アキレスは亀に追いつけないか ?

 ゼノンのパラドックスという「思考の鍛錬」では、いかに俊足のアキレスが頑張って走っても、スタートした時点で先を行く亀には永久に追いつくことができない、という話があります。

 大学で日本拳法を始めた者は、どんなに頑張っても小・中・高から日本拳法をやってきた者に追いつくことができないのだろうか。

 古来、西洋では「学問に王道なし」と言われ、中国の孔子は弟子の子貢をして「行くに径(みち)によらず。近道をしないで天下大道を行く男です。」と(高く)評価したという。

 大学日本拳法の世界で、(試合に勝つという点のみに於いて)近道をせずに日本拳法が強くなる道は「組み打ち」だけなのだろうか。

 

 レオナルド・ダ・ビンチは「理論なき実践は、舵機や羅針盤のない船のようなもの」といったそうですが、すこしでも(幾つかの)理論を頭にたたき込んでおけば、頭の良い皆さんのことですから、頭から身体の各部分にそれが伝わり、「意識して練習する」という知的な練習スタイルによって、必ずや先を行く亀に追いつくことができるに違いありません。

また、カントの「純粋理性批判」とは各人が自分で純粋理性に至るための道しるべです。カントは「哲学を学ぶのではなく、各人が自分で哲学することが重要である」と述べています。


以下の項目は、宮本武蔵著「五輪書」岩波文庫版からの抜粋です。

 武蔵の時代の剣法とは、体当たりも殴る蹴るもありという、いわば何でもありのケンカ剣法です。武蔵はそのうちの幾つかを思い出して列記したのです。ですから、他にいくらでも戦い方・戦いのコツはある。また、全ての戦い方というのは独立していない。つないだり後戻りしたりして連携しているのです。

 ですから武蔵は、各項目の最後に「自分の頭で考えて、よく研究せよ」「いくら頭で考え納得しても、実際にその場でその通りに身体が動かせなければ意味がない」と言うのです。 以下の文章中、「P.50太刀のみち」で引用させて戴いた、青山学院大学OKさんのブログでのお言葉の通りです。


P.12 すく(好きになる)

武蔵は自分が無敵であった(戦いに負けたことがない)理由を,、天理に即した戦い方をしたこと(P.10)と、戦いの道を好きになること(P.12)だと、「五輪書」の地の巻冒頭で、先ず説きます。

 天理と言い、男女ともに三段クラスの人に見る、美しい、無理のない打ちや蹴りをすることが、そのまま「天理に即した・自然の流れ、物理法則に則った」ということなのです。

 はじめはぎこちない打ち方をしていても、何万回と打ち続ければ、誰でも無理のない自然で素直な美しい打ち方になるのです。

 ところが、大学から日本拳法を始めた人や、週に3日しか練習できないなんて人もいらっしゃるでしょう。そんな方には、以下の事例を知って欲しいと思います。


 大学時代、私の同期の桜井という男は24時間いつでも日本拳法をやっていました。

 練習(月曜から土曜の昼の12時?14・15時くらいまでが当時の練習時間帯)が終わり、同期で昼飯を食いに行く時、彼は歩きながら想乱(シャドウボクシング)をやっていた。

 一人で「シュッ、シュッ」なんて言いながらやっている彼と一緒に校内を歩いていると、合気道部の連中と会ったりする。すると、「オッ、先生やってんな。」なんて茶化される。私たち同期も「オゥ、相変わらずバカだからよ。」なんて言って、白い目で彼を見ながら返す。

 この「拳法バカ」は、駅のホームでもやっていたし、夜、アパートから銭湯への行き帰りにも、歩きながら、信号待ちしながらやっていた。

 当時の銭湯というのは、今のようにロッカーなんてなくて、剣道場のような広い板の間に、直径50センチくらいの籐籠を置いてそこに衣類を入れていた。ですから、22時・23時頃の空いている時間帯には、ちょっとしたトレーニングルームのような空間になったのです。しかも、縦2メートル幅5メートルくらいの大きな鏡が壁に貼り付けられているので、パンツ一丁、或いは腰にタオルを巻き付けて、鏡で自分の構えや打ち・蹴りを確認しながら、彼は想乱をやっていた。

