4 真実

 罪深い。そうとは思いつつ、由香は手の中の肉まんを頬張った。白い吐息が湯気とまじり、視界を曇らせる。バイト終わりの二十二時過ぎ、家まで空腹を我慢することは容易ではない。奈緒美がシフトのことで店長との面談をしていなければ、こんなひんやりとしたベンチに座る義理もなく、真っ直ぐ家に向かっているところなのだが。


「あれ、立花さん」


 聞き慣れた声に由香は視線を向ける。


「にひはん、こんはんは」


「こんばんは、立花さん」


 肉まんを頬張って口ごもりした由香の挨拶に、彼女は丁寧に返した。


 この深い時間でも、彼女の身だしなみはしっかりとしていた。大人っぽくて出来る女性。由香には、彼女がそう映っている。 

 

「どうしたの? こんなところで食べて」


「ちょっと、ともだちを待ってまひて、」


 ハフハフと、熱い息をこぼしながら由香は口を開く。口を隠した指の先から白い息が漏れ出た。


「西さんは、いま、帰りですか?」


「うん。最近、ちょっぴり忙しくてね。そういえば、久々ね」


 ゴクリ、と頬張っていた肉まんを飲み込む。

 受験の関係でバイトに入る時間がめっきり減った、そのせいか、彼女と会うのは、彼の件を相談した時以来だった。


「そうですよね。あ、この間は、相談に乗って貰ってありがとうございました」


「そうか、あれ以来か。それじゃ、あけおめだね」


 そうですね、と笑いながら、由香は彼女に颯とのことを話すべきかを考えた。忙しいと言われた手前、また相談に乗ってもらうことに遠慮を覚えたが、ここで彼女に近況を報告しないのも違う気がした。


「それで、その男の子とは上手くいった?」


 由香が迷っていると、彼女からその話題に触れてくれた。


「そうですね、なんというか。たぶん、上手くはいってないです」


 彼女は、残念そうな表情をした。どことなく素っ気なく思えたのは、彼女がもう随分、青春時代から時間が経っていたからだろう。深追いをすれば傷つけるだけ。別れなど、人生において幾度も繰り返されるものなんだ、と彼女は分かっているのかもしれない。


「そっか、やっぱり、私なんかのアドバイスじゃダメだったかな」


「そんなことないです」


 由香があまり必死しに否定したからか、彼女は少し強張った笑みを浮かべた。


「ありがとう。でも辛いのは立花さんだもんね。私も何度か振られたなぁ。悲しいよね」


「西さんを振る人がいるんですか?」


「そりゃ、私だって振られるよ。大学の時なんか、友達と好きな人を取り合ってね。まぁ、今ではいい思い出だけど」


 懐かしそうに、彼女は昔を思い出していた。その瞳を見ると由香はなんとなく安心した。きっと、素直な恋はいい思い出になる。汐織は、そういうことを言っているんだな、と由香は思った。


「来月、もう一度だけ会おうと思ってるんです」


「もう一度?」


 彼女は、不思議そうに由香を見る。


「はい。実は、好きだってまだ伝えられていないんです。私が勝手にダメだと思いこんで。でも、次、会ったらちゃんと思いを伝えます」


「そっか、」


 彼女は、由香の隣に腰掛けた。急に縮まった距離に由香は、思わずドキッとする。


「学生時代の恋って言わないと後悔するからね、絶対に言った方がいい」


 きっと、彼女の中で思い出が駆け巡っている。コンビニの明かりに照らされた彼女の背中は、どこか切なげで少しだけ微笑ましかった。


「はい。海外に行く前に伝えないといけないですから」


「海外?」


 急に海外だと言われれば、驚くのも仕方ない。由香は、随分と話を飛ばしてしまった、と思った。


「はい。彼、ピアニストなんです。海外の音大に行っちゃうみたいで。それで思いを伝えても無駄なんだろうと思ってたんですけど、友達に背中を押されて」


 彼女の表情が変わった。穏やかさが消え、ピンと張り詰めた顔の筋肉が、綺麗な眉をわずかに下げる。


「ピアニスト?」


「……はい、といってもまだ学生で、プロではないですけど、」


「ごめんなさい、立花さん。その男の子名前ってなに?」


「……本条颯くんです」


 その名前を聞いた途端、彼女の表情が曇った。動揺した目が、右に左に小刻みに揺れる。理解しがたい、と言いたげに彼女は頭を抱えた。細い二本の指が懸命に、彼女の額を支えていた。


