9 背反

 井戸で手と顔を洗い、口をゆすぐ。

 うえ、気持ち悪い。


 極太ナメクジとしか思えない、男の舌のねっとりした感覚が蘇って、もう一度、二度、水を含んで吐き出した。


「平気か?」

 後ろからヨハンである。何をしていたか記憶は読まれているだろう。ヴェンツェルは一つ息をついた。


「なんだ、口直しでもしてくれるのか」

 するとヨハンは少し困った顔をした。それが意外で、ヴェンツェルは吹き出す。ひとしきり笑うと、口の中の気持ち悪さは消えていた。


「ひどい格好だな」

 言われるまでもない。ドレスの裾は血に染まりもはや何色だったのか分からなくなって、剣を振り上げた時に脇の下は破れた。上身頃は切り裂かれた布が垂れている惨状だ。


「おまえは、いつもきれいだな」

 女装は断固拒否されたが、さぞ似合ったことだろう。エグモントと共に突撃してきたはずだが、相変わらず無傷なヨハンには返り血すらほとんどない。血の軌道をも見切って避けているのだろうか。


「後ろ、紐を切ってくれないか。ガチガチに結んだから解けないんだ」

 ブチッブチッと切ってもらうとドレスだったものを脱ぎ捨て、防具のようなコルセットを外し、白い綿シュミーズ一枚になった。


「今日は傷が多いな」

「慣れない服と靴のせいで動きづらくてな」

「座れ」


 ヴェンツェルを井戸の縁に座らせて、ヨハンは腕に巻いている布を外すと水に浸して腕を取り、傷口を拭っていく。首、むき出しの肩、シュミーズをまくり上げて太腿と続き、思わずヴェンツェルが脚を閉じた時だった。


「ここは縫っておくぞ」

 ヨハンは治療器具を取り出す。兵士ではないから、傭兵は自分たちで治療するしかない。


 初めて出会った時、瀕死のヨハンに処置を施したのはヴェンツェルの方だった。それ以降は一方的に治療を受ける側になっている。身にまとう鋭利な空気とは裏腹に、ヨハンはいつもやさしく触れた。

 本当は飛び上がりそうに痛かったが、眉間に力を入れて我慢する。


「おまえは不思議な奴だ」

 縫合を終えると、まくった裾を戻して、ヨハンは隣に腰掛ける。

「頭の中を覗かれてると思ったら、普通嫌がるものだ」


「最初はぎょっとしたさ。けど、どうやったって防ぎようがないんだから、開き直るしかない」

 逆に、知りたくもないのに他人の過去や気持ちや、ちょっと先の事が分かってしまうのは、心臓に毛が生えたくらいでは耐えられないだろうなと思う。


『孤狼のヨハン』が頻繁に傭兵団長クロムの鞍替えをする本当の理由は、それなのではないか。常に他人のシンに触れなければならない、そんなヨハンが人知れず負う痛みは、相手を知るほどにえぐられるものがあるだろう。


 嘘と裏切りまみれの汚ねえ獣。それが孤狼のいわれだが———

「誰がなんと言おうと、おまえは強くて、きれいだ。私はそう思ってる」


 空高く上った月明かりが、ヨハンの瞳を穏やかな色に染める。何か言おうとして半分口を開いたが、やめたようだった。


 ヨハンと組んで、もうすぐ三年になる。『孤狼』にしては長すぎる。そう遠くない先、きっと離れていくのだろう。


「契約を果たすまでは居てくれるんだろうな?」

 わざと突き離して言った。


 帰る家の無いヴェンツェルにとって、傭兵団は家族そのものである。いつも無傷のくせに治療器具を携帯しているヨハンに、同じ気持ちを期待してしまっている。


「…契約だからな」

 先に戻ってる、と一人ヨハンは去って行った。


 距離を取って、ヴェンツェルも一人歩き出す。

 宴会が行われていた中庭は今や、死体処理場と化していた。暗がりからそれを見ている女が一人、ぽつんと立っている。


「カロリーネ姐さん?」

 手抜きのない化粧に緩くうねる黒髪を垂らした、布では覆い隠せぬ豊満な体つき。


 傭兵と娼婦と戦は切っても切れぬ関係で、駆け出しの頃、ヴェンツェルはカロリーネに助けられた恩がある。彼女はいわば娼婦という名の傭兵団長クロムだ。

 ヴェンツェルが今回の作戦を決行できたのは、運よくカロリーネ団が従軍していたからだった。


「うまくいったね。…死んだ子たちのために、祈りたくてね」

「あぁ、姐さんたちのおかげだ」


 戦場に身を置く娼婦たちは、いつ巻き込まれて死ぬかわからない運命を受け入れている。それでも仲間が死ぬというのは、何度経験しても慣れるものではない。それはヴェンツェルも同じだった。