 

 学校での練習(量)は、皆同じです。にもかかわらず、彼がずば抜けて強かった理由は、学校(道場)以外での練習にあった(と私は思っています)。四六時中・のべつ幕なし、「敵がこう来たらこう打ち返す」なんて想像しながら「心の中で日本拳法をやっていた」から、現実の練習や公式戦で、それがそのままできたのです。

 また、彼の性格は素直でした。変な技巧を使わず、力任せの戦いや無理な攻撃はしない。

 間合いとタイミングに関しては、上記の「のべつ幕なしやっているシャドウ・ボクシング」で鍛えていましたが、場に関しては頓着していませんでした。自分の雰囲気で威嚇するとか、カリスマ的な雰囲気を漂わせるなんてことはできない性格だったのです。

 四六時中、拳法の想乱ばかりやっていましたが、学校の勉強はちゃんとして、教員試験にも合格したし、教育実習にも出て、卒業してからは高校の先生をやっている。「日本拳法が好き」だった男でしたが、たんなる「拳法バカ」ではなかったというわけです。

 

P.61 太刀にかわる身

 よく自分の出番が来ると、試合場の円の外でピョンピョン飛び上がって四股を踏むようなことをする人がいます。床をならすドンドンという音の威嚇によって、自分の場で試合の場(雰囲気)を支配しようとする。

 太刀ではなく自分の身(自分の持つ雰囲気)によって、自分の(立)場を強化して相手を攻撃する。 これが「太刀にかわる身」です。

 武蔵の場合は、敵よりも高い位置に立つとか、太陽を背にして戦うという場の取り方ですが、日本拳法は決められた試合場で行うわけですから、やはり武蔵がやっていた「心の場」の方に着目すべきでしょう。

 自分の雰囲気・自分の個性で、敵と自分の空間を自分色に染める。そういうことをことさら意識して、試合の場を自分の色に染めるというのは、私は好きではありませんが、試合に勝つことを目指すなら、反則にならない範囲でやることも有りでしょう。

 明治大学の組み打ちの強い選手は、その前進の仕方自体に独自の威圧感を持っていた(意識的に持たせていた)ために、相手はその雰囲気に圧倒されて後退してしまうようでした。 

 

三段クラスになれば、体からにじみ出るその人の持ち味というものがありますが、たとえ三級でも、自分というものを存分に打ち出す。

 宣伝ではなく発揮する。見せようとするのではなく自分のスタイルを自分で自覚することでにじみ出てくる、自分しかない個性を自然のままに表現する。

 一般的に、下手は上手の場(スタイル)に飲み込まれてしまうものですが、たとえ三級でも、三段相手に「自分の拳法」をぶつけてやればいいのです。


P.63 しうこうの身

 手先だけで打つ、足だけで蹴るのではなく、身体全体で、体当たりする気持ちで打ち込み、蹴り込む。

 武蔵の世界では、腰を引いて手だけで太刀を振り回していては、やはり武蔵のいう「紅葉の打ち(P. 61)」により、手首や二の腕を斬られ、太刀を落とし、結果として殺されてしまうことになる。

 日本拳法で殺されることはないが、突きや蹴りの一発に全体重をかけるくらいでなければスピードが乗らないし、身体でぶつかる気魄で打つ・蹴るからこそ、敵は自分から後ろへ退いてしまう。その結果、自分にとってちょうどいい間合いになるのです。

 よく明治の選手が手先だけで、ものすごいスピードと破壊力のパンチを繰り出すのを見ることがありますが、あれは子供の時から身体全体で打つ鍛錬をしてきた者が、その完璧な打ちをさらに昇華させて生み出した、その人だけの味(技術的風味)なのであって、大学から始めた者が早々できるものではない。

 ああいうパンチを食らわないようにするには、やはり、自分から身体(顔面)を突き入れて相手の間合いの内側でこれを受け止めるしかない。相手のパンチの間合いの外に逃げるのではなく、前へ出て間合いの有効性を消してしまうのです。


