鋼鉄のヴェンツェル
乃木ちひろ
ヘルジェン戦争編
第一章 目覚め
1 敗走中
上がる火の手は、巨大な掌が街を握りつぶすようだった。ブレア国第二の都市、ダルゲンの民家は木造建築が多く、よく燃える。
「
軽く息の上がったユリアンは急ブレーキで引き返し、座り込んだ団長を上から覗き込む。
するといきなり立ち上がったと思ったら、鉄製
「痛ってぇぇーーえ!!!」
にもかかわらず、芯から痺れるような衝撃。繰り返すが鉄兜の上からである。こっちがこんなに痛い思いをしているというのに、
「ばかやろう! 銭を見逃すんじゃないよ! 1
兵士の遺体と遺体の間からつまみ上げたのは、赤銅色の1
「うぅ…いくらヘルジェンが嫌いだからって…。こっちは
ユリアンを置いてけぼりにして、ヴェンツェルはさっさと走り去っていく。あの速さで一体どうして、血まみれの死体の間から似た色の硬貨を見つけるのだろうか。
「うおっ! そんなこと言ってる間に追ってきたぁ!」
背後に迫るのは、赤
「あ、ヨハンさんにセバスチャン!」
更に前を走るのは『孤狼のヨハン』の二つ名で知られる、ヴェンツェル傭兵団で一番の古株だ。切れ長の瞳に長めの茶髪、シャープな体つきの男は、スピードを落としてヴェンツェルに速さを合わせ、一言だけ言った。
「大赤字だな」
「黙って走りな!」
団長に支払いの話をすると、途端に機嫌が悪くなる。金の無心は大げさでなく命懸けである。
「まさか味方に裏切られるなんて誰も思ってなかったでやんすよ」
ずんぐりした体型のセバスチャンだが、動きは敏捷で転がるように速い。
文字通り敗走中なのだ。もともと劣勢ではあったが、有力貴族バッシ伯の離反が決定打となり、ヴェンツェル団が雇われているブレア国はドミノ倒しのように散った。負け戦に給金は支払われない。
「その顔じゃ戦利品もなし。ここまでの逗留費で大赤字、今日の生活費もままならない。違うか?」
「…どうにかするよ」
しかし意外にもヴェンツェルは静かだった。それほど深刻な金欠なのかと、かえって不安になる。
ヘルジェン兵は民家に火を放ち、炙りだすように略奪を働いている。傭兵であり兵士ではないユリアンに市民を守る義務はないが、自分の故郷も同じ目に遭わされたので、さっきから悲鳴を聞くたびに後ろ髪を引かれている。
「剣を抜くんじゃないよ。黙ってついて来な」
ヴェンツェルの声を、ユリアンは突き刺される思いで聞いた。
街を出て追手の数が少なくなると、四人はようやく走るスピードを緩めた。
「見ろ」
ヨハンが指さす先、ブレア国の本営がある丘の上から、真っ黒な煙がいくつも立ち上っている。
「ブレア国も終わったかな。これじゃ絶対給金なんてもらえっこないね」
ヴェンツェルは汗で張り付いた群青色の髪をかき上げた。
服装と体型を見れば完全に男傭兵。しかし日に焼けてなお青白さを残す繊細な顔の輪郭は、女である。目鼻立ちには澄んだ夜空のような品があり、どこか少女のようなあどけなさも残っている。
仕方なく定宿に帰ろうと歩き出すと、「何か来る」とヨハンが剣を抜く。この男が警戒するときは間違いない。三人も剣を抜いて、何かに身構えた。
向かってくるのは馬の
「追われてるの、女の人っスね」
それはみるみる近づいてきていた。
「私たちには関係ない。行くぞ」
ヴェンツェルは別の方向を向いたが、ユリアンが動こうとしないので舌打ちする。
「ユリアン!」
「うおおおおーーっ!!」
疾駆している馬にぶつかって行く。これだけで十分に命の危険を伴うが、ユリアンにためらいはなかった。
剣線が騎手の足を切断し、馬首から転がり落とす。見ればヨハンまでも次の騎手を切り倒し、既にその馬を奪っている。
「ヴェンツェル、乗れ」
「…高くついても知らないからな! もう!」
その馬に飛び乗ると、ヴェンツェルは女を追った。
まだ追手は四人いる。背中から短刀を抜くと、揺れる馬上で狙いを定め、前を走る騎手の背に投げつけた。命中すると体がぐらつき、そのまま落馬する。
それには見向きもせず、ヴェンツェルは次の馬に並ぶ。相手は柄が長い槍で突いてきた。馬を操り近づいては離れて、タイミングを見計らい、相手が槍を長く突き出した瞬間に馬上から飛びかかる。
「このや———」
野郎、と言いたかったのだろうか。ヴェンツェルの拳が顎に炸裂し、それ以上言葉をつなぐことはできなかった。
そのまま地面に投げ落として、馬を駆る。残りは二人。
すると背後から矢のように槍が飛んで、前を行く騎手の背中に刺さる。
「いいコントロールじゃないか」
すぐ後ろ、拾った槍を馬上から投げたユリアンだ。褒められると最大級の笑顔になった。
残るは前方の一人。しかしその騎手も投げ槍を構えて女の背を狙っている———!
「しまった!」
だが狙いは外れ、命中したのは馬の尻だった。暴れた馬の背から、女が落馬する。
ヴェンツェルは敵を追い抜き女の元に駆け寄った。
「手を!」
だが落馬した時にどこか打ったのだろう。女は体を起こすのもやっとだ。引き上げることはできず、下馬したヴェンツェルは女を抱きかかえる。
「危ないっ…!」
叫んだ女の視線の向こう、ヴェンツェルの背中で、男が剣を振りかぶっていた。ヴェンツェルの手に、剣はない。
鍛えられた太刀筋は、一撃で首を切断するだろう。
が、刃はそれ以上進めなかった。
「な…ッ!」
止めたのは、ヴェンツェルの左腕、籠手すら巻いていないむき出しの肘の下だ。だが刃が肉を断つことはなく、まぎれもなく鉄と鉄とがぶつかった感触だ。
「なんだこれはっ…!?」
まるで鋼鉄の骨である。
「一応、表面は切れるから痛いんだよ」
言う通り、表皮からはじわりと赤い血が滲んでいる。が、ギリギリと刃は押し返されている。
「クッ! なんだこいつ!」
「傭兵さ。運が悪かったね」
男が二打目を放つより先に、素早くヴェンツェルが剣を抜きざま、両断した。
「…クックククク! 馬で全額返済してもまだお釣りが来るな!」
一人笑いが止まらないヴェンツェル。
満面の笑みのヴェンツェルを素通りし、ユリアンが女の元へ駆け寄る。
「大丈夫っスか!? あの、クリスティーナ妃っスよね?」
「クリスティーナって、ブレア王家の?」
思わずヴェンツェルも振り返る。
「前に王都の市場に視察に来てるのを見たことがあったっス。綺麗な人だったから…」
それは、異国の女だった。
異国とは、
彼女はそんな野望の帝国の皇族で、六年前にブレア王家へ嫁いできた。
間近に見て、まず目を奪われたのがその肌だ。ブレア国の女にはどんな鉱物を塗っても表せないだろう、艶やかでみずみずしく滑らかな小麦色。足首で絞った帝国風のパンタロンがとても似合っている。
「傭兵と仰いましたね? それに斬られない不思議なお体…。お願いです、どうか殿下を助けてください!」
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