「ど、どうしたんですか」


 不安がる由香を一瞥すると。曇った表情を変えずに、彼女は詰まる言葉を必死に発した。


「違ってたらごめんなさい。立花さんって、もしかしてピアノやってた?」


「はい」


 神妙な面持ちで由香は返事をする。感じたことのない嫌な緊張感がその場を包んだ。


「……どこで颯くんと、知り合ったの?」


「伊丹の教室で、それから少し、ピアノを教わって」


 颯くん。彼女が親しげに彼の名前を呼んだことに、由香は驚いた。それでも淡々と、彼と出会った時の話を彼女にした。由香の話を聞きながら、彼女は無造作に髪を掻く。何か思考するように目がキョロキョロと動いていた。


「立花さん……下の名前は?」


「由香ですけど」


 由香の名前を聞いた途端、彼女の目に涙が浮かんだ。何かを察したように、ぽろぽろと、頬に水滴が落ちていく。どうして彼女がそんな表情をしているのか、由香にはさっぱり検討がつかない。


「……立花さん…… ごめんなさい。謝らないといけないことがあるの」


 彼女は、頭の中で何かを整理したようにシャンとした表情をして、由香の方を見た。それでも目は赤く腫れ、手で擦ったせいで化粧が少し落ちてしまっていた。


「なんですか?」


 ゴクリと、固唾を飲む。口の中から喉の奥に、甘い肉汁が流れ落ちた。


「私なんだ。颯くんに、海外に行くように勧めたのは」


 彼女の言っていることがよくわからない。颯くんとは、恐らく本条颯のことだ。ただ、彼女が海外を勧めた、とはどういうことなのか。


 ――先生からも勧められていたんだけど


 そんな颯の言葉が脳裏に思い浮かぶ。


「ピアノの先生?」


 由香は呟くように声を出した。吐息の多くこもったその声は、白く濁った。


「どこから話したらいいのか……。そうね、立花さんの言う通り、私は颯くんのピアノのレッスンをつけているの。一応、プロのピアニストよ。西千夏っていうの」


 化粧が少し取れたせいか、彼女の顔はどこか幼気だった。必死に何かを伝えようとする目が、神妙に由香を見つめる。


「彼の才能を考えれば、絶対に海外でやったほうがいいと昔から思ってたの」


「それで海外を勧めたんですね」


 由香は、彼女の言い分に納得した。由香自身、彼の才能に計り知れない可能性を感じていた。だからこそ、彼が海外に行くということに疑問はなかった。


「中学生くらいの時から勧めていたんだけどね。でもずっと、嫌がってたの」


 彼が「悩んでいた」と言っていたのを由香は思い出した。彼ほどの力があっても、海外でやることへの恐怖というものがあるものなのだろうか。思い返せば、由香は颯のことを何も知らない気がした。


「彼は、自分の才能を客観的に見ることが出来た。それゆえに陶酔しきれなかった。うぬぼれと言えば言葉は悪いけど…… そういう自信は間違いなく必要。それは上の世界に行けば行くほど。でも彼には決定的にそれが欠けていたの」


 颯のそんな面を聞いて、由香は驚いた。彼の演奏にそんな部分を感じられなかったからだ。初めて聞いた時も、二人きりで聞いた時も、美しく綺羅びやかな音を奏でていた。


「でも颯くんがそんなに自信なさげに弾いていた印象はないですよ」


「だって立花さん、もう随分ピアノから離れてるでしょ? それじゃ分かんないよ。ものすごく繊細で張り詰めた勝負の世界での心の持ち方は」


 突き放されたような言葉だった。ここからは知りえない世界だと、一線を引かれてしまったような。その線の向こう側の景色は、もう由香には分からない。


「私がいくら説得しても、ずっと決めかねていたから。行くならできるだけ早いほうがいい。でも彼の人生だから無理強いできるわけもない。でも驚いたわ。ある日、急に行くと決めたって言うんだ」