 西暦1600年、関ヶ原の戦いで西軍の島津藩が見せた「島津の退き口」という、「前へ退却する攻撃」です。


P.64しっこうの身

 日本拳法では、組み打ちに関する教えとなります。

 接近戦(組み打ち)になったら、腰を引いたり上体を曲げたりしないで、逆に腰を入れて相手に密着し、上体をまっすぐに伸ばして相手を(下から)押し上げて後退させる。

 私の大学時代には、組み打ちをしてくる相手にはそうやっていました。そのとき、相手の面を

下から押し上げたり、自分の面を押さえる相手の腕、その肘の部分をやはり下から押し上げて相手を場外へ押し出す。組で一本取る気はないので、負けない組み打ちをしていました。


P.64たけくらべ

 これも「しっこう」と同じ。「しっこう」は相手にくっつき下から押し出す、「たけくらべ」は相手を上から押し込む。


P.65ねばりをかくる

 これは初心者には少し難しいが、日本拳法の攻撃における「つなぎ」です。


P.65みのあたり

 頭で相手の胴に頭突きを食らわせて倒し、押さえ胴・面突きで一本を取る。日本映画「悪名」の主人公で実在の人物、八尾の朝吉が得意としたケンカ殺法ですが、日本拳法でもたまに見る攻撃です。2008年、C大学の選手がやっていました(ビデオで見たのですが)。


P.67おもてをさす

 同志社の女性Tさんが得意とした直面突きですが、これは自分の場と、相手との心の間合いと、時間的なタイミングがピタリと合わないと、なかなか難しい。

 積極的・連続的に面を攻撃することで相手の顔を仰け反らせ、そこで(回し)胴蹴りなどで一本取る。これも結果としての「面を刺す」ことになるわけです。 2018年の全日本学生拳法選手権大会決勝戦、明治副将の「躰々の先」がこれです。


P.50太刀のみち

自分にとって最善・最高の拳の軌跡を自分の身体に覚え込ませる。普段、私たちが歩いたり食事をする時の箸の動きというものは、無意識のうちに、最速で最も合理的で無駄のない動きをしているはずです。それと同じようにということ。

現役時代に三段クラスであった人などは、そういう形(かたち)が、そのままその人の心にピタリと一致している。

 かつての名選手でいらしたある大学のOBの方が、時折母校の日本拳法部の練習に参加され、白い胴着を着用し、独り黙々と突きや蹴りをされている写真を見ることがありますが、それは40年前の自分の形(かたち)から、当時の自分の(若々しい・ピュアな)心を思い出そうとしていらっしゃるのかもしれません(今の心が悪いということではありません。社会人になれば、どうしても、何重もの心の殻が必要になるものですから。大学日本拳法のブログで後輩たちの瑞々(みずみず)しい感性に触れたり、自分自身が道場で白い胴着を着て基本動作をすることで、若き頃の自分の心を思い出すというのは、これもまた、日本拳法の味わい方でしょう)。

 心は形を生み、形は心を呼ぶ。

 学生時代は戦う心から自分の形(スタイル)が誕生し、老いてはその形から昔の若々しい心・本来の自分の心を思い出す。

 自校の道場で真っ白の胴着を着て、たった一人でゆっくりと自分の形(スタイル)を復唱することで、今の心と過去の心がピタリと一致する。まさに「過去心不可得・現在心不可得」の境地でいらっしゃるのでしょう。


① まずきちっとした、無理のない、合理的で、誰が見ても自然で美しいと感じるような構えを醸成する。何万回の繰り返しの中で、自然と醸し出されてくる形。

② 無理・無駄のない正しい拳の道筋・軌跡を身につける。

③ 心と体(かたち)の一致

打つと思った瞬間、全く同時に拳を打ち、蹴りを入れている。


「・・・・。まわしでは久し振りに過呼吸になるレベルでしんどかったです。」

「しんどい中でも、自分が今課題としているものを意識することであったり、行動にうつすことがまだまだ自分にはできていないと痛感しました。」

「日々の練習でたくさん試して、経験を積んで試合にいかせる技を増やしていきたいです。・・・」


 春休み最後の練習&四年生紹介

 2019-03-30 19: 15: 39

 ht t ps: / / amebl o.j p/ aoken-wakiwaki /


P.87とをこす

 強弱・硬軟・遅速のメリハリをつける。月の満ち欠けのような変化を順行・逆行、リズムを以て行う。いつも同じ調子で攻めない。場と間合いとタイミングに即した抑揚と変化のある自分の攻撃で相手を巻き込む。


