2 望まぬ戦
「裏切り者のバッシが、殿下のお命を狙っています。どうか力を貸してください!」
崩れた金髪を直すのも忘れて、クリスティーナは詰め寄る。
「ちょっ…待ちなよ。あいつらは? なんで追われてた?」
「お願いです!時間がないのです。早くしないと殿下のお命が…!」
「殿下ってのは、あの本陣にいるはずのフェルディナント第一王太子のことかい?」
ヴェンツェルが背後に親指を差すのは、黒い煙が上がる丘だ。フェルディナントはこの負け戦の総大将で、クリスティーナの夫である。
ブレア国は、クリスティーナが嫁いできた六年前から隣国ヘルジェンと交戦中だ。元々は友好関係にあったのに、ブレア国が帝国の属国になったことでその関係は突然変わった。帝国とヘルジェン王国という二強の間に挟まれ、ブレア国は隣国との望まぬ戦に駆り出されているのだ。
「今頃もう捕らえられてるか、首を切られてるんじゃないか?」
ヘルジェン王は残虐で知られている。
「首だけでも取り戻さなくては…! ですからお願いします!」
「オレたちで役に立てるんならっス!
ヴェンツェルは溜息だった。面倒事に巻き込まれかえって高くつくのは御免だが、このまま馬だけ手に入れてサヨナラというわけにいかなくなってしまった。
「力を貸してって言われてもね、私たちは兵士じゃないんだよ」
一瞬はっとした顔で、クリスティーナはその意味を悟る。さすが野望の帝国から嫁いできただけあり、世間知らずのお姫様では無さそうだ。落ち着いた声で交渉を始める。
「そなた、
「まだ無い」
「仲間はこれで全員ですか」
「そうだ」
「では、ここに5千
と、腰に巻いた帯から、金貨を一枚取り出した。
「フェルディナント殿下の命が1万? あんたにとって亭主の命はそんな値段なのか?」
「…では2万」
5千
「私たちしかいないんだろう?」
「
「私が無名だからかい? 他を当たるならそれでもいいけど、そんな時間ないと思うな」
「分かりました! 3万出します。わたくしの自由になるお金はこれが限界です!」
これ以上調子に乗って彼女を怒らせるのは得策ではないなと、ヴェンツェルは頷いた。
「では
「いいだろう。それで、情況を説明してもらおうか」
ブレア国は第二の都市ダルゲンを包囲されるところまで、ヘルジェンに攻め込まれていた。バッシ伯が1万の援軍を率いて駆け付けると、それを頼りに耐えてきたのである。
「しかし、到着したバッシはヘルジェン兵とともにダルゲンを攻撃し、本陣までもが襲撃されました。わたくしだけは逃そうと殿下は…」
落馬した時に打った肩を押さえながら、クリスティーナはゆっくりと立ち上がる。
「なぜバッシ伯のような重鎮が裏切ったんだ?」
「それは、この国が抱える問題で…」
ブレア国で傭兵稼業を始めて五年になるヴェンツェルにも、彼女が言わんとしていることなんとなくわかる。
「とにかく先を急ぎましょう」
クリスティーナが肩を押さえながら歩こうとすると、それまで黙って聞いていたヨハンが口を開く。
「怪我に障る。あまり揺らさない方がいい。俺とヴェンツェルで先に行くから、ゆっくり来るといい」
少ない言葉数ながら、ヨハンの声には不思議な説得力がある。クリスティーナも大人しく頷いた。
「ユリアン、さっきの投げ槍は良かった。セバスチャンと二人で妃を頼んだよ」
「へへ、了解っス」
クリスティーナの大きな紫水晶の瞳に頷いて見せると、ヴェンツェルとヨハンは丘の上を目指し、馬で駆けていく。
ブレア国の重鎮バッシ伯の家系は古く、忠臣であった。ヴェンツェルは共に戦い、向こうは覚えているか分からないが命を助けられたこともある。家名ばかりではなく、実を伴った人物なのは確かだ。
