10 雨の音
顔が切れそうな冷たい空気を割いて、一人ヴェンツェルは馬を飛ばした。早朝の空は暗い鈍色で、大粒の雨がブルゾンを濡らす。
「よく来てくれた、
フェルディナントの陣営、火鉢のある暖かい幕舎で迎えられる。
「雨など恐れるまでもないと頭取は豪語してましたが。それで、作戦通りにやるんですか」
「うむ」
戦場ごと敵を燃やす。決戦にさせない。あの長い手紙には、フェルディナントが思う未来がせつせつと書かれていた。
「私はブレアの民をもう傷つけたくない。戦はあくまで帝国とヘルジェンの戦いで、ブレアは帝国の先鋒として駆り出されているだけだ。だから私はブレア国の単独勝利で、情況を変えてみせる」
「帝国に勝利を捧げるのではなく、ブレア国だけの勝ちか。私も傭兵として戦って長いけど、こんなのは初めてだ」
「馬鹿げているか?」
「でしょうね。今は王都が奪われるかの瀬戸際なのに」
そんな甘言がまかり通るものかとヴェンツェルはまだ疑っている。
「契約は無かったことにするか?」
しかし、大真面目な顔で甘言を吐けるのもフェルディナントしかいないと思った。バッシ伯もこんな気持ちだったのかもしれない。
「まさか。これまでに使った金を無駄にするわけにいかないし。敵にはヘルジェンだけでなく帝国も含まれる。そう解釈していいんでしょう?」
そんな作戦を公にできるわけがない。が、幸いなことにブレア軍は帝国軍の援護と王都及びダルゲンの守備を命じられていて、自由に動いても目立ちにくい。
「それでも、殿下がやったって発覚したらマズイことになるでしょう。報酬が貰えなくなったら困るんで私が実践します」
「なんだと?」
「人はもう集まってるんですがね、資金が足りなくて。傭兵は契約でしか動かない。それはよくご存知でしょう? 雇った奴らに報酬払わなきゃならなくて」
「…本気で乗ってくれるのか、私に」
「それ、もう一度言ったらぶっ飛ばしますよ。こっちは命懸けるんだから」
「そうだな、すまぬ。忘れてくれ。雇った傭兵たちの分は、そなたに支払う5万
「え、人数増えた分の割増は無しってこと!?」
「我が国の財政はとうに底を突き破っているのだ。私にせびっても無駄だぞ」
「ドケチ!」
「そなたに言われたくない。それよりも———」
ヴェンツェルにとっては全く「よりも」ではないのだが、構わずフェルディナントは地図を指さす。
「王都から15㎞ほど南東の平原からヘルジェン軍はこちらを睨んでいる。その数約2万だ」
「クレー川を背にしているのか。退くつもりは一切なさそうだし、燃やしにくいな」
一方、グスタフ国王率いるブレア軍本隊はヘルジェン軍と向かい合い、マンフリートが王都の守備を固めている。他に小隊をダルゲンと橋の守備に配備していた。
「帝国軍は西から進軍していて、間もなく父上の本隊と合流する」
「ここは湿地? 帝国兵はここを通過するわけだな」
ヴェンツェルが指さすのは、王都の南側のジテ湿地だ。今居る陣営からはさほど遠くない。
「ヘルジェン軍のこの位置だと、西からの帝国軍と北からの我が軍で二方向から攻撃できることになるな」
「あのアドルフが、それを許すとは思えない」
「そなたもそう思うか。ヘルジェン軍大隊の中に、アドルフの姿が見えないのだ。あの男のことだ、何をするつもりなのか…」
と、柔らかそうな髪を搔きむしる。相当に焦っているようで、どこか微笑ましいような気持ちでヴェンツェルは眺めた。
それからもう一度地図に向き直る。思い起こすのは知る限りの最高の指揮官、亡きバッシ伯だ。
ヴェンツェルを戦場に誘ってくれた
雨、増水した川。帝国軍が湿地を通り抜ける。いや、通り抜けざるを得ない位置にアドルフは自軍を配置した———
「殿下、湿地です。ヘルジェンの奴ら、雨でドロドロの湿地で待ち構えて狙い撃ちにする気だ。大隊は目くらましだ」
「なんだと!? ……死地ではないか」
戦において、河川や沼沢、湿地は古来より死地と言われている。
しかも自国の湿地であればまだ、どこが深いとか浅いとか状況を把握できようが、アウェーの湿地なのである。
「バッシ伯ですよ。伯から詳細な情報を得ているからこそ、アドルフは死地を選ぶことができる」
「…帝国が湿地を抜けざるを得ない場所を選んで大隊を布陣し、普通選ばない死地で別動隊が奇襲をかける。更にこの雨だ。まさかこれも奴の計算のうちなのか」
「帝国の自慢は強脚の騎馬隊でしょう? 湿地では脚を取られて使い物にならない」
その時だった。
「伝令申し上げます! ヘルジェン軍による奇襲攻撃です! 川より急襲され、ダルゲン北部に布陣していた我が軍小隊は壊滅状態。橋が奪われました。指揮しているのはアドルフです!」
「川から急襲だと? 艦隊が来ればすぐに分かるだろう! 何をしているのだ。私も向かう」
「ちょっと!? わざわざ殿下が前線に行かなくてもいいでしょう?」
「なぜだ? 私には王都を死守する義務がある」
そう言うと従者に命じて手早く籠手や
なんで私が殿下と行かなきゃならないかな。
土砂降りの雨の中、斥候の報告を受ける合間にフェルディナントは馬首を並べてきた。
「そなた『孤狼のヨハン』を擁しているそうだな」
傭兵界に轟く孤狼の名。ヨハンのことだけでなく、フェルディナントはヴェンツェルの素性まで調べたのだろう。
「ええ。それであの金額なのでしょう? 私への投資じゃなくて」
「不満か?」
「いえ全く」
そうでなければヨハンを雇った甲斐がない。
「奴と組んでどの位になる?」
「二年半」
「傭兵団を転々とする孤狼が、そんなに長く留まるとは珍しいな」
給金の未払いや、恨みを買うようなトラブルでもない限り、
しかしヨハンは平気でやる。しかも何のトラブルも無しに、突然だ。そして昨日まで自分の
腕だけは恐ろしく立つが、人の心を持たない外道。
何考えてんのかわかりゃしねえ。ツラの皮の下は嘘と裏切りまみれの獣さ。
それが傭兵界でのヨハンの姿だ。
「いつ裏切られるとは思わないのか?」
「思わない」
「男女の関係が?」
「そんなわけないでしょう。殿下も意外とゲスいな」
「いや、失礼した。そなたがあまりに自信ありげだから」
「あいつは裏切りで鞍替えしてきたわけじゃない。私にとっては最初の仲間で、誰より信頼してます」
「そうか。そなたが言うなら、間違いないのだろうな」
「私にとって、傭兵団は家族だから」
実家を勘当されたヴェンツェルには帰る家がない。
「だからアドルフには負けません。絶対に王都を守り抜く」
「…ありがとう、ヴェンツェル」
フェルディナントの声は冷たい雨の音に紛れたが、ヴェンツェルの耳に確かに届いていた。
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