第3話 8月某日土曜日朝の話(3)

 掃除、餌やりと30分程の作業を終え、午前の仕事は終了した。同じ手順を夕方にもう一度繰り返してその日の当番は終了となる。午前と午後の作業を合わせても一時間ちょっとしかないのだが、普段なら授業で埋まる空き時間も、土日や休暇中は午後の開始時間を気にしてしまうためどうしても持て余し気味になる。かといって作業をサボるという選択肢を選ぶことは、すなわち彼らに半日分の餌を与えないという事実に結び付いてしまうため気が引ける。幾ら交代制とはいえ、月に一度は必ず回ってくる休日当番は決して軽い制度では無かった。


「ふぁ~、身体を動かしたらお腹空いたわ」


 長靴からサンダルに履き替えた先輩が両手を上に伸ばしながらしみじみと呟いた。起床から数分後の作業開始では食事をする時間があるはずもなく、ここはお礼も兼ねて差し入れでもするべきかと内心考えながら来た道を戻る。


「ね、知代ちゃんは朝ご飯食べて来たの?」

「いえ、今からコンビニに行くつもりです。ついでに何か買ってきましょうか?」

「あ、ううん。そういうつもりじゃないの。

 あのさ、良かったら朝ご飯一緒に食べない?」

「はい? それは全然OKですけど、私、教室に財布を置いてるので……」


 このままコンビニに買い出しに行くつもりかと足を止めると、つられた様に動きを止めた先輩が不思議そうにパチパチと瞬きし、直ぐに笑顔を見せた。


「あはは、お金なんか取らないよ!

 とりあえず教室に戻ろっか!」


 ◇


 着替えを済ませた先輩が向かったのは第二教室と対面するようにある『動物管理学第一教室』のドア。自分の家の様にポケットから鍵を取り出すと「さあどうぞ」とばかりに入室を促された。


「失礼します」


 訳の分からぬまま中に入ると、ふわりと嗅ぎ慣れた香りが鼻に届いた。


「……どうしてここに炊飯器があるんですか?」

「だって自炊した方がお金掛からないじゃない?」


「私が聞きたいのは大学の教室に炊飯器がある理由なんですが……」

「あはは」


 持ち込んだであろう本人はあくまでも所有者を曖昧にしたいらしい。子供じゃあるまいし学校に不適切な物を持ってきたと教授に告げ口するつもりもない。そもそも私を誘った時点でバレる事は分かっていた筈だ。それ以上何も言わなくなった私を満足したのか、先輩は炊飯器のスイッチを切ると蓋を開けた。

 もわっとした湯気と共に広がったご飯特有の匂いが程よく動いた後の身体をじわりと揺さぶる。


「おかず、簡単なやつで良い?」

「あ、はい」


 先輩は取り出したしゃもじでご飯を軽く混ぜると教室に備え付けの簡易キッチンに向かい、これまた当たり前の様にシンクの下から出てきたフライパンをコンロに置くと、鍋肌が温まる間に冷蔵庫から取り出した卵を次々と割っていく。


「卵焼きって甘い派? しょっぱい派?」

「甘い方です」

「おー、同士じゃん」


 何故か嬉しそうな表情の先輩が溶き卵を流し入れてフライパンを動かす。その慣れた手つきに見とれてぼんやり立ったままでいた事に気がついた。


「あの、手伝います!」

「ん? それなら、お茶碗とお皿出してくれる? その棚の下に入ってるから」


 言われた通りに学生用のマグカップを置く棚の下の引き戸を開けば、綺麗に整頓された食器が幾つも並んでいる。一番手前に置かれていた茶碗と皿のセットを取り出して皿だけをシンクに置くと、ご飯をよそう。


「知代ちゃん、冷蔵庫の左側にインスタント味噌汁が入ってる」

「はい」


 初めて開けた冷蔵庫の中は実家の冷蔵庫の様に色々な品物が入っていた。キッチン自体が共有スペースなのだから私が開けても何も疚しい事はないはずなのに、他所の家の様な居心地の悪さの覚えてしまい、なるべく中を見ないように目的であった味噌汁の袋を取り出す。味噌汁はお湯を注ぐだけの簡単なもので、わざわざ先輩の手を煩わせる事もあるまい。コーヒー用のスプーンを取るとお椀代わりのマグカップに手を伸ばした。


「……」


 ──先輩のマグカップってどれだっけ?


 棚の中には様々なマグカップが並んでいるものの、自分以外誰の物か見分けが付かない。

 学生会議の光景を思い出そうとするものの、いつも自分のマグカップを見つめているばかりだったことに気がつく。失礼を承知で訊ねるべきか悩んでいると、後ろから声が掛かった。


「私のは無地の白いやつね」


「これですか?」

「ん、そうそう」


 普通のサイズより一回り大振りのマグカップを取り出して見せると皿に二つ目の卵焼きを移しながら先輩が頷いた。自分のカップと二つ並べてお湯を注ぎ、スプーンで味噌を溶かすよう念入りにかき混ぜる。


 大きなテーブルの隅に座っている先輩の前にカップを置き、 角を挟むように並べられている席に着く。向かい合わせとまではいかないものの、常にお互いが視界に入る絶妙な位置。


 ──普段からこうして誰かと食事をしているのだろうか?


 そんな疑問が頭を掠めた。


「それじゃ食べよっか。

 いただきます」

「……いただきます」


 実家でも久しく使わない挨拶を当たり前の様に口にする先輩につられて両手を合わせる。卵焼きの隣にはミニトマトが二つ添えられていて、栄養面もちゃんと考えられている事に感心して箸を取った。長い卵焼きは一口サイズに切り分けられており、中央の一切れを摘まむと口に入れた。


 卵に甘さの加わった、家で作る様なごく普通の味。だけど、惣菜やお弁当にあるような調味料や出汁を含まないシンプルさがただ純粋に美味しい。ご飯が欲しくなって茶碗に手を伸ばすと、こちらを見ていた先輩に気がついた。


「すごく美味しいです」

「過剰評価し過ぎだよ」


 けらけらと笑った先輩がそれでも嬉しそうな顔をした。

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