7 フィナーレ

 公演終わり、由香は控室に繋がる通路口で中の様子を伺っていた。不審者に思われないか不安だったが、遠くに千夏を発見し声をかけた。


「やっぱり、立花さん来てたのね」


 クルリと巻いた彼女の髪がふわりと揺れる。千夏は、由香を見つけてると、小走りに駆け寄ってきた。 

 仕事中の彼女を初めて見る。想像通りといった彼女のカジュアルな身のこなしに、由香はほんの少し顔を赤くした。


「あの、颯くんと会えますか?」


「ちょっと待ってね。今、取材受けてるから、もうちょっとかかるかも。空いてる楽屋があるからそこで待ってて。これ入館書。これを着けてれば止められないから」


「取材ですか?」


「そんな大層なもんじゃないよ。地元の新聞社と音楽雑誌だけだから」

 

 大したことはない、とはいえ彼への期待がそこには現れている。

 由香は、受け取った入館書を首からかけ、楽屋前の狭い通路を通り、千夏に言われた楽屋に向かった。六畳ほどの狭い部屋には、机と会場内の様子を映したモニターだけがあった。


 ほんの少し待っていると、楽屋のドアがノックされた。


「はい」


 出した声はこれみよがしに裏返る。咳払いをしてもう一度、言い直した。


「はい、どうぞ」


 その由香の返事に答えるように、扉越しに颯の声が聞こえてきた。


「由香ちゃん、入るね」


 部屋に入ってきた颯は、すでに私服に着替え直していた。それでも今日は、どこか特別なのか、黒いタイを締めていた。


「久しぶりだね」


 少しだけ寂しげに颯は言った。その一言に、久々に会うということを由香は改めて実感する。


「そうですね、」


 由香の視線が揺れた。


「あ、演奏すっごく良かったです。そう、かっこよかった」


 寂しげな表情になりかけたのをごまかすように、由香は大げさに手を動かし感想を言ってみせた。本当に、良かった、ともう一度繰り返してみる。


 嘘くさくはなかっただろうか、正直な胸のうちも誤魔化しのせいでそんな風に思われたらどうしようと、由香は不安になる。


「それは良かった。ありがとう」


 颯は、随分素直に喜んでいるように見えた。


「これが向こうに行くまでに日本で出来る最後の演奏かも知れない」


 颯は少し寂しげな表情を浮かべる。それでも、どこか満足げで希望に満ちていた。


「いつ、向こうにいくんですか?」


「来月には、引っ越すと思う。向こうで部屋も探さないと行けないし大変だ」


 きっと、自分が抱いている不安なんかよりも、何倍も不安で、何倍も大変なんだろう、と由香は思った。知らない国で、言葉も通じるか分からない。文化も違えば、生活もすべてが変わる。そこに音楽だけで挑もうとしているのだ。


「ここにいるのも何だから、少し外を散歩しない?」


 

 颯の提案で、会場の外に出た。夕陽も沈み、ゆっくり夜が訪れ始めていた。摩天楼たちの灯りが、帳を下りるのをわずかに拒んでいるようだった。


 会場から少し歩いたところに、大きな公園がある。浜離宮はまりきゅう公園は、都会の喧騒から隔離されたような静けさが広がっていた。


 その砂利道で、颯の少しあとを着いていて行く。歩き慣れない低めのヒールが、砂利に引っかかり何度か転びそうになる。


「大丈夫?」


 颯が手を差し出す。由香は、そのしっかりとした手を握りしめた。細身の彼からは、想像出来ない、がっしりとした男性の手だった。思わず、胸のあたりがキュンとなる。


 もうわずかになった夕陽が、あたりをオレンジ色に染める。揺れる木々たちの隙間から、神々しいほど、キラキラと瞬くように光が漏れた。


 引かれた手の先に視線を向ける。影を作った彼の顔は、どこか真剣で悲しげに遠くを見つめていた。爽やかさを帯びた風が、二人の髪をなびかせた。それを合図にするように颯が呟く。


「夢だったんだ」


 夢ですか? 由香は、そう問いかけようとした。でも、口に出すことはしなかった。颯は、きっとそれに答えてはくれないだろうと思ったからだ。きっと、ふいに口に漏れた言葉なのだ。明確な答えの無いであろうそれを問いただすなど、由香には出来なかった。彼が何を夢見て、何に憧れたのか、その答えを由香はすでに知っている。そして、それに答えることはたぶん出来ない。


 深い緑に囲まれた道を進む。木々の香りが、辺りの空気を一層ひんやりとさせていた。ジャリジャリと、靴が砂利を踏みしめる音だけが響く。握られた手のぬくもりが、手に馴染み少しだけ感覚を鈍くする。


 「颯くんは、どうしてピアノ始めたの?」


 少し流れた静寂を埋めるように、由香は声を出した。池の畔か伸びる木製の橋を歩けば、コツンコツンと足音が変わった。


「父も母も、音楽家なんだ。それで小さい頃から、自然と音楽に触れていたよ。気づいたらピアノを弾いていたよ」


 ビルの隙間から抜けた日差しが、緑色の水面に反射する。キラキラと淡い色にきらめきながら、風に揺れその色をわずかに変えていく。


 大きな池の中央にある、小島で二人は立ち止まった。


「もちろん、音楽が好きだよ。無理に始めさせられたわけなんかじゃないし。今は、生涯を音楽に捧げたいと思ってる」


 とても真剣な表情で、彼はそう言った。揺るぎのない信念だけがその真っ直ぐな瞳を作り出せる。彼は、いずれ偉大な音楽家になるべきだ、と由香は思った。


 木製の格子に蔦が巻かれた屋根が小島を覆っていた。彼の頬に、影が落ちる。少々高い鼻が、よりその影を色濃くする。ふいに、繋いだ彼の手に力が入った、反射的に由香の手にも力が込められる。急に意識が手にいき、今さらになって手を繋いでいることが無性に恥ずかしくなってきた。


 赤らんだ頬は、夕陽のせいになるだろうか。頭の上で風に揺らされ、屋根に絡んだ蔦の葉がカサカサと音を立てた。離してしまいたい、思わずそんな衝動に駆られる。視線を彼の方にやる、動じることなく颯はまっすぐと前を見つめていた。視線はしだいに、肩から腕を通り、重なった手へと向かう。自分の手のひらから伝う、この温もりをいつまでも感じられたならいいのに、叶うはずのない願いを由香は心の中で唱えた。


「由香ちゃんは、どうしてピアノを初めたの?」


「へ?」


 思わず、妙な声が漏れる。しまったと、空いた片手で由香は口を抑えた。クスクスと、由香の反応を見て颯が肩を揺らした。


 ひどい、と由香は目を細め颯を睨む。おっかない、と言いたげに咳払いをしながら、颯はもう一度、聞き直した。


「どうしてピアノを始めたの?」


 由香は、覚えていないはず記憶を辿る。真っ暗なホールに、彼のピアノが響いていた。美しいピアノは、まだ未熟で、雑味がある。それでも幼い由香は、その音に心底感動した。脳内で、何かが弾けたような感覚を思い出す。とてもキラキラしたそれは、やけに真っ直ぐで、屈託のない素直なものだった。脈を打つ静脈を、瞼の奥に感じる。温かな気持ちが、胸の中に溢れていく。肺に空気をめいいっぱい吸い込んだ。切なげな匂いが胸の中に広がり、温かな気持ちと上手く混ざり合う。気持ちのいい感情が目頭を熱くさせた。


 ポケットに締まったパンフレット。そこに真実が書いてある。それでも、それを颯に告げることはしない。


 由香は、そっと目を開いた。切なげな風が、遠くから水面を撫でるように揺らした。驚いたように、水鳥たちが飛び立ち、摩天楼の向こうの空へと消えていく。


「とっても素敵な、演奏を見たから」


 頬の綻びは、いやに大人っぽかった。凛とした表情が、刹那に訪れた夕凪に溶けていく。色っぽくそらされた視線に、まばゆく夕陽がきらめく。艷やかな唇が、ふいにポツリと小さく開く。


「私は、」


 そこまで言って、由香は口を噤む。左手が無意識に、胸の辺りのシャツを掴む。グシャリと、皺を寄せ首元が息苦しくなった。喉の奥に、熱いものを感じる。飲み込めないそいつが、胸の辺りでそわそわとイタズラをする。


 繋いだ二人の手が、キュンと赤らんだ。由香は、大きく息を吸い込むと、右手に込められた力を抜く。ひんやりとした空気が、わずかな隙間をぬい手のひらの中へ入り込んできた。とっさに、もう一度、彼の手を握り込む。


「ピアノが、音楽が、大好きだったんです」


 まるで、感情が溶け出したかのような淡い空気が二人を包み込んだ。静けさに満ちた、池の畔に、帰る場所を見つけたように水鳥たちが降り立つ。


 由香は、とっさに彼の方に目をやる。温もりを孕んだ、その瞳に思わず吸い込まれそうになった。


「それで、」


 紡いだ言葉が、澄んだ空気に浸透していくようだった。輪郭を持たないその言葉が、綺麗に染み渡っていく。


 ビルの縁に隠れた夕陽が、辺りに影を落とす。色味を失った苔が、自生した大木に擬態する。


 「颯くんのことが好き」


 ビルの隙間から差し込んだ夕陽が、二人を包み込んだ。水面がキラキラと映えて、辺りに活気ある色味を加える。


 由香の胸が、張り裂けそうなくらい鼓動を打っていた。同じような鼓動を、繋いだ彼の手からも感じる。


 颯の顔が、ゆっくりとほつれていく。オレンジに赤らんだ頬に、小さな雫が光るのを由香は見た。


「ありがとう、僕も由香ちゃんのピアノが好きだよ」


 伸びた2つの影が、橋の上でひとつに重なっていた。由香は、少しだけ息を吸い込む。心地いい香りが、鼻の奥を刺激する。大きな背中に手を回し、彼の胸元に自身の顔をきつく寄せた。


「でも、僕いかなきゃ」


 知ってる。由香は、彼に届かないくらいの声で返す。背中に回った颯の腕が緩んだ。離れたくない。そう、叫び出したい気持ちになる。それでも、由香は離れていく颯に言葉を掛けることが出来なかった。自分は、あの頃のようなピアノはもう弾けない。そんな思いが言葉を喉元でギュッと抑え込む。


 颯が一歩、後ろに下がる。橋の上に出来た影は、その距離を、恐ろしく遠いものにしていた。


「颯くん、」


 振り返ろうとする颯に、由香は声を振り絞る。さっきまで、繋いでいた右手に、わずかに温もりが残っていた。その温もりを、ギュッと握り込む。


「頑張って。ずっと応援してる」


 少し間が空いて、颯が小さく頷いた。彼の口端がわずかに上がる。紅に染まった頬が、小さく綻んだ。


「ありがとう」


 木々のざわめきが、大きな蠢きに変わって行くように感じた。コツコツと遠ざかる足音を、由香はその場でずっと聴いていた。

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