「どうしてですか?」


 由香に問いに、千夏の目が反れる。コンビニの明かりで薄い緑に染まった瞳が、申し訳なさそうに俯く。その瞳の奥には、確かな切なさが潜んでいた。


「あなたよ。立花さん」


 名指しされて由香は、目を丸くした。ポッカリと空いた口に、冷たい風が入り込む。確かに颯もそんなことを言っていた。だが、まるで意味が分からなかった。由香は、颯からピアノを教わっただけだ。それも数回。個人的な好意はあったが、向こうが由香に特別な思いを感じているとは思えない。


「立花さんって、東京の町田まちだ市のピアノ教室に通ってたでしょ?」


「えぇ、随分小さい頃ですけど。どうして知ってるんですか?」


 千夏は、それを聞くと徐に空を見上げた。雲ひとつない都会の明かりを反射したような明るい空には、冬の大三角形だけが今が最後と静かに瞬きをしていた。 


「いつだったかな。私がプロになりたての頃、町田市で開かれた発表会の手伝いをしたの。その発表会を主催してた教室が、伊丹のピアノ教室と姉妹関係にあってね。教室に宮本先生っていたでしょ? あの子に頼まれて手伝いに行ったの。彼女と私が大学の同期だったのと、お互いにあの伊丹の教室に通ってた縁なんだけど」


「待ってください。西さんも伊丹の教室に通ってたんですか?」


「ええ、音大に行ってからは、そこで講師のバイトもしてたわ。その頃だったかな、颯くんが伊丹のピアノ教室に来たのは。まだ、幼稚園生くらいだったけど、すぐに彼に才能があることが分かったわ」


 千夏は、懐かしい目をおぼろげに浮かべながら続けた。


「そうだ。颯くんが小学校の低学年くらいの頃だった。もともと東京のピアノ教室に通っていた颯くんの友達が出るからって言うのもあって、私は彼を連れて町田市のコンサートの手伝いに行ったの。その発表会、立花さんあなたは演者として出てたんじゃない?」


「そんな昔のことは……出てたかも知れませんが。…… 、もしかして、あのCDを録った日ですか?」


「うん、そうよ」


 千夏はたまらなくなったのか、コートのポケットに手を入れた。ガサガサと音を立てて、ピンク色のタバコケースが顔を覗かせる。


「颯くんは、あなたの演奏をそこで聴いたのよ。それに心底感動したのね。その日から、彼は今まで以上にものすごく練習に打ち込んだ。この頃くらいかな、私が彼を育てる為に専属として彼につくようになったのは」


「どうして、颯くんは、私なんかに」


「ライバルだと思ったんじゃないかな? 確かにあの頃のあなたは、驚異的って言っていいくらいだった」


 千夏の細い指が光沢を帯びたケースを撫でる。透明なマニキュアが塗られた綺麗な爪作が、ケースのビニールを引っ掻いた。


 由香は、自身の演奏が人にそんな影響を与えていたなんて考えたこともなかった。それに、驚異的だなんて、由香は自分の演奏がそんなに秀でたものだと、感じたことはない。


「立花さんも自分に自信持てない? 随分、賞は貰ってたって聞いたけど」


 確かに由香は、賞をいくつか貰っていた。それでも自分よりうまい人はいくらでもいると思っていた。今のうちだけだ、と思っていた。年齢が上がるに連れ、上の人と競わされるようになる。それで、いつの間にか比べられることへの拒否感が増していったのかも知れない。


「伊丹の教室に、あの日の発表会で弾いていたうまい子が来たと知ったのは、最近のこと。私も忙しくて、教室には行けなかったし、気づいた時には、あなたはピアノを辞めてた。あなたがピアノを辞めたって聞いてから、颯くんは、随分落ち込んでたわ。宮本先生が持ってた当時の同録を貰ったのもその頃。ずっとあなたの演奏の部分だけを繰り返し聞いていた」


 千夏は、封の開いたケースから煙草を一本取り出し口に加えた。ライターを探っていたいたところで、由香と視線がぶつかり、彼女は咥えた煙草をケースに戻した。ピンク色の口紅が、白い巻紙にわずかに付着していた。


「それで、最近、颯くんが教室に何度も足を運ぶようになったの。初めは、宮本先生に教示を受けてるのかと思ったけど、途中から違うって分かって。CDで聴いている子が見つかったんだって、その子から刺激をまた受けて元気になってくれたって。そんな風に簡単に考えてた」