P.89けんをふむ

 明治大学の組み打ちのプロとも言えるF選手の攻撃のように、相手に何もさせない。大波が一気に飲み込むように、大風が木も家もなぎ倒すように打ち倒す。(学生時代に工事現場の飯場で働いていた時、筑豊炭鉱出身の老職人が、飯に味噌汁をぶっかけて食っている若い職人に、炭鉱の土砂崩れを思い出すからやめてくれと言っていました。津波や台風の災害に遭った方には申し訳ありませんが、単なるたとえです。)


P.92敵になる

敵の身になって(自分との戦いを)考える。敵がやりたいこと、やって欲しくないことはなにか。「自分がして欲しくないことを人にすること勿れ」とは、純粋民族である日本人(縄文人)同士での話です。

 戦いの場、特に韓国・朝鮮・西洋人という混血民族との戦いにおいては「相手の嫌がることを、暗に陽にチラつかせて自分が優位になる」というのは、彼ら異邦人にとっては人間関係を自分に有利にするための基本なのです。

 私たち日本拳法人も、試合の上では敵の弱点を研究して攻めることも必要でしょう。


P.93四つ手をはなす

膠着状態になった時に離れるのはいいかもしれないが、肝心なのは、この離れる時がチャンスということ。組んだ敵から放れる時、打ち合いで近づきすぎた相手から離れる時、気が抜けるこの一瞬に面突きや蹴りで決める。


P.99まぶるる

 日本拳法における「つなぎ」のこと。

「四つ手をはなす」と同じで、膠着状態になった時で、しかし、ここでは直接的な攻撃をしないで次の攻撃(チャンス)に「つなぐ」ための流れを維持するというか、「まぶれ」ながら「あらたに」生み出すのです。


P.101うろめかす

 敵の心を不安定にする。

 韓国人が日本人に対して日常的に行う「脅し」です。相手の心を「うろめかす」ことができれば、自分が相手より劣っていても、見かけ上は対等に或いは有利に見せることができる。警察が水戸黄門の印籠(警察手帳、警察という肩書き)によって自分を大きく見せる、韓国人が相手の心に罪の意識・謝罪の心をもたせて自分の(立)場を優位にする。ともに同じ心理作戦ということで、日本の警察官と韓国人とはよく似た行動心理をしているということです。

 こういう「詐欺」に引っかからないように、常日頃から自分の心を鍛え、年を取ってから「オレオレ詐欺」などに巻き込まれないようにしましょう。大阪人は権威や肩書きという脅しに強いから、東の人間に比べ、詐欺に引っかかることが少ないのです。


P.102三つの声

 声というものは、それ自体に力がある。拳や蹴りの威力と同じくらいのパワーを期待できる、と武蔵は言うのです。

「打つと見せて、かしらよりエイと声をかけ、声の後(あと)より剣(拳)を打ちだす」。

 日本拳法では「エイ」という強い声が、拳と同じくらいの効果があるというわけです。


P.105さんかいのかわり

 海となし山となす。変幻自在の攻撃。

 三級だからといって、その級らしく「とっぽい(ガキのような)」殴り合いをすることはない。自分のアイデアと気迫で自分色の拳法をし、素人でしかできないというくらい突拍子もない攻撃でも、やってみる価値はある。

 最近のビデオで見たのですが、東京の立正大学の選手など、段位に関係なく、明治の高段者に対し、伸び伸びとした良い拳法をやられています。


以下の項目は「空の巻」に組み入れてもいいものです。

P.105さんかいのかわり

P.106そこをぬく

P.107あらたになる

P.108そとうごしゅ


2019年04月05日

平栗雅人

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カントと武蔵と日本拳法 @MasatoHiraguri

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