6 記憶の光

「いらっしゃいませ。本日はお越しいただき誠にありがとうございます」

 

 スーツを着た女性が由香に向かい深くお辞儀をする。慣れていると思っていたコンサートホールのあまりに丁寧な対応に、由香は少々腰が引けた。


 大切にしまっていたチケットをポシェットから取り出し、半券を千切ってもらう。何人もの音楽家たちが演奏をしてきた、格式あるホールで、彼が演奏をするということが少しだけ信じられなかった。


 もちろん、彼がプロになろうとしていることも、その実力があるということも承知している。それでもロビーに並んだ花や、壁に貼られたポスターたちが、まじまじとその事実を由香に突きつけた。


 ホールの中に入ると、ワインレッド色のシートが綺麗に並んでいた。綺羅びやかな装飾と無数のライトが、圧巻するほどのステージを作り出している。その中心に、堂々とした雰囲気で佇むピアノ。無音の舞台の上で、今か今かと、音を奏でるのを待ち望んでいるようだった。


 由香は、ふいに息が詰まる。一体、コンサートホールに来たのは、いつぶりなのだろう。ステージに立つ、自分の姿が脳裏に霞んだ。苦しさに似た感情が、胸のどこかで引っかかり、脳内に浮かぶイメージをかき消していく。この手に覚えているはずのピアノの鍵盤の感触さえ、忘れてしまいそうになるほど、頭の中をクラクラとかき乱された。

 

 呼吸を整え、席に座り、辺りを見渡す。スーツを着た大人たちが何人も来ていた。きっと、颯の家族などではない、彼の実力を見るために集まったプロたちなのだろう、と由香は思った。


 注意喚起のアナウンスが終えると、しだいに照明が暗くなっていく。由香の背筋がシャッキと伸びた。妙な緊張感が全身を包み込み、小刻みに手の筋肉が動いた。客席の拍手が、彼の登場を告げた。慌てて、手を動かした由香の拍手は、目も当てられないほど拍がずれていた。


 舞台の上で、颯が深く頭を下げた。客席の拍手がしだいに鳴り止む、それを待っていたかのように颯は頭を上げた。


 いつもより、数段に凛々しい表情をしていた。あの日のような黒いタキシードを纏い、髪を上げている。それでも、その表情の中に普段と変わらない彼の柔らかなものを見つけ、ほんの少しだけ由香の緊張は解けた。


 彼が席に着いた。細くしっかりとした体躯が揺れる。ゆっくりと、整えられた呼吸が客席にまで伝わった。タキシードの袖が上がる。颯の腕が鍵盤の前に構えられた。それに合わせて、息をするのも憚れるほどホール内に静けさが訪れる。誰も、物音をひとつも立てない。立ててはいけないのだと、命令をくだされたかのように客席は緊張感に包まれた。その静寂を切り裂くように、彼の腕が振り落とされる。


 激しい音がホール内に響いた。それでもその音に乱雑さはなく、美しさとしなやかさ、そして大胆さが共存していた。張り詰めた緊張感を楽しむように、彼のピアノは、その表情をしだいに豊かにしていく。


 客席を包み込む波のような音がピアノから溢れ出す。楽譜に書かれた優しいメロディを、颯はしっかりと解釈し、自身の音楽へと昇華していく。


 一曲一曲、大きな拍手が起こった。それに答えるように、颯はピアノから立ち上がり、頭を下げる。


 最後の曲が始まった。由香はすぐに、それが何の曲か分かった。あの日、ショッピングモールで聞いた曲。ドビュッシーの『月の光』、柔らかなメロディラインに、寄り添うように由香は目を閉じた。どこか遠い記憶の中へと吸い込まれるように、意識が流れていく。


 懐かしい感覚が、全身を駆け巡った。ずっと、昔、やはりこの音を聞いたことがある。技術や上手さは、桁違いだけれど、根底にあるものは変わっていない。彼の優しさや音楽への向き合い方、すべてがこの音に表されている。スーッ、と音が遠くなっていき、由香の脳内には、あの当時の颯の姿が思い浮かんでいた。



 スーツに身を包んだ可愛げな少年が、慣れない様子でピアノへと座り、緊張した面持ちで演奏を始めた。その強張った指からは、想像も出来ないほど美しい音の圧力が放たれた。由香は圧巻された。自分と、同じくらいの歳でこんな風にピアノを演奏できる子がいるんだ、と感動した。自分もあんな風に演奏したい。あんな風になりたい。


 そう力強く握った手には、びっしりと汗が滲んでいた。心臓の音が恐ろしく早くなっている。それがどういうことなのか、由香には分からなかったけれど、ただじっとしていれなくなった。


 ハッと、由香が目を開く。遠く感じていた音の波が間近に迫る。ステージの上では、大人びた表情の颯が演奏していた。


 胸の鼓動が、あの頃と同じような弾みをしていることに気づく。これがなんという感情なのか、由香には簡単だった。破裂しそうな感情を、抑えるように胸の辺りで手を握り込む。


 この音を、この演奏を、ただいつまで聴いていたい。そんな風に思った。そんなわけにもいかない。やがて訪れる終演まで、どうかこの時間が続きますように、由香は胸の中で囁いた。


 鳴り止まない拍手が会場を包む。歓声は、様々に彼を称賛していた。舞台の中央で、手を振り、彼はその歓声に答える。この人は、遠くに行ってしまうのだ、と由香は確信した。それでも、気持ちは変わらない。今日を逃せば、きっともう二度とチャンスは訪れないのだから。

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