カントと武蔵と日本拳法
@MasatoHiraguri
はじめに
学生時代、あまりに難解ゆえ本屋の立ち読みで諦めたカントの「純粋理性批判」。
現代におけるThink Tankの元となった「ドイツ参謀本部」を理解するにはカントを知らねばならない。
そこで、今回あらためて読み直してみると、これがなかなか面白い。(現代のシンクタンクとは、単なる「知識の寄せ集め」であり、本来の「ドイツ参謀本部」とはまるで次元が違うのですが、そのちがいがカントにあるのです。)
学者ではないので、カントの著作を一言一句「理解」する必要もないし、「論語読みの論語知らず(いくら良い本を読んでも、それが実際の生活に生かせなければ意味がない)」ということもある。デジタル的に字面を追う(理解できる・できない)という読み方ではなく、カントの本質に接近するというか、彼の心に自分の心をどこまで近づけることができるかという、アナログ的アプローチが大切ではないか。
そういうスタンス(場)でカントに向かい合い、間合いを詰めてみると、彼の求めた「純粋理性」とは、私の知る範囲での禅や宮本武蔵の「五輪書」そして日本拳法と、目指すところはまったく同じであるということに気がついた。
自分のルーツ探し、しかも生理学的な血ではなく「魂の血」、自分の精神的な本質を見極めるためのアプローチとしてカントがあり、禅があり、武蔵の兵法(「五輪書」)、そして日本拳法なのだと。
こうなると、近頃しょぼい(パッとしない)禅も、400年前の特別な人間だけがやっていた剣による殺し合いの世界で生まれた「五輪書」なる書も、俄然面白くなってくる。
何もかもソフト(柔らか)で楽しくなければ一般受けしない現代。テニスやサッカーのようなゲーム・娯楽感覚で楽しめるスポーツと異なり、現実に殴る・蹴る・投げるという乱暴な競技である日本拳法も、武蔵が追求した天理、カントの唱えた純粋理性に至る道となるのです。(武蔵がいう天理とは、宗教のそれとは違います。)
禅に言う(純粋理性としての)如来、武蔵が鍛えた天理、カントが追求した純粋理性という観点から日本拳法を再体験することで、私たちは日本拳法をもっと楽しむことができる。
若き大学時代だけでなく、ジジイになっても、否、身体が動かなくなってからこそが、日本拳法(の世界)を本格的に味わう時であるとさえ言えるのかもしれません。
2019年04月05日
平栗雅人
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