カントの求めた純粋理性とは

 カントの求めた純粋理性とは、以下のことと同じなのです。


 ○「父母未生以前の自分とはなにか」

 これは、1800あるといわれる禅(臨済宗)における公案(悟りを得るための道標:みちしるべ)の内の一つです。

 禅とは自分のルーツ(根源)探しの旅です。

 それは、DNAがどうのこうのという話ではなく、自分の人間としての本性、精神的な本質、究極の魂を、自分の内に自分自身で哲学することで見つけていこうという壮大な旅。その為のツールが坐禅であり、アプローチの仕方としての禅による生活というものなのです。

 カントは、坐禅ではなく哲学というアプローチによって、自分の内にある純粋理性を徹底的に追求することで、禅で言う「本来の自分」「本来の面目」「父母未詳以前の自分」に行き着こうとしたのです。



 ○「若以色見我 以音聲求我 是人行邪道 不能見如來」(金剛経)

 このお経全部を口に出して読むと約45分かかりますが、このお経の最大の肝はこの20字にあります。

 このお経で言う「人間の本質を見よ」とは、そのままカントの言う「純粋理性」のことです。

 目に見える姿形・耳に聞こえる音や声・手に触れる冷たさや温もり。そういう生理学や物理学・数学や化学(の世界)を超越した、しかし、それら自然科学以上に確かな精神世界・形而上における確固たる存在感を知る。これがカントの追求した「純粋理性」であり金剛経に云う「如来」なのです。



 ○ 「天理をはなれざる故に、60数度の真剣勝負(殺し合い)に勝ち抜くことができた」岩波文庫「五輪書」P.10

 この天理こそカントの言う「純粋理性」であり金剛経に云う「如来」。武蔵は(天理を)剣の戦いのみならず生活全般において鍛え、カントは哲学という道によって純粋理性を追求しました。

 カントの追求・鍛錬の仕方が「批判哲学」という手法なのです。

 この意味で、この本の題名は「禅と武蔵とカントと日本拳法」になるのですが、語呂が悪いので「カントと武蔵と日本拳法」にしたのです。

 禅は改めて別の本で批判(カント的に検討するという意味)しましょう。



 2019年04月05日

 平栗雅人

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