3 心にない方を選ぶ後悔

 頭がキーンと痛んだ。由香は、おでこの辺りを指で強く抑える。じわじわと脳内に拡散するように、次第に痛みは和らいでいった。


「急いで食べるからやん」


 奈緒美が可笑しそうに由香を見た。意地の悪い笑みを浮かべて、クスクスと声を漏らす。彼女の前に置かれた氷は、ブルーハワイの綺麗な青でコーティングされて、夏を思わせるフルーツが盛られていた。


「絶対なるでしょ、これは」


「ゆっくり食べたらならへんて」


「そうかも知れないけど」


 口の中に、また冷たい食感が広がる。喉の奥を痛みに似た刺激が通過していく。イチゴの甘いシロップの香りが鼻を通り抜けてきた。 


「うーん。美味しい」


 奈緒美の隣では、汐織が幸せそうに白玉のかき氷を口に運んでいた。息継ぎをする間もないほどの早さで、氷の山が次々に削られていく。


「汐織、頭痛くならない?」


「平気、平気」


 あまりに勢いのいい汐織に、そもそも体の構造が違うのではないか、と由香は思う。汐織のかき氷は、すでに隣の奈緒美のかき氷の半分ほどになっていた。


 阪急西宮北口に隣接しているショッピングモールの一角にある氷菓子屋で、三人はかき氷を食べていた。お昼ご飯にしては不十分と思いつつ、受験勉強のため最近はあまりバイトも入れておらず、財布に余裕はなかった。


「食べたなー」


 奈緒美が満足気に腹を擦る。机の端には、黒い筒が無造作に置かれていた。


「かき氷も意外とお腹に溜まるね。流石にちょっと、寒いけど」


 体を擦りながら由香は席から立ち上がる。椅子の背もたれに掛けたコートを手に取って袖を通した。


 空調に温められた生地が腕を包む。会計をしようとカバンから財布を取り出そうとしたところで、ふと、視線を感じた。二人の方に目をやる、真剣な面持ちで二人が由香の方を見つめていた。


「どうしたの?」


 由香の言葉に、二人は顔を見合わせる。再び由香の方に顔を向けると、表情を崩すことなく「座って」と汐織が言った。そのあまりに真面目トーンに、由香は黙ったままコートを背もたれに掛け席に戻る。


「由香ちゃん、ずっと元気ない」


「そ、そうかな」


 由香は、空のグラスのストローをすする。ずるると、底に残った水が氷の隙間で音をたてた。


「受験があって、ずっと聞けんかったけど、年明けから由香ちゃんずっと元気なかった。イブの日になんかあったんとちゃう?」 


「……うん。ちょっと」


 由香は、視線を反らしながら小さく頷いた。店内には、少し切ないピアノのインストが流れていた。曲に合わせるように由香の表情が曇っていく。


「正直、聞くかどうか迷ってんけど、汐織と話して、やっぱり聞こうってなって。私なんて相談役になれんかもやけど、何にがあったか話してくれへん」


 奈緒美の目の奥には、切なさが潜んでいた。短くなった髪が、その双眸をよりはっきりと由香に見せつける。そんな彼女を見るのはとても痛々しかった。あまり自分を責めてほしくない、と由香は唇を噛みしめる。


「なんというか、」


 うまく伝えられる気がしなかった。自分の中のごちゃごちゃした感情が頭の中で掻き乱れる。どうしても収集がつかなくなった気持ちを由香は必死に拾おうとしていた。


「うちが無理に行ったほうがいいなんて言ったから。ごめんな」


「汐織のせいじゃないよ、」


 むしろ、後押ししてくれたことに感謝しているくらいなのに。身を乗り出した反動で、机がガタリと揺れた。絶妙なバランスで重なっていた氷がカランと音を立ててグラスの中で崩れ落ちた。


