片隅喫茶店
柚城佳歩
片隅喫茶店
行った事のない駅で降りて、行き先を決めずに歩く。
散歩ほど気軽じゃなくて、だけど旅と言うには大袈裟で。
そんな自由気ままなものに、昔からずっと憧れていた。
高校の卒業式も終わり、バイトで貯めた資金も時間も出来た今日。漸くその憧れを実現する時が来た。
少し躊躇ってから、決心が鈍らないうちに思い切って一万円札をICカードにチャージして改札を潜る。
いつもとは反対方向の電車に乗り込み、適当な駅で乗り換えること数回。
がらがらのホームで乗ってきた電車を見送ると、未知の場所へと踏み出した。
当たり前の事ながら、周りはどこを見ても初めて見るものばかり。新鮮で心が躍る。
足の赴くままに歩いていると、小学生の時に“冒険ごっこ”と称して離れた町まで自転車で出掛けた日の事を思い出した。
あの時は少しでも遠くへ行く事に夢中で、空が夕焼けに染まり始めた頃になって初めて帰り道がわからなくなっている事に気が付いた。
携帯も持っていないし、電話ボックスも見当たらない。覚えている場所まで慎重に戻りながらも、どんどん暗くなっていく空に同調するように不安が広がっていく。
もしかして今日はもう家に帰れないかもしれない。見知らぬ町で途方に暮れかけた時、偶々通りすがったパトカーに自転車ごと拾われて、一頻り怒られた後、こんな遠くまで一人でよく来たなぁと褒めてももらえて、子どもながらに認めてもらった事が嬉しかった。
何故今そんな懐かしい日の記憶を思い出しているのかと言うと。
「迷った…」
スマホ片手に道の真ん中に立ち尽くす。
駅に戻りたいのに、GPSとの連携が上手くいっていないのか、マップはさっきから同じ所をぐるぐると案内している。
知らない町で、道を聞こうにも人は居らず、塀の上を野良猫が歩いているだけ。
まさか猫に聞く訳にもいかないしなぁ…。
そろそろ足も疲れてきたし、ここらで一度休憩したい。けれども周りは家ばかりで、コンビニすら見当たらない。
次のあの角を曲がって何もなかったら、もう路上でもいいからちょっと休憩しよう。
そう思って曲がった道の先。
古い民家の間にひっそりと佇むようにして、そのお店はあった。
目立つ看板がある訳でもなし、ドアに控え目に“open”の札が下がっているだけ。
窓の隙間から見える店内はカウンター席がいくつかと、テーブル席が二つ。
いかにも隠れ家的というか、ちょっと昔のドラマに出てきそうな雰囲気の外観に惹かれて、誘われるように扉を開けた。
――カランカラン。
「いらっしゃいませ」
眼鏡を掛けた優しげな面差しの青年が、カウンター席に腰掛けたまま振り返った。
手に持ったコーヒーカップからは、芳ばしい香りがこちらまで漂っている。
「…こんにちは」
この店のマスターだろうか。その青年は俺に席を勧めると、カウンターの向こうに入っていく。
テーブルに置かれたメニューを見ると、コーヒーや紅茶、ジュースやココアに並んでタピオカミルクティーまであって、なかなかに種類が豊富だ。
そもそも喫茶店と言うものにほとんど入った事がないから他のお店はどうかよくわからないが、ここはフードメニューもあるらしい。
ただ、明らかに変わっていると思うのはその書き方。
“お好きな物をリクエストください”
これは、頼んだら何でも出してくれるって事なんだろうか。
見たところ店内は至って普通で、特別に調理用品が充実している訳でもなさそうだ。
「メニューはあってないようなものですから」
俺の心を読んだかのようなタイミングで、先ほどの男の人が声を掛けてきた。
「あ、いや、えっと」
「ふふっ、初めてのお客さんは戸惑う方が多いので。メニューは文字通り、お好みの物をお出ししますよ」
「何でも?」
「パスタに餃子、うどんやガパオライス、デザートまで、たいていの物は何でも」
想像したらお腹が空いてきた。そう言えば、お昼は疾うに過ぎている。
ご飯も注文したいが、やっぱり最初は。
「コーヒーをください」
「畏まりました。コーヒーならお任せください」
優雅にお辞儀をすると、滑らかな動作で何かの道具を取り出して豆を入れ挽いていく(道具の名前はコーヒーミルと言うそうだ)。
ゆったりとしたリズムで豆を挽く音が静かに響いて耳に心地好い。
挽いた豆が手際よく移し変えられドリップされるのを待つ間、俺はお兄さんこと
「このお店は一人でやっているんですか?」
「ここは友人の祖父が始めたのを引き継いだものでね。来るのはほとんど顔馴染みばかりだから、一人で充分なんですよ」
「じゃあこんなざっくりとしたフードメニューになったのは?」
「この辺りにはお店がないから、お客さんの要望に応えているうちに今の形になったんです」
確かにここに辿り着くまでの間、飲食店どころかそもそもお店すら見掛けなかった。
だから俺も路上で座り込んでの休憩を覚悟したのだが。
いつの間にか淹れ終わったらしいコーヒーが差し出される。
扉を開けた時に感じた深い香りをゆっくりと吸い込んでから、何も入れずに一口飲んでみた。
あ、思ったより苦くない。
コーヒーなんて普段ほとんど飲まないけれど、そんな俺でも飲みやすい味だった。
「沖谷さん、美味しいです」
「ありがとうございます。お口に合ったようで何よりです」
―ぐううぅぅぅうう。
沖谷さんの声と重なるタイミングで、俺の腹が鳴った。なんてタイミングだろう。この後ご飯も頼むつもりだったけれど、もう少し耐えてほしかった!
