8 White X’mas Date(Part2)

 その建物は、異人館の広場から西に少しはずれたところにあった。アメリカンな雰囲気を醸し出した小さな一軒家は、大正時代に立てられたもので、その古めかしいアーリーアメリカンな洋館の中には、溢れんばかりのテディベアが飾られていた。


 可愛らしいクマたちが、机から落っこちやしないかと心配になるほど所狭しに並んでいる。部屋一面に広がるテディベアを見て、由香は目を輝かせた。


「こんなところがあったんですね」


「由香ちゃん好きなんだね」


「はい。小さい頃、いくつか持ってました」



 自分なんかよりも、汐織が見たらもっと騒がしいことになるだろうな。由香の脳内にテディベアにはしゃぐ汐織の姿が浮かんだ。静かな部屋の中に、アメリカンフォークが響く。張り詰めた弦の音に合わせて、優しい女性の歌声が乗る。その曲を由香は知らなかったが自然と心がなごんだ。


「今は、もう持ってないの?」


「引っ越した時に、捨てたか失くしたか。幼稚園の頃のことなんで、あんまり良く覚えてないんですよ」


 ふと、由香は自転車のキーについているクマのことを思い出す。どうして、元町でクマのストラップを買ったのか。あれは、奈緒美の記憶違いじゃないだろうか。パンダの代わりなんかじゃなかった気がした。



 それから、元町の中華街で食べ歩きをしながらめぐり、ハーバーランドの方にまで来た。


 神戸ガス燈通りは、休みだからかクリスマスだからか、フリーバザーが催されていた。通りにいくつものテントが並び、アクセサリーや絵、洋服といった手作りの品々が売られていた。


 オレンジの色の陽が海に反射する。ビルに跳ね返るその光で、もうすぐ夕暮れなんだと由香は気づく。楽しかった一日が、終わりを迎えようとする切なさが、海風に連れられてやってきた。



「なにか温かいもの買ってこようか?」



 傾いた陽がより一層、寒さを助長した。ビルの隙間を縫うようにして吹き込んでくる風に、由香は身震いした。颯は、隣接するショッピングセンターに入ったコーヒーショップを指さす。


「うん。お願いします」



 由香は、颯を待つ間、近くのテントを覗いた。ピアノを弾く、可愛らしい少女の絵が目に止まった。赤いドレスを纏った少女は、微笑ましく家族に囲まれている。クリスマスツリーの周りには、いつくものプレゼントが並べられ、少女やその家族はなんとも幸せで温かい表情をしていた。きっと、彼女がクリスマスソングを弾いているのだろう。


 ガス通りを吹き抜ける冷たい海風が、通りのテントを揺らした。ざわめきが遠くから波のように押し寄せる。それに驚いた赤子の泣き声が遠くから聞こえた。その声に裂かれたように、ふと、あたりが静かになった気がした。


 波の音が鼓膜を揺らす。その波に寄り添うように、柔らかなピアノの音が聴こえてきた。まるで、穏やかな時の流れに逆らえない夕暮れの切なさを歌にしたような優しい音だ。思わずこの絵から流れてきたのではないか、と思ってしまう程、美しく優しく繊細なメロディだった。


 遠く茜色に映えた雲を見つめる由香の視界に、湯気を漂わせたカップが飛び込んできた。


「どうしたの?」


 颯は、白いカップを由香に手渡す。手袋越しに、その熱さがしっかりと伝わった。


「ううん。ちょっと、遠くからピアノの音が聴こえてきたから」


「本当に?」


 颯は、目を閉じて耳をすませた。それでも颯には聴こえないらしい。悪戯に首を傾けた。


「耳いいね。どっちから?」


「向こうの方かな。でも、すごく小さい音」


 由香の耳を頼りに、二人は海側の方へと向かった。カラフルなレンガ作りの階段を上がり、商業施設の海側に通じる通路を抜けると、真っ赤な観覧車と海が見えてきた。ぼんやりとイルミネーションが灯っている。夕日のせいで、その鮮やかな色味をはっきりと識別することは出来なかった。


 海側の通路を通り見晴らしのいいところまで歩く。


 ショッピングモールの海側にあるモザイクガーデンと呼ばれる広場は、海の上に浮いているようなデザインになっていて、高いところから見下ろせば、まるでこのショッピングモール全体がひとつの大きな豪華客船のように感じた。

 マストから海を見下ろすように、由香は木の柵にもたれながら広場を眺めた。


 海の奥に赤く染まった神戸タワーが見える。六甲山から吹き降りる風が、海風とぶつかり悪戯な旋風を生んだ。細い指先で、目にかかる髪をかき分ける。


 綺麗な音楽が聞こえた。優しく温かいメロディが鼓膜を揺らす。遠くまで聞こえてきた音楽はこれだ。


 下の広場には人だかりが出来ていて、その輪の中心では、電子ピアノ、バイオリンにチェロ、小編成のオーケストラがクリスマスソングを演奏していた。カップルや子ども連れの夫婦が、その演奏を幸せそうに聞き入っているのが上からよく見えた。


「由香ちゃん、あそこからよく聴こえたね」


「耳はいいんです」


 少し自慢げに由香は照れる。二人は、そのまましばらく、その場で演奏を聞いていた。軽快なリズムと楽しげなメロディが時間を忘れさせる。手に持ったコーヒーが、いつの間にか冷たくなっていた。自ずと夜が訪れる。気づけば、海の向こうのビルやタワーが綺麗な光を放っていた。


 冷たい潮風が、頬を痛めつけた。ギュッと力を込めた手で、紙コップが歪む。プラスチックの蓋が、パキりと音を立てた。



「やっぱり、私、ピアノが好きです」



 ミュージシャンたちは、片付けを始め出していた。軽快だった音楽は止まる。海風が運ぶ街の騒がしさは、夜の帳が下りるのを拒んでいるようだった。


「良かった」


 安堵が混じった息を、颯が漏らす。柵の上に置かれた紙コップを、飛ばされないように、颯は両手で優しく包み込む。由香は不思議そうな顔をした。どうして? と首をかしげる。


「どうしてって、僕は誰にもピアノを嫌いにはなってほしくないよ。もちろん、由香ちゃんにもね」


 颯の言葉は、冗談交じりだった。照れと本音が入り混じったその声色に、由香の頬は緩まる。少しだけ気持ちが軽くなった。ふいに心の底にある何かを吐き出したい衝動にかられた。



「でも、たぶん…… コンクールとかそういうのは嫌いなんです」


「どうして?」


「どうしてなんでしょうか」


「順位をつけられるから?」


「多分、そうかもしれないです…… あんまり覚えてないんですけど。ただ、楽しく弾いていたいんだと思います」


「順位があるのは、仕方ないことだよ。何がいいものなのか、人は、優越を着けたがるものだから」


「それは、そうですけど。でも苦しかったんです。どう弾けば良く思われるだとか、こう弾けば審査員に評価されるだとか。窮屈で、」


 由香は、言葉を詰まらせた。曖昧な記憶が、複雑な感情を蘇らせる。その痛みが、嫌な思い出の袋を切り裂く。中から呼び出した、ぐっちゃりとした液体が、胸の中を埋め尽くした。



「楽しく弾いていたい、って思うことはダメだったんですかね?」


「そんなことないよ。音楽って、きっとそうあるべきだから」



 何色もの光が、次々に目に飛び込んで来た。漆黒の海の向こうに、摩天楼の灯りが浮かぶ。鮮やかな光に、由香は胸が締め付けられるほど感動した。


「すごいね、イルミネーション」


 颯の呟いた言葉に、由香は頷く。颯も同じように感じていたんだ、と由香の手にギュッと力が入った。紙コップの皺がより濃くなる。冷えたコーヒーの冷たさが、手袋越しに伝わった。ひんやりとした感触に負けないくらいの胸の温かさが、その温度をわずかに上昇させた気がした。


 由香は、颯の顔を見つめる。黒いマフラーの隙間から、彼の白い吐息が漏れた。きらびやかな夜景を映した瞳が、海の遥か遠くを見つめていた。うぉー、と船の汽笛が響く。ビルに反響するその音が何重にも重なり、オーケストラのような重厚な音色に変わる。


「寒くなった?」


 視線に気づいた颯が、由香の方を見返した。思わず、由香は視線を反らす。由香たちと同じように、美しい街明かりを見つめる何組ものカップルが、広場で寄り添っているのが視界に入った。


「大丈夫です。それよりすごく綺麗ですね」


「うん」


 心臓の鼓動が、ドクドクと脈を上げる。一秒一秒、確実にそのスピードは上がっていく。この胸を張り割いて取り出してしまいたいほど、苦しくて、嬉しくて、幸せな気持ちが溢れ出し、胸の中を満たしていく。それと同じくらいに、気持ちを伝えることが恐ろしかった。寒いはずなのに、体は火照る。コートを脱ぎたいほど熱く感じる。抑えきれない感情は、胸の中にとどまらず、由香の喉を通り、口から飛び出した。



「あのね」



 由香の声は、颯の言葉に掻き消された。思わず掛けられた言葉に、由香は唖然と目を丸めた。



「なんですか?」



 ゴクリと固唾を飲み込む。イガイガとしたものが喉の奥に突き刺さる。吐き出しかけた言葉は鋭く、飲み込むと随分ひどい痛みとなって由香を傷つけた。それでも、颯の真面目な表情に、胸の痛みは不思議なほどすぐ消えていた。


「由香ちゃんにこれを」


 そう言って、颯が一枚のチケットを手渡した。


「これは?」


「来年、東京でリサイタルをするんだ」


「リサイタル?」


「とは言っても、東京で通っていたピアノ教室が合同で行うイベントの一環なんだけどね」




『本条颯 ピアノリサイタルin浜離宮はまりきゅう朝日ホール』




 チケットにはそう書かれていた。


「うん、僕、決めたんだ」


 由香は、なんとなく嫌な予感がした。次の颯の言葉に、自分は傷ついてしまうのではないか。そんな不安に襲われる。颯の何かを決心したその表情が、そう告げている。それでも、由香は彼の目から視線を反らすことが出来なかった。辺りの音が次第になくなり、ゆっくりと颯の言葉だけが由香の耳に流れ込んできた。


「来年の春から、ヨーロッパに行こうと思うんだ」


 言葉の意味が分からなかった。きっと留学だ。自分の中でそう噛み砕くのに、随分、時間が掛かった。それでも本当は、ほんの数秒の出来事だろう。


「ヨーロッパ…… ?」


「うん。随分、迷っていたんだけど。大学を向こうにしようかと思って。パリの音楽大学。プロになれるかどうかは分からないけれど、挑戦してみたいんだ。先生からもずっとと勧められていたんだけど、中々踏ん切りがつかなくて、でも由香ちゃんの演奏を聞いて、決心したんだ」



 きっと『君のおかげだ。ありがとう』と言ったつもりなのかも知れない。ただ、そんな言葉は、なんの慰めにもならなかった。ひどく傷ついた。泣き出しそうな思いを噛み殺し、出来るだけ笑顔を作る。それでも寂しがっているんだ、自分の嘘は見破られるに違いない。そう期待した。


「そうですか。それなら頑張らなきゃですね」


「うん。ありがとう」


 見事に思いを秘めることに成功する。どうして、こんな時にだけうまくいくのだろう、と由香は自分の嘘を嫌った。



 ――最終楽章へ続く

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