「アンタ、孤狼にあんまり肩入れすんじゃないよ」

 カロリーネの眉間にしわが寄る。


「孤狼に殺された元の傭兵団長クロムを、アタシは何人も見た。アンタがそんなことになったら、アタシ耐えらんないよ」

「…大丈夫、私は斬られない体なんだ。私があいつを倒してやる」


 言いながら思う。やれるだろうか。その時、ヨハンはためらいもなく自分を殺すだろうか。


 すると、遠くからドロドロと低い音がする。雷鳴かと思うが、空には月が出ている。だんだん音が大きくなるにつれ、馬の蹄だと気付く。それも軍勢の。

 次の戦いに備え、フェルディナントの本隊から援軍が派遣されると聞いている。が、それにしては早すぎる。


「姐さん、こっち。早く」

 敵襲を知らせる物見台の鐘が鳴り響く。カロリーネの腕を引き、裏手門の方へヴェンツェルは走り出した。だが、裏手門からも軍勢は侵入してきていた。


「ヘルジェン軍かい?」

 ヴェンツェルは頷く。まずいことになった。


 予測はしていたが、最悪だ。こちらは一戦交えた直後、しかも勝手の分からぬ砦の中なのだ。

「疲れたところを今度はこっちがカゴに閉じ込められたも同然だ」

 しかしこのタイミング、図ったように良すぎやしないか。


「私が奴らを足止めするから、その間に姐さんは逃げろ」

「アタシのことはいいから、アンタは正面に戻りな」

「何言ってんだ姐さん」


「伊達に歳食ってないからさァ、自分のことは何とかする。アンタは傭兵団長クロムで、中隊長サマだろ? 契約を守りな。戦場にはアンタが必要さ」


 そして柔らかい両手でヴェンツェルの頬を挟んだ。

「さあ、行きな。生きて戻ったら、割増しで成功報酬支払ってもらうからね」

「…そこは交渉させてもらわなきゃな」


 生き残るのに、時として情はかせになる。戦場はそういう場所で、だから傭兵は契約のみに従う。振り返らずにヴェンツェルは走った。


 ヘルジェン兵装の一団がこちらに向かってくる。姐さんの方へ行かせるわけにいかない。ヴェンツェルは藪に潜んで剣を構えた。そして不意打ちで、兵士の首をいきなり飛ばす。


 間髪入れず二人目に突っ込み、袈裟に深く斬りこむ。濃い血の匂いが漂い、三人目の心臓を貫こうとした時だった。

「え…っ?」

 それはここにいないはずの人物だった。柔らかそうな水色の髪、狡猾さなど微塵も感じさせない水色の瞳。


 ———フェルディナント殿下?


 かっと体が火を噴いたように熱くなる。

 一瞬の戸惑いが隙となり、あっという間に三人の兵士に手足を取られて、うつ伏せに地面へ押し付けられた。


「見つけたぞ、『鋼鉄のヴェンツェル』」

「…生きていたのか」

 殿下は殿下でも双子の弟、マンフリート第二王太子だ。


 噂は本当だった。マンフリートと密かにつながっていた諸侯はこのタイミングを狙い、彼らを砦へ引き入れたのだ。


「私の考えが甘かったってわけか」

「山砦の攻略はなかなか見ものだったぞ。フェルディナントがお前を重用するのも分かるな」


 後ろ手に両手首と、両足首を縛られる。それから体を起こされると、目の前にマンフリートが座り込んで目線を合わせてきた。双子の姿形がここまでそっくりなものとは初めて知った。


「アドルフはお前を生かしたまま連れて来いと言うが、どうするつもりか分かるだろう? そこでだ、率直に言う。オレと契約しないか」


 しかしうり二つながら、水色の瞳は全く違う色に見えた。自身を含めたすべてを覆い包むような羽根を持つ兄と、まっさらな世界をまっすぐに突き進む翼を持つ弟。


 兄の方から「契約してほしい」と言われたことはない。いつも一方的に契約書を送りつけてくるのだから、弟と比べていささかひん曲がっていると思われても仕方ないだろう。


「オレと契約すれば命は助けてやる。傭兵団も無事に帰そう」

「それはできないな。フェルディナント殿下に多額の融資をしていてね。契約不履行だと返済されなくなるし」

「オレが返済してやる」


「あんたは国を持たないだろう。ヘルジェンが払ってくれるとは思えないし」

「国を失うのはフェルディナントの方だ」


「させないよ。私が負けないから、殿下も負けない」

 一点の曇りなく言った。

 思わずマンフリートが破顔する。その顔がフェルディナントと同じで、思わず目を奪われた。


「この状況でよくそんな口が叩けるものだ。なるほどな、あいつが好きなタイプだ」

「は」

「クリスティーナも勝気だしな」

 

「…あんた、一体何をするつもりだい?」

 マンフリートは立ち上がる。


「決着をつける。ブレア国の命運をの手に取り戻すのだ」

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