「もしかして、お昼まだなんですか?」
「…はい。さっきまで道に迷っていて食べ損ねてました」
「そうですね…、少しお待ちください」
そう言うと沖谷さんは冷蔵庫から何かを取り出し、お皿に切り分けて差し出してくれた。
「今はこれくらいしかないのですが、ガトーショコラです。試作品なので、よかったら食べて感想を聞かせてください」
「ありがとうございます。いただきます」
フォークで切って一口食べてみる。
濃厚なチョコの香りのわりに甘さは程好く、コーヒーとも紅茶ともよく合いそうだ。
ふと、自分のコーヒーのカップに手を伸ばしたら、いつの間にやら空になっていた。
「あの、すみませんおかわりを…」
「どうぞ」
俺がおかわりをお願いする前に、新しいコーヒーが差し出される。
それをありがたく受け取りながら、やっぱりこういうお店のマスターは話を聞くのも気遣いも上手いんだなぁと、沖谷さんの顔をまじまじと見詰めてしまった。
カランカランッ。
店のドアベルが勢いよく鳴る。
振り返って見ると、頭にタオルを巻いたエプロン姿の色黒で大きな男の人が、両手一杯に紙袋を抱えて入ってくる所だった。
「ただいまー」
「おかえりなさい。お客さんがいらっしゃってますよ」
「おう、初めて見る顔だな。いらっしゃい。何か食べるか?」
ただいま?おかえり?いらっしゃい?
頭の中をクエスチョンマークが飛び交う。
なぜこの仕入れ業者の風体の人が注文を聞いてくるのだろう。
「あぁ、彼はこのお店のマスターの
「え!」
思わず沖谷さんとマスター(?)を見比べてしまう。沖谷さんはマスターじゃなくて、こっちの益田さんって人が本物のマスターで。
それじゃあ沖谷さんって何者なんだ?
「沖谷は趣味が高じてコーヒーを淹れるのがやたらと上手いだけの、ただの常連客だよ」
「お客さん、なんですか…」
「自分で言うのも何だが、こいつの方がよっぽどマスターに見えるし、コーヒーに限って言えば腕は確かだ。知らない間にこの店の味まで再現できるようになってるもんだから、急な買い出しの時とかにちょっとした留守番を任せてるんだ」
「へぇー…」
言われてみれば沖谷さんはマスターだなんて一言も言っていないし、お店やメニューの事もただ普通に説明してくれただけだ。フードメニューは何でも出せると言っておきながら、俺に注文を取ろうともしていなかった。
益田さんがカウンターの中に入ると、入れ替わりで沖谷さんが俺の隣に座る。
「騙すような感じになってしまってすみません。新鮮な反応が面白かったのでつい」
悪戯が見付かってしまった時の子どものような顔で微笑む沖谷さんを見たら、釣られて笑ってしまった。
目の前では益田さんが早速フライパンを振るっている。食欲を誘う香りに、俺の腹が再び盛大に音を立てた。
初めて来た町で見付けたちょっと変わった喫茶店。
そこに通う客もマスターもどこか変わっていて。
だけど妙に居心地が良い。
この出逢いは偶然か必然か。
俺はまたここに来たいと思う。
今度は迷わず真っ直ぐに。
片隅喫茶店 柚城佳歩 @kahon
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