 由香は、ただ黙って彼女の話を聞いていた。冷え切った肉まんの温度が、手の中で随分と痛く感じられた。颯の持っていたCDのことを思い出す。きっと、彼女が言っているのはあの日のことだ。確か、小学三年生くらいの時だった気がする。色んなことが、由香の中で繋がった。


「でもまさか、いつもコンビニで会う、あなたがあの演奏してた子だったなんて。初めて聞いたあの演奏の時以来、私はピアノを弾くあなたに会ってなかったし、分かるわけないんだけど」


 千夏の目に、また涙が浮かんでいた。キラリとそのひと雫が、凍りつくような冷たい風に拐われる。


「それでも、こんなつもりはなかったんだ。本当に立花さんの恋を応援したかったし、颯くんには、海外で成功して欲しい一心だった。でも、ごめんなさい。結果的にあなたの恋の邪魔をしてしまった」


「西さんは悪くないですよ」


 駅前の駐輪所から出てきたバイクのヘッドライトが、二人を照らす。騒がしさと共に訪れたまばゆい灯りは、すぐにその場を離れ、やがてもとの静けさが襲うようにやってきた。


「そうかな?」


 幼気な面に、随分と大人びた瞳が貼り付いている。その眼光は、真っ直ぐに由香の方を見ていた。


「今、こんな風に思わない。『あなたも颯くんが好きなんじゃないですか?』って」


 彼女から出た意外な一言に由香は、思わず頷いてしまいそうになる。企みのない千夏の表情が何を物語っているのか、由香には到底理解できなかった。


「そうなんですか?」


 由香が絞り出したか細い声が、空気を小さく震えさせる。含みをもたせるように、千夏の眉が上がった。


「たぶん、だけどね。随分、年下だけど。カッコよくて、優しくて、大人っぽくて、ピアノが上手で、あなたが好きになるのも分かる。私も同じように、そう思ってるんだよ。でも私は、海外に行けない。その力がない。でも彼は違う、それなら私に出来ることは、彼の成長を手助けすること。ただそれだけ」


 きっとそんな風に思っているのね、と千夏はおどけてみせた。そのまるで、子どものような無邪気な表情とは裏腹の気持ちを、由香は汲み取るしかなかった。きっと、彼の才能が羨ましく仕方がないのだ。


「私は、」


 由香の目がそわそわと動く。それでも、こっちを向いたままの彼女の瞳を、じっと見つめた。


「私は、西さんに感謝してます。颯くんのピアノをこれからもお願いします」


「立花さんも、颯くんのピアノが好きなのね」


 涙混じりの笑顔で二人は見つめ合った。朗らかな千夏の目が、かすかに揺れる。こぼれそうな瞳が、なにか言いたげに由香を映していた。


「今、いえ……今も颯くんのピアノを突き動かしているのは、紛れもなく立花さん。あたよ」


 その千夏の言葉に孕んだ意味を、由香は痛いほど痛感した。それでも今の自分に彼を満足させる腕はない。彼がいくら由香の影を追いかけても、あの頃のような演奏は由香には出来ないから。


 震える手に必死に力を込める。わずかに揺れる唇から、何かを発そうとしてみるが、言葉が見つからない。その様子を見た、千夏が小さく笑みをこぼす。


「大丈夫、きっと颯くんは答えてくれる。彼は自分の答えを出したから、次はあなたの番」


 千夏が由香の手を握りしめた。細い指から温かなぬくもりが伝わる。肉つきの少ない華奢な手だ。それでも由香の手のひらを包むほどの大きさがあった。


 その時、軽快なリズムを奏でて、コンビニの扉が開いた。由香が目をやると、奈緒美が不思議そうな顔をしてこっちを見ていた。

 

「どうしたん由香? その人は? いつもの?」


 キョトンとする奈緒美を見て、千夏は励ますように由香の肩を軽く小突くと、小さく息を吐き立ち上がった。


「お友だち来ちゃったね。それじゃ私は」


「西さん……」


 千夏は、由香の言葉を遮るように、小さく手を振った。どこか、悲しげな表情をストールが隠す。少しだけ細くなった瞳から、最後に一滴だけ涙が光ったのが見えた。

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