「バッシが殿下の命を狙っている」とクリスティーナは言ったが、暗殺が目的ならもっと静かにできるはずである。
「つまり目的は他にある。そう思わないか?」
「ああ。気を付けろヴェンツェル、なにかいやな感じがする」
ヨハンの視線はいつになく鋭い。
到着した本営は黒い煙を燻ぶらせ、あらかた火の手に舐めつくされていた。にもかかわらず、そこにいたはずの兵士の死体が一つも無いのだ。
「どういうことだ…?」
「ヴェンツェル、あそこだ」
バッシ伯の兵士に取り囲まれた王太子フェルディナントの姿があった。まだ首は繋がっている。
「三十人てとこか。行けるね」
ヴェンツェルが唇を舐めた瞬間、隣のヨハンの目の色が変わり、もの凄い勢いで腕を引かれた。そのまま投げ飛ばされるほどの力だった。何が何だかわからぬまま顔を上げると、ヨハンが何もない空間に向けて斬りつけている。
「ほう、この俺が見えるのか」
ヨハンの声ではない。別の男の声だが、その場にはいない。しかしヨハンが斬りつけた空間が、ビリビリと震えているように見える。
「…っっ!!」
不意に、見えない何かに確かに右腕を掴まれた感覚。そのまま引きずられて、見ると右腕の先がなくなっている。
「え…」
切り落とされた痛みはない。どころかまだ腕の先を掴まれている感覚がある。再び引っ張られて右足を踏み出すと、今度は
ヨハンが超速の剣撃を空間に叩き込むと、振動がヴェンツェルの腕にも伝わる。何かがすぐそこにいるのだ。すると空間がゆらゆらと歪んで混ざって、そこから黒布に覆われた手、足、体が徐々に現れる。大男だが、顔まで真っ黒なマスクで覆い、目すら見えない。
「俺を
ヨハンにやられたのだろう、血が滴る腕で男は短刀を繰り出す。かなりのスピードだが、ヨハンは正確に見切って弾き返す。
「ある…」
あいつが離した右腕も、消えた右足もちゃんと戻っている。ちゃんと動く。
「しっかりしろヴェンツェル。バッシの兵士は任せるぞ」
見ると、王太子を取り囲んでいた兵士がこっちへ向かってきている。一体何だったのか、説明してもらうのは後回しのようだ。
「任せな」
「こっ…こいつはなぜ斬れないんだ…!?」
軽装備のヴェンツェルに対し、動揺した重装備の兵士の動きは緩慢で、徐々にアーマーの継ぎ目ががら空きになる。そこへ剣を刺す。
十人ほど倒しただろうか。
「『鋼鉄のヴェンツェル』か。こんなところで再会するとはな」
怒号飛び交う戦場によく通る声。白髪が交じった顎髭の歴戦の武人に、攻撃をやめた兵士らが道を空ける。
ヴェンツェルも肩で息をしていた。重症は一つもないのだが、さすがに服には何か所も血が染みている。
「ご無沙汰です、伯。フェルディナント殿下を救出しに来ました。なぜあなたがこんなことを?」
バッシ伯が兵士らに剣を下ろすよう命じたので、ヴェンツェルも剣を鞘に納めた。寄り添うように現れたヨハンに、黒いのは? と目で問うと「消えた」と一言答える。
「さて殿下、どこまで話しましたかな」
振り返るバッシが水を向けた先は王太子フェルディナントだ。王太子は乾いた唇を開く。
「…もっと大きな背反を企む者がいる、と」
「そう。此度の私の背信、事前に情報は得ていたはずでございましょう。にも関わらず殿下も、大元帥までもが信じなかった。なぜですか」
「国王陛下からの信任厚い伯のことであるからだ」
「それが甘いのです」
「わかった…、心得よう」
「では私を処刑なされよ」
フェルディナントは言葉に詰まり、兵士の間にどよめきが広がった。
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