5 深蒼の王女

 フォードン煉瓦レンガ窯で「さて出かけるぞ」とアドルフに連れ出されてから、王城に戻ったのは十五日後だった。与えられた部屋でふかふかの椅子に腰かけ、マンフリートはホッと息をつく。


 しかし桶をもって入って来た女に、複雑な緊張を感じる。女は黙ったまま椅子に座るマンフリートの横で、桶の湯に手ぬぐいを浸して絞った。

「湯殿の支度ができるまで、顔と体を拭いてください」


 下から見上げてくる肌は新雪のように白く、そばかすの類は一粒も見られない。兄と同じ燃えるような緋色の長い髪を、緩く編んでいる。

 世話係ではない。国王アドルフの実の妹、イシュタル王女である。


「…ありがとう」

 顔を埋めた手ぬぐいは熱いくらいだ。王女が手を入れていた湯は高温なのではないか。


 最初に王城へやって来た時からこうなのだ。負傷したマンフリートを手当をしたのが彼女だった。

 遠目に見ても、そして治療のため間近に来られても、呼吸を奪われるかと思った。落ち着こうと思えば思うほど鼓動が速くなり、体温が上昇している気がする。


 なぜ王女がこんなことを? マンフリートが問うと、

「兄に命じられたので。私に兄の意図はわかりません」

陰陽とも一切の感情を感じさせない声だった。


 敵国にただ一人、明日はこの身がどうなるか分からぬ状況で美女に密着され、ふわふわの手で半裸の素肌に触れられたら、心がざわつくのはマンフリートの責任ではない。しかもイシュタルはいつも単身でやって来る。彼女の方に誘惑する素振りは欠片も無いのだが、アドルフの考えそうなことだ。


 絶っっっ対に手を出してなるものか。奴の思惑通りになってたまるか。そう決めている。


 彼女の気配が遠ざかる。テーブルで果物を切り始めたようだ。

 その背中をチラ見してようやく顔を上げたマンフリートは、髪、首を拭きながら十五日間の旅を思い返す。


 アドルフはヘルジェン王国を見せてまわった。都よりも栄えているという港湾都市テロール、肥沃な穀倉地帯が広がるナナブ地方、優れた医療技術を持つ一族が棲む里。見せられるほどに、隣国がこんなにも豊かであるのをなぜ知りもしなかったのかと、己を恥じる気持ちが芽生えた。


「こうでなければ帝国とはやり合えないか」

 そしてどこへ行っても『煉海クオリアの王』アドルフは熱狂的に迎えられていた。それこそブレア王家の比ではない。


 王が勝利を見せてくれる。より良い暮らしに導いてくれる。国民は強く信じている。


 一方ブレア国民は、帝国の属国となって望みもしない戦に、勝とうが負けようが関心がない。王家に期待するだけ無駄。

「民にそうさせたのは、まぎれもなくオレたちなのだな」


 拭き終わってさっぱりすると、見計らったようにイシュタルが飲み物を二つ盆に載せてやって来た。カットしたスワという果物に、熱い茶を注いだのものだ。


「我が国の茶葉は苦くてそのままでは飲めないので、こうするのです」

 スワに触れることで茶の成分が変わって、苦みが消えるのだと思う、と最初に言っていた。


 彼女は本の虫だそうで、会話の端々に知性がみなぎっている。傷の治療もバルタザールに習ったのだという。ブレア国が異端として追放したあの魔女だ。


「血が恐くないのか?」

「ええ。所詮人ですから。死体の解剖も行いました」

 そう言われた時には返す言葉が無かった。


 こうして黙ったまま茶を飲み終えるといつも彼女は退室していくのだが、今日は違った。

「傷はもうすっかり良いのですか。フォードンに行かれたと聞いたので、心配していました」

「問題ない。最初は少し痛んだが、動かすうちに回復が促進されたようだ」


 フォードン煉瓦窯では、奴隷すら自分たちが必要な存在であり、国王から大切にされているのを自覚していた。そしてその忠誠は絶対で、大げさでなく神を崇めるようだった。


 彼女はどうなのだろう。

 血の通わない白い彫像のような額と鼻筋を眺めていると、深蒼の目とぶつかった。


「…オレは祖国を裏切ってここに来た。ヘルジェン国民から見たら、王族として唾棄すべき存在だろうな」

「あなたの意図も私にはわかりません」

 無機質に切り落とされ、そこで終わりだと思った。


「兄殿下とは不仲と聞きましたが、ご家族が、奥様が帰りを待っておられるのではありませんか」

 そう続けられた言葉に、思いがけず深部を突かれる。


 そしてぽつりと呟く。

「死んだ」

 自死だった。


 兄フェルディナントと違い、マンフリートが結婚したのはブレア貴族の娘だった。恋愛結婚ではないものの、幼い頃より互いに見知る仲である。

 兄夫婦が次々と三人の子を設けるのとは対照的に、夫婦は子に恵まれなかった。


「どうせ我が子が王位につくことは限りなく無きに等しいのだからと、オレは気を揉むことはなかった。夫婦関係は上手くいっていると疑いもせず…愚かなものだな。何も見えていなかった」


 しかし妻の方は違っていたのだ。帝国から来た兄嫁への対抗心や、周囲からの圧力、側室をとられたら妃の地位が脅かされるのではないかという恐怖。気位の高い女だったから、その全てを許せなかったのだろう。


「死後聞かされた話では、不妊に効くというありとあらゆることを試していたらしい。オレには一切漏らすことなく」

 しかしどれも効果はなく、そして耐えきれずに自ら毒を煽った。


「自分で自分を追い詰めたのだと言えばそれまでだが…気づいてやれたらと、今でも悔やんでいる」

 イシュタルは無表情のまま言葉なく聞き入っていた。


「辛気臭い話だ。忘れてくれ」

 空気を変えようと、マンフリートは笑みを作って茶を含んだ。あぁ、そなたが淹れる茶は今日も美味だな。


「死別の悲しみを癒す魔法はありません。存分に涙を流し、その時々の思いを話すことが救いになると、本で読みました」


 はっとして、吸い寄せられる。芸術品だと思っていた彼女の顔には、初めて人間らしい複雑な感情が浮かんでいた。


「私でよければ話してください」

 その瞳は、人のあらゆる怒りや悲しみを包んでくれるような海の色だった。

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