「汐織のせいじゃない。それに、振られたわけじゃないと思うんだ。でも、もう会えないかも知れない」


「なんで?」


 奈緒美の眉に皺が寄る。すっかり白くなった肌に濃く刻まれたそれは、確かに不快感を示していた。


「彼ね、大学は、ヨーロッパに行くんだって。ピアノを教えてくれている先生からの推薦。卒業したら向こうでプロになるって。それじゃ、私、好きなんて言えないじゃん」


 嗚咽まじりに由香が思いを吐露した。店内にいる客の視線が向けられるが、それを気に留める余裕は三人になかった。


「そっか」


 奈緒美のグラスを握る手に力が込められる。やり場の無い思いが、痛々しくグラスを揺らした。


「本当は、めちゃくちゃ好きだよ。でもずっと海外なんて。もう会えないじゃん。それなら好きなんて言えない」


 大粒の涙が制服のスカートに落ちていく。小さなシミがいくつもでき、次第に視界がぼんやりとぼやけていった。


「好きって堂々と言えるようになったんや」


 汐織の言葉に由香は頭を上げる。驚くほど、大人びた彼女の表情に、ほんの一瞬だけ由香の涙が引いていった。


「でも好きって言った方がいいと、私は思うな」


 まるで年下をあやすような口ぶりにも、不思議と苛立ちは起きなかった。それは、本質的な差を感じているのか、彼女の性格的資質がそうさせているのか、由香には分からなかった。


「どうして?」


 また溢れ出しそうな涙を拭いながら、汐織に真意を問う。


「後悔してほしくないから。きっと由香ちゃん後悔する。このまま、永遠にさよならなんてしちゃダメ」


 汐織の声は、驚くほど優しく柔らかいものだった。由香を諭すように、ゆっくりと彼女は言葉を紡いだ。


「今、由香ちゃん苦しんでるんやろ? 忘れなあかん、って考えて、それでもやっぱり忘れられへん」


 指先で涙を拭いながら、由香は頷く。


「でも私は、由香の気持ち分かるで。このまま、忘れてしまいたいんよな。叶わないものを必死に追いかけても傷つくだけ、一日でも早く忘れてしまえれるならどれほど楽か」


 まるで自分に言い聞かせるように奈緒美が言う。ただそれは、決して身勝手なものや同情のようなではなく、由香の立場に立って出たものに感じた。今なら、あの日の奈緒美の気持ちが、由香には痛いほど分かる気がした。

 

 ガラスの皿に人工的な色味が着いた透明な液が残る。それに映り込む歪んだ自分の表情を見つめると、ひどい顔をしていた。重たい空気が、一瞬出来た間を恐ろしく長いものに感じさせた。息を飲むタイミングさえわからなくなるほど、張り詰めた空気はとても嫌なものだった。


「大切なことを忘れてるで」


 ピンと伸びた糸を切るように、汐織が口を開く。由香を見つめるその瞳は、冬の朝の空気のように澄んでいた。


「心がどう思ってるか、ほんとに忘れたいと思ってる?」

 

 由香は素直に、うん、とは言えなかった。それでも、喉の奥から何かが出てこようとする。ぐちゃぐちゃに丸められた感情が喉の奥に突っかえる。思わず由香はそれを飲み込んだ。

 

「人がなんで後悔するか。心にない方を選ぶからやで」


 本当に彼を忘れてしまいたいと思っているのだろうか。彼のことを考えると胸が苦しい。忘れてしまえればどれだけ楽だろうか。由香の複雑な胸の内にあるものは、自身でも分からないほど混沌としていた。


「でも、会いたくない、って思う気持ちが全く無いわけじゃないんちゃう?」


 奈緒美が汐織に食って掛かる。自然と眉間に皺が寄っている。言葉の節々が、鋭く尖り彼女がひどく苛立っていると分かった。ただ、そのつぶらな瞳は、薄っすらと水膜が張り、わずかに揺れていた。


「そりゃそうや。人やもん。百パーセントなんて気持ちがあるわけないと思う。でも、もっと、もっと、素直にならんとあかん」


 汐織はどういうワケか、水の残ったグラスを手に取ると、下に敷かれていたコースターに手を伸ばした。


「それならこうしよう。由香ちゃん。このコースターを投げて、表が出たもう一度だけ会う。裏なら会わない。分かりやすいやろ?」


 二人の表情が曇る。大事なことをこんなやり方で決めるというのは、納得出来るものではない。どうしてこんなことを言い出したのだろう? 彼女の提案に、由香はひどく疲弊した。


 二人の不満そうにする顔を見てみぬふりをして、汐織は有無を言わさず握り込んだ親指の上にコースターを乗せた。小さなグラスが乗るほどの円形のコースターが、彼女の華奢な手を覆い隠す。汐織の指に弾かれ、コースターが宙を舞った。


 何度も、何度も、裏表を反転させながら、やがて重力に引かれ落下する。汐織は、手元へと戻って来たコースターを上手にキャッチしてみせる。彼女は、もったいぶることなく、手の甲に重ねた逆の手のひらをゆっくりと開いた。


「裏や」


 奈緒美が呟く。


 乾いた空気が辺りを包んだ。静かな店内に、ショッピングモールの雑音が響く。由香は、奥歯を噛みながら必死に溢れ出そうな感情を抑え込んだ。汐織が、イタズラにこんなことをしたわけではないことは分かる。それでも腹立たしさがこみ上げて来る。彼女の胸についたあまりにカラフルな卒業式用の花の飾りさえ由香の怒りを増幅させた。奈緒美の方を見る余裕もなかった。由香の目に映る汐織の表情は相変わらずで、さすがに諌めようと思った。

 

「由香ちゃん。今、どっちが出てほしいって願ってた?」


 汐織の言葉に、由香はハッとする。汐織のその一言で、あれほど複雑だった心の中が一瞬にして、整理されてしまった。硬貨が宙を舞う間、自分でも気づかないうちに、表が出てほしいと願ってしまっていた。汐織の言いたいことが分かった。素直になる、ということがどういうことなのか。


 いつの間にか、自分は心にもない方を選んでいた。涙を拭いながら、由香は声を震わせる。


「私、やっぱりもう一度、会いたい。会ってちゃんと言いたい。ダメでも構わないから、もう一度だけ」


 由香の涙を見てか、奈緒美も同じように目を赤くしていた。それを見て、汐織は微笑ましそうに表情を緩めた。


「彼、いつ向こうに行っちゃうん?」


 泣いていることを誤魔化そうとしてか、奈緒美は強い口調で由香に問いかけた。


 泣いてるんでしょ? そう言いたげに、汐織はクスクスと声を漏らしながら、奈緒美にハンカチを手渡した。奈緒美は、荒々しく目元を拭うとハンカチを手で握りしめた。


「来月、リサイタルをやるらしいから、たぶんそれが終わってから」

 

 由香は財布にしまっていたチケットを出した。こんなにも丁寧にこれが財布に入っているということが、自身に嘘をついていた明らかな証拠なのかもしれない、と心の中でつぶやく。


「東京かぁ。遠いな」


 奈緒美が、チケットに表記された会場を見て言った。


「ほんま? ヨーロッパより随分、近いと思うけどな?」


「言えてる」と笑いが起こった。したり顔の汐織が由香の方を見る。

 

「由香ちゃん、これが最後のチャンス。後悔せんように」


 今まで以上に真っ直ぐな瞳の奥に、自分の顔が映って見えた。思いの外、あっけらかんな表情に思わず笑いがこみ上げる。


「もう、真剣に言ってんのに」


 こんな表情になったのは君のお陰だよ、と心でつぶやきながら汐織の頭を撫でてみる。

 ぷっくらと膨らんだ汐織の頬は、くしゃりとした笑みの中で萎んでいった。

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