。なぜ祖国でもない崖際の国につく」

「あんたの、鼻を、へし折るには…敵国に、ついた方がっ、都合が、いい。それだけだ」

 呼吸を整えながら声を絞り出す。


「そんなに余のことが好きか?」

「どぇぅしたらそういう解釈になるんだ!」

 完全に声が裏返って咳込んだ。


「みんな余のことが大好きだからな。これも己が因果応報というやつだ」

「一番勘違いされたくないところだけど、私はあんたが大嫌いだ」


「愛しさと憎しみは紙一重だとそのうち気付く」

「ずーっと前から大っ嫌いだ!」


「残念だが余は国民全員のもので、誰か一人のものになるわけにはいかんのだ」

 くそ、どうやったらこの強制ファンクラブ加入攻撃から逃れられるか。


「そんなに私に好きでいてほしいか? 残念ながら私には心に決めた男がいるんだ」

「ほう、お前は男が好きなのか。結婚しているし、てっきり女が好きなのかと思っていたぞ」

「言ってることが矛盾してるじゃないか! さっき『余のことが好きか?』って言ったよな!? あんた男だろうが!」


「余は男とか女とか超越した存在だからな。お前がどちらを好きであっても構わん」

「なんだよそれ…」

「聞いてやろう。心に決めた男はどんな男だ?」

「どーうしてあんたと恋バナしなきゃならない!」


 すると、海を思わせる大きな深蒼の瞳をわずかに細める。


「さて、腕の一本でも引き千切ってやろうと思っていたが、下着姿の女をいたぶる趣味は無いしな」

 無言でボコボコに殴りつけて踏んづけてる時点で充分いたぶってると思う。


「気が変わった。やはり余に傷をつけたお前とは戦場で戦いたい。余を倒すというその言葉、戦場で証明できるか」

 傲慢な問いかけではなく、それは命令だった。


「今お前を殺さなかったことを、余に後悔させてみよ。お前をどう殺すか、余も本気で考えておこう」

 そう言って剣を鞘に納め、踏みつけていた足を外す。


 情けをかけられたのか。いや、違う。この男は私を試したがっている。


 体を起こすと、腹にぼっと熱が生まれる。

「必ず見せてやる…! あんたが後悔する時、命はない!」


 掴みかかって、引っ掻いて、殴り倒してやりたい。そういう気になったが、まるで見えない膜に覆われているように、アドルフには隙がなかった。

「そう急くな。今回の戦いが終わるまでお前を出すつもりはないし、余も戦わぬ。ブレア国には内部崩壊してもらう」


 マンフリートが立ったと知れば、国内に残った諸侯も動くだろう。内乱の混乱に乗じてヘルジェンが攻め込んでくれば、再びブレア国を戦場に、帝国とヘルジェンの激しい戦となる。


「それがあんたの狙いか。マンフリートは殿下の首を取るつもりなのか」

 フェルディナントは国内で軍を招集し、国境へ向け進軍中のはずだ。そのままぶつかるだろう。


「お前を捕らえたという情報をいち早くフェルディナントに伝えてやったところ、身代金は即金で支払うと言ってきたぞ」

「…で、いくらだ」


Wワムに換算すると、20万くらいか」

「はああぁっ!? ぼったくりにも程があるだろう! 私は免状ウェイスのないただの傭兵だぞ!?」


 それよりも何よりも、王太子が支払うという金の出元はヴェンツェル、正確にはコンスタンツェだ。

「ごちそうさまだ」

 アドルフは無邪気に微笑む。


 端麗すぎる容姿に、語学堪能で武術の腕はマスタークラスで、王族で金持ち。おまけに馬鹿力で超ナルシスト。なんっって気にくわない奴!


 20万払ったところで、コンスタンツェは痛くもかゆくもないだろう。しかし貧乏庶民ヴェンツェルの金銭感覚では、破産して一家にとどまらず親戚一同心中レベルである。

 許せない…! 絶ぇっ対に許せない!! この恨み、一生忘れるものか!


「ぅおおいっっ! ここから出せえええっ!! みすみす雇い主を殺されるわけにいかないんだよっ…!」


 騙し取られたも同然の20万Wワムに加え、もしこうしてる間にフェルディナントが倒されて、融資した金が帳消しにでもされたら。

 十分にありえる話だ。あぁ、何が何でも阻止しなければ!


 煉海の炎が体内に宿るのを感じた。立ち上がって軽く腰を落とす。腕にほどよい力がこもる。

 その姿に、獲物を狙う虎のようにアドルフの目が鋭くなる。しかし相変わらず髪の毛一本ほどの隙もない。


 ヴェンツェルが息を詰めた時、天井近くの空気穴から何かが尾を引いて入ってきて、壁に激突した。見覚えのある矢だった。

「陛下!」


 背後に控えていたガロンがアドルフの上に覆い被さると同時に、建物全体が大きく揺らいだ。次の爆音で壁が粉々になり、ガロンの姿がつぶされる。

 石の塊やつぶてに体を打たれ、土煙で何も見えなくなり、思わず伏せると腕を掴まれる。


「立てヴェンツェル。走るぞ」

 有無を言わさず引き起こされ、すぐそばにヨハンの息を感じた。もうもうと茶色い視界の中、前後も分からず腕を引かれるまま走ると空気が変わり、外に出たのだと感じた。


「あっ! 団長クロム! こっちっス!」

 ぱっと笑顔になるユリアン。隣には弓を構えたフィストだ。


「あんたたち、この距離で大砲ぶっ放したのかい? 死んだらどうすんだ」

「え? キミなら死なないだろって全員一致で決めたんだけど」

「…とりあえず礼は言っとくことにする」

 そこまで頑丈な体じゃないはずだ。きっと。


「マンフリートがヘルジェン兵と諸侯2千を率いて進発したみたい。フェルディナントの本隊とやり合うつもりだよ」

「戦況は」

「進軍中のフェルディナントは4千で迎え撃つ気だ。エグモントのとっつぁんが援護に向かってる」


 やばい、間に合わなかったら報酬と融資金がパアになる。こうしてはいられない。フェルディナントを死なせてはならない。


「このまま超特急で戦場に向かうぞ」

 用意してくれていた剣を佩いて、乗馬する。

 全員で10騎。これが今のヴェンツェル団だ。


 馬の腹を蹴り、イーヴの外套をなびかせて駆け出す。

「20万Wワムは必ず返してもらうし、帳消しなんか死んでもさせてたまるか!」

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