5 アルバム

 春物の洋服の山がリビングに3つほど出来ていた。その脇で、がさごそと母が押入れの中へと潜っていく。衣替え季節、我が家では定番の光景を、由香は冷蔵庫から取り出した牛乳をコップに注ぎながら眺めていた。


「あら、由香起きてたの?」


 うん、と由香はそっけなく返す。一気にコップの中身を飲み干すと、水道の蛇口を持ち上げ、白く濁ったコップを水ですすいだ。


「こんな朝からしなくてもいいんじゃない?」


「いつも朝から掃除してるのよ?」


 少し拗ねたような言い草で、母は手に持った薄いカーディガンをパンと軽くはたいた。


「由香、明日の東京行く準備は済んだの?」


「うん」


 大きく伸びをしながら、由香はリビングのソファーに腰掛ける。テレビに映った自分の口元に、白く牛乳がこびりついていた。ティッシュで口元を拭きなら、テレビをつける。間抜けな自身の顔から、綺麗なお天気キャスターへと画面が変わった。キャスターは、元気に桜の開花予想を伝えていた。


「もう大学生になるんだから、心配はしてないんだけど、くれぐれも気をつけてね。知らない人について行っちゃだめよ」


「はーい」


 本当にこの人は娘が大学生になるんだと分かっているのだろうか、と由香は思いながら背中越しの母の声に軽く返事をする。チャンネルをザッピングすると、どのチャンネルからも桜ソングが流れていた。悲しげなメロディさえ、ほんの少し励ましになるような気がした。

 

 ドスンと、何かが崩れる音がした。首を持ち上げるように後ろを振り向く。逆さの景色、天井に思える床にダンボールが見事に崩れていた。

 

「もう、なにしてるの?」


 くるりと、由香は体を持ちあげ上手く反転する。床に畳んだ洋服が崩れ、ダンボールから小物が散乱していた。


 あーら、と母は他人事のような口ぶりでダンボールを起こした。ガラガラと、中から溢れ出すように中身が溢れる。


「なにそれ?」


 ダンボールの中には、見慣れないアルバムがあった。少しだけ年季が入っているようで、外装は薄く焼けていた。


「誰のアルバム?」


「あなたのじゃない」


 何を今さらと、いった具合に母が不思議がる。押入れの奥にしまわれたアルバムなど、由香は見たことがなかった。


「いつの?」


 由香が聞くと、母はアルバムを広げ始めた。あれほど丁寧に畳んでいたのに、崩れた洋服は気に留めていないらしい。


「由香は、この頃の自分をあまり見たくないんじゃないかと思ってたから。押し入れの奥にしまっちゃってた」


 母が、適当に開いたページを、由香は食い入るように覗き込んだ。ソファーの背もたれがギギっと軋む。そこには、ピアノを弾く由香の姿があった。


 赤いドレスを纏い、真面目な表情でピアノを弾いている。幼い由香は、真っ直ぐにピアノと向き合っていた。


「別に、見たくなかったワケじゃないけど」


「そうだったの。てっきり、由香はピアノが嫌いになっちゃったんだと思ったてたから」


 母は、悲しげにアルバムを抱きしめた。あの頃の母の温もりを今になって思い出す。一体どれくらいの心配を母に掛けたのだろうか。胸の痛みが喉の奥から突き上げて来た。文化祭でピアノを弾いていなければ、永遠にこのアルバムはしまわれたままだったのかもしれない。


「嫌いになってたのかな」


 ソファーの背もたれの上に、顎をつけながら由香はつぶやいた。朝日に包まれたリビングの温かな空気が、春の心地よさを由香の背中に作る。気持ちとは裏腹なその温もりが、母の優しさのように感じられた。


「由香がピアノをやめたいって言った時、お母さん何もしてあげられなかったから」


 母の目に浮かんだ光るものを、由香は見ないフリをした。痛いくらいに熱い背中の日差しを避けるように、由香はまた反転する。カーテンをすり抜ける強い日差しが、焦がすように目に入ってきた。


「やっぱり、ピアノを嫌いになったことはないと思う」


 正直な気持ちだった。何を嫌になったのか、はっきりとしたものを、今はもう何も覚えてはいないけれど、それでもピアノを、音楽を、嫌いだなんて思ったことはなかった。


 グスリ、と鼻をすする音が聴こえた。それをごまかすように母は声を出す。


「だけどね、由香からピアノをまた弾くって聞いた時は驚いたわ。自分から進んでしようとしてくれたものがまた、ピアノだったから」  


「お母さんでしょ?」


 立ち上がり、母の方を見る。崩れた洋服は、まだ無造作に散らかっていた。


「お母さんが、ピアノ教室に連れて行ったんだよね」


 母は、キョトンとした表情を浮かべたものの、すぐに目尻にシワを寄せた。


「由香が行きたいって言ったんじゃない。あんなに何かに興味を持った由香は、珍しいからよく覚えてるわ」


「どうして?」


 そんな言葉しか出てこなかった。一体、自分がピアノの何に興味を示したのだろうか、不思議なくらいの好奇心がそこに向けられていることに、由香自身は気づいていない。


「近くでピアノの発表会があったの。お姉ちゃんの友達が出ててね。珍しく由香も一緒に来るって聞かなくて、連れて行った帰りだったかな。急に、私もあれをやりたいって言い出してね」


 由香は、ひどく驚いた。自分からやりたいと言い出したなんて、全く記憶になかった。


「男の子の演奏がどうとか言ってたけど」


 男の子という母の言葉に、懐かしい思い出が一瞬よぎる。夕陽に跳ねる影が脳裏をかすめた。あの日、聴いた男の子の演奏が頭の中を巡る。それと同時に胸の鼓動が上がっていくのが分かった。もしかしたら。そう思いながら、由香はあの日、ショッピングモールで聞いたピアノを思い出した。


「その日のプログラム。えーと、パンフレットか栞とかないの?」


「美樹ちゃんが映ってたから残してるはずだけど」


 母がダンボールからいくつものアルバムを取り出す。どれも懐かしいものばかりだが、今はそれを気にしていられなかった。薄い冊子が出てくるたび、胸がドキドキと、脈を打つ。視界がじわじわと狭まっていく。緊張が全身の筋肉を圧迫していき、息苦しく感じてきた。


「あら、これだわ」


 ズキッ、と心臓が一瞬、止まるように感じた。少し、端の方が焼けた冊子には、ピアノ発表会の表紙があった。

 

 徐に、ページを捲っていく。出演者の名前の書かれた欄を、ゆっくりと目で追っていく。数日間、行われていた発表会のどの部を自分は見たのだろう。幼少部門の欄の名前を丁寧に由香は、見ていった。


「あった……」


 由香の目に涙が浮かんだ。やはり、そうだった。自分の中で、あの日、どこか懐かしく感じた訳を、またピアノが弾きたくなった訳を知った。


 大事そうに由香は、胸に冊子を抱きかかえた。自分がピアノを始めた理由が分かった。その喜びと、切なさが冊子に雫を落とした。


「お母さん、これ貰っていい?」


「ええ」


 母は、少しだけスッキリとした表情をしていた。由香は、視界がぼやけていたけど、その母の表情が、どこか懐かしいくとても温かいものに